「なに、その及川って奴」

俺の声は驚くほど低かった。目の前の空は分かりやすいほどに顔を引き攣らせていた。『お前及川さんにキスされたのか』同じくドスの効いた飛雄の声が微かに聞こえた。

及川、確か飛雄の"前"の先輩だったはずだ。意地の悪い奴で、よく飛雄の口から洩れていた名前。現在は宮城の青葉城西の超攻撃セッターとして活躍。今の飛雄が俺の後輩だったのだから、今の空の先輩は及川なのか…ふーん。で、キスってどういう事?俺は空に詰め寄る。「あ、赤葦さん?」空が後ずさる、でもその先は壁だ。空を追い込んで、手からスマホを奪い取る。

「飛雄、ちょっと空と話するから切るね」
『及川さんに殴り込み行きましょうか?』
「問題起こすなよ。飛雄とその及川って奴、今は見知った顔じゃないんだろ?」
『…そういや、そうっすね』
「まぁあとで連絡入れるよ、じゃ」

電話を切り、取り敢えず自分のポケットに空のスマホを仕舞った。壁に手を付く。さて、聞かなきゃいけない事が沢山だ。縮こまる空を見下ろす。


「ねぇ、及川って誰?」
「…私の、中学の時の先輩で…前の飛雄の先輩です…」
「じゃあ次、及川と空の関係は?」
「…せんぱい、こうはい…で」
「そのただの先輩の後輩の関係が、キスってどういうこと?」
「それは、及川さんが私をからかって」
「からかってキスする先輩なんだそいつ」

う、空が徐々に腰を下ろす。ぺたり、床に座り込む空に視線を合わせるように俺も腰を下ろした。空は薄く口を開く。

「キスっていっても、おでこでしたし。及川さんだって笑ってたし、ただの嫌がらせですよ。及川さん、そういう人ですもん」

なんだ、おでこか。その事実には安心した。でも、だからといって許せるものではない。おでこであれ口であれ、キスするってことは、そういう感情があるってことだろ?ムカつく、俺の知らない奴が、俺の知らないところでそんな感情を持つ事が、許せない。

「悪い、先輩だね。及川って奴」
「…意地悪でしたけど、でも凄い人でしたよ」

ふーん、そんな事言うんだ。俺は空の頬に手を滑らせる。逃がさないように、片腕で逃げ道を断つ。俺は顔を近づける。「あか、あ」か細い声が聞こえた。それに構わず、俺は唇を空の首に押し付けた。びくり、と揺れる空の身体。あーあ、こんな事するつもりはなかったのに。俺は顔を上げて空と目を合わせる。怯え…られてはいないようだけど、表情は固まっていた。

「俺も、悪い先輩だな」
「は」
「ごめん」

先に謝っておくよ。俺はそのまま空にキスをした。リップ音、遠くで人の話し声や足音が聞こえる。一番良く聞こえたのは、自分の心臓の音だったかもしれない。


「ごちそうさま」
「……」

ピシッと石の様に固まる空に俺は笑って頬にキスをした。





◇◆◇



『というわけでキスしちゃったわけなんだけど』
「赤葦さんも大概じゃないですか」
『今更反省してる…』

声色からして本当に反省しているようだけど、何やってくれてんだこの人は。赤葦さんが空の事を好きという事は知っているけれど、いくらなんでもそれはないだろ。電話片手に俺は悩む。

「赤葦さん、及川さんと違って優しいし、人柄いいし」
『…ありがとう』
「だからと言ってキスする事を良しとしてないですけど」
『…すいませんでした』

聞けば及川さん、キスしたと言ってもおでこだったらしい。それくらいだったらあの人、からかい半分でやりそうだし。でも、赤葦さんは口にしたらしい。結果、罪が重いのは赤葦さんという事で。


「赤葦さん次会ったら憶えておいてください」
『俺の応援はしてくれないんだ?』
「それとこれとは話が別です」

で、その後空とはどうなったんですか?気になる事を口にした。空の事だし、その時はかなり動揺しても明日にはけろっと学校に行きそうだ。問題は、今日どれだけ空が荒れているかだ。


『両手でこう思いっ切りバシンッ!と』
「うっわ…痛っ」
『ガチのヤツだったからね。今頬冷やしてる』

冷やさなきゃいけないほどってどんな威力だ。思わず自分の頬を撫でてしまった。『その後無言で脱兎の如く逃げられた』赤葦さんはそれ以降空とは会っていないらしい。俺のところに電話来るかもしれないな…そう思うと

「赤葦さん、電話切って良いですか」
『飛雄俺より空優先だよね』

当たり前じゃないですか。
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