小さいころから変なものは見えていた。首の無いヒト、手だけが宙を浮いている。顔が潰れた犬。子供の頃はそれがなんなのか全く理解していなかった。理解もしていなかったし疑問にも思っていなかった。それが異常であるという事に気付いたのは、だいぶ遅かった。

桜の咲く季節、俺は父と二人近くの公園に花見に来ていた。「飛雄、何か食べたいものはあるか?」と優しく微笑む父に「たこやき!」と強請った俺。「勝ってくるから、ちょっとここで待ってろ」と大きな桜の木の下、俺の頭を撫でて父は屋台の方へと駆けて行った。俺はその場にしゃがみ込み父を待つ。ふと、自分の上に影が落ちる。上を向くと何かが居た。俺は首を傾げて場所を移動する。木から離れて上を見上げるとやはりそこには人がいた。高い高い桜の木、女の人が俺を見る。俺は手を振ると女は笑った。


「飛雄、何してるんだ?」

手にたこ焼きを持ち、戻って来た父が不思議そうに俺を見ていた。「あのね」俺は口を開く。その時の父の表情が忘れられなかった。この時漸く、俺の見ている世界は異常なのだと気付かされた。


「あそこに首に縄を巻き付けてる女の人がぶら下がってるの。あの人俺の事を「可愛い坊や」って呼ぶんだ」

ほらあそこ、すごい高いところでぶら下がってる人。指差す先になにも居なかった。「あれ?」首を傾げる俺を抱き上げ、父は猛スピードで駆けだした。たこ焼きや、りんご飴を地面に投げ捨てて。抱き上げられながら、俺は桜の木を見た。さっきまで俺が立っていたところに、桜の木にぶら下がっていた女の人が立っていた。女の人が、笑っていた。




あそこではよく死体が発見されるらしい、後に聞いた話だ。登れるような高さでもないのに梯子なども無く異常に高い位置で首をつる人が後を絶たないのだと言う。その中には子供も居たらしい。内容を理解出来るようになったくらい成長してから、その話を聞き俺はぞっとした。ただ、父が俺を抱きかかえて逃げた日から、あそこで自殺する人は居なくなったらしい。


「飛雄が気づいてくれたから、きっと満足してくれたんだろう」

引き攣った顔をしながら父は言った。多分、そうは思っていないんだろう。もしあれが自分の息子を狙いに家まで憑いてきていたら、と気が気で無かったんだと思う。でも俺は大丈夫だよ、と言った。

「黒いのが、女の人覆ってたから」


お母さんなんだ、と笑う俺に父は顔を凍りつかせた。






◇◆◇


ある時、黒いもやを見るようになった。他の変なものはくっきりと見えるのにそれだけは、歪んだように見えるのだ。偶に、それは俺の頭を撫でたり抱きしめたりする。耳元で「可愛い可愛い私の子」呟く。それが少しくすぐったくて、嬉しかったのだ。俺の母は俺が物心付く前に死んだ。父は母の話をしたがらない。俺の母はその黒いものなのだと、自分に言って聞かせた、黒いもやも、俺にそう言って言い聞かせた。父は、否定した。俺はそれを否定した。大喧嘩して、結局父が折れたのだ。


「変な事を言ったら、父さんに言うんだぞ」

父はそう言うと、何処かに電話を掛けた。その間、黒いものは俺の頭を撫でる。「大丈夫大丈夫」と優しい声で俺に語りかける。それが心地よくて、段々と瞼が重くなった。意識が途切れる前に「おやすみなさい、私の子」そう聞こえた。










「大丈夫だ、それは飛雄を傷つけないよ」


久しぶりに会った祖父が、俺の頭を撫でながら父にそう言った。「それは飛雄の母だ、間違いなくな」そういう祖父に父は反論した、あいつであるはずが無い!と怒鳴った。


「子を守るのが親の役目だ。何も生みの親が親ではない、世間一般そうであったとしてもな」

なぁ?と祖父は俺の頭上に目をやった。「まぁ見えない方が幸せじゃ」と祖父は笑う。俺は頬を膨らませた。「おじいちゃんにはお母さん、見えてるの?」「おうともさ、ちゃーんと見えているよ」「ずるいずるい!」俺達の会話を父は複雑そうに見つめていた。


「大丈夫さ、それは何な何でも飛雄を守る。無条件にな。ただまぁ…」

祖父は困ったように笑った。

「際限無い愛情ほど、怖いものはないな」


俺はその意味を理解することは無かった。





◇◆◇




「飛雄、気を付けて行くんだぞ」
「もう子供じゃねーんだから」

高校生なんてまだまだ子供だ、と父は笑いながら俺の頭をぐしゃぐしゃに撫でた。「部活終わったらなるべく真っ直ぐ帰ってこいよ、寄り道して買い食いして夕飯食べられないとか言ったら怒るからなー、そんな言葉を背に受け俺は家から出た。

