漂流する君の温度



毎朝が、ひどく憂鬱である。また今日が始まるのか、そう考えると気が滅入る。目を開き、明かりひとつ付いていない部屋を見渡す。じっと目を凝らして時計を見ると4時を少し過ぎくらいだった。肌寒く、外はまだ薄暗い。私はカーテンを少し開き、群青色の空を見上げた。この、静寂が好きだった。音ひとつないこの時間がとてもすき。まるで世界にひとりぼっちにされたようで。私はストールを羽織り、家を抜け出した。

はぁ、と吐く息は白い。誰も居ない道をひとり歩く。ときどきバイクの音が聞こえるのはきっと、新聞屋さんね。ふと、バイクの音に混じって足音が聞こえた。速足…というか走ってる…?一定のリズムを刻む足音にどうしようかと模索する。外に出ても、一応は恥ずかしくないくらいのパジャマだけれど、それでも寝間着姿で人に会うのは、少し考えるところがある。でも脇道もないし、何も気にせずに通り過ぎるのを待てばいいわよね。そう思っていると「…本条?」と聞きなれた声が耳に入った。


「あら白布君、おはよう。朝早いのね」

走っていたのはどうやら白布君だったようで。いつも塾で見る制服とは違いジャージを着ていて、見慣れない白布君はなんだか新鮮だった。白布君がスポーツをやっている、だなんていまいちピンと来なかったのだけれど、ジャージ姿の白布君を目の当たりにして漸く納得がいった。


「……」

なんだか、白布君の目が据わっていた。「どうしたの?」と声を掛けると何故だか溜息を吐かれた。


「おはよう本条、相変わらずだな。いや、度を過ぎてる気がする」
「…よく、話が見えないのだけれど」
「お前、寒くないのか…流石に今貸せるものは無いぞ」
「寒くないもの、必要無いわ。それより白布君の方こそ寒そうだわ。昨日借りたマフラーでも持ってきましょうか?」
「マフラー巻いてロードワークする訳ないだろ。人の心配より自分の心配しろ」

本当に寒くないのだけれど。きっと雪が降り始めても私はこの姿で外に出てしまう気がする。流石にブーツは履くけれど。ジャージを脱ごうとする白布君を慌てて止め、納得いかないと言わんばかりの目を向けられつつも、私達は歩きだした。

「走り込みは良いの?」
「本条が家の中に入るまで見張る」
「心配性」
「お前が可笑しいんだからな」

俺は走ってたから身体温まってるけど、お前はそうじゃないだろ。という白布君に手を伸ばす。ほんの少しの出来心。「ねえ白布君」足を止めた私に気づき「なに?」とこちらを見つめる。両手で、白布君の顔を包んでみた。


「!?は、冷っ!?」
「あら、本当にあったかい」
「馬鹿止めろ離せ体温根こそぎ奪われる」


ふふふ、私は笑って白布君の頬から手を離した。

「その体温で寒くないとか可笑しい。死人じゃないのかお前」
「失礼ね、生きてるわよ。あ、私の家ここよ」


いつの間にか、家の前まで来ていた。出る時には無かった新聞がポストに入っていた。

「ごめんなさいね、お邪魔してしまって」
「別にそれは良いんだけどさ。本条、今日はコート着てこいよ」
「考えておくわ。じゃあまた夜に塾で」


新聞を手に、私は家の中へと入る。ドアが完全に閉まるまで、白布君は私を見ていた。閉まるドアに寄りかかり、私ははぁ、と息を吐いた。家の中でも息が白い…すこし、寒いかも。ぎゅっと手を握り締めた。手は酷く冷たかったけれど、なんとなく彼のぬくもりがある様な気がした。

春にはきっと、彼は白鳥沢に来ているだろう。高校に上がったら、私の学校生活は…いや、私の生き方は何か変わるだろうか。彼と同じ学校で、私は――




「あら琴葉、おはよう。今日も随分早いわね」
「お母さん、おはようございます。新聞取ってきました」
「あら、ありがとう。朝ごはんの用意するわね」
「…はい、少し部屋で勉強してきますね」



私は逃げるように部屋に戻る。母は私を「とても良い娘」と言う。父はそれを「当然」と言う。ああ、苦しいなぁ。本当は勉強が嫌い。意味の無い文字列をどうしてああも無駄に読解するのだろうか。あんなもの、出来たところでなんの意味も成さないというのに。それでも私には勉強しかできないし、それ以外の取り柄がない。本当につまらない人間。
カーテンを開け、外を見る。当然だけれど、白布君は見えなかった。

「…早く、夜にならないかしら」




◇◆◇



学校を出た時には雪が降っていて思わず「げっ」と声を出してしまった。コートを羽織り、ポケットに手を突っ込む。マフラーは昨日本条に渡してしまった。コートの襟で首を隠し、俺は足早に塾へと足を進める。

「さっむ…」

信号待ちが辛い。じっと赤く照らされる信号機を睨みつける。ひやり、冷たい風が身体の芯を蝕む。早く教室