今日もまた、変なものが多いなと横目に流し学校までの道のりを歩き進める。塀の上に居た二つに分かれたしっぽの猫が「おはよう飛雄、今日も良い天気だねぇ」と鳴いた。唯一俺に頭を撫でさせてくれる猫だ、普通でない事くらいは分かっている。満足するまで猫の頭を撫でて「じゃあな」そう言うと猫は「ああ、行ってらっしゃい」と手を振った。




学校の校門を抜けると、丁度駐輪場に自転車を停めに行っていた日向と遭遇した。そこから無言で睨み合い、同時に走り出す。「今日は負けねぇぞおおおお!」日向の声に「誰がお前なんかに負けるかボゲェええええ!」と俺も声を上げる。途中「今日も元気だなー」と笑う菅原さんを追い抜いて部室へと向かう。

ジリッ

突き抜けるような熱いものが通り過ぎた気がした。…?バレー部の部室へ通じる階段の前で俺は足を止めた。日向は階段を駆け上る。俺は上を見上げた、日向が階段の一番上で振り返る。「どーした影山ー、俺の勝」言葉は途切れた。ぐらり、日向の身体が傾く。落ち、俺は階段を駆け上る。随分と日向が落ちるのがスローペースに見えた。半分当たりで、日向を受け止める態勢に入る。ゆっくりと落ちてくる日向の奥に、真っ黒に顔を塗り潰された子供がにんまりと笑っていた。ああ、突き落とされたのか日向はコイツに。俺はそれを睨みつけ、日向を受け止めた。予想より衝撃があった、受け止めきれない。俺の身体も傾き、宙を舞う感覚。


「だめよ飛雄、危ないことしたら」

危ないけど、でもコイツをそのまま見捨てるわけにもいかないだろ?ぐらり落ちる中、黒いものが俺を覆った。


「お友達想いの優しい子。私の大事な大事な子」

叩きつけられる感覚は無かった。背中は地面へ。「かかかか影山!大丈夫か!?生きてる!?」という日向の五月蠅い声が耳に入った。「うっせぇよ」俺は日向の奥、階段の上を見上げた。ぐしゃり、生々しく潰れる音が耳に入った。黒いもやが、あの時みたいに、子供を覆っていた。

後から来た菅原さんや澤村さんが慌てて俺に駆け寄る。「お、俺が階段から落ちて、それ受け止めたんです!」と日向が説明する。「どこか打ったか?怪我は?」心配する菅原さんと澤村さんを尻目に俺は口を開いた。


「お前は大丈夫か?」
「お、俺はなんとも」
「背中」
「え?」
「背中」

その言葉に日向は押し黙った。澤村さんがその様子に気づき、日向の背中を擦る。歪んだ表情を浮かべた。俺は起き上がる。


「俺、ほんと怪我ひとつしてないんで日向保健室に連れて行ってやってください。痣になってると思うんで」
「え?でも日向を正面から受け止め」
「背中、痛めてるみたいなんで」

そう言うと菅原さんは「よし、日向保健室行くベ」と手を差し伸べた。「…はい」日向は大人しく菅原さんに従う。


「影山」
「あ?」
「ありがとな」

日向の背を見送った。「日向の奴大丈夫か…?怪我をしているようには見えなかったけど痛そうだったし…」心配する澤村さんに「大丈夫ッスよ、痣になってるだけですから」とだけ言っておいた。

「――子供みたいな手の痣が、背中にあった」朝練の終わり際、制服のままの菅原さんが体育館で言った。何人かは顔を真っ青にしていた。かなり痛々しいもので、皮膚が変色していたとの事。取り敢えず病院にと日向は早退した。チッ、もっと早くに気が付いていて、階段登る前に日向を止めておけばと後悔した。


――ごめんなさいね、私が気づいていれば

そんな言葉が聞こえた。べつに、母さんは悪くないだろ。俺は不機嫌を表情に表す。「影山ー!いくら日向の不注意だからってそんな顔すんなよー!」田中さんが俺の背中をバシバシと叩いた。そういうわけじゃないんですけど。
取り敢えず、その日の朝練は終了した。誰も居ない校舎までの道のり、俺は口を開く。

「母さん居なかったら、日向大怪我してただろうし悪いのはアレだから。ありがとう母さん」

俺の後ろに居る黒いもやがゆらゆらと揺れた。まるで、嬉しさを表すように。俺は笑う。もう一度「ありがとう母さん」と声に出した。

なんで俺の死んだ母さんなのに、俺にはその姿がくっきりと映らないのだろう。それだけがどうにも悔しかった。
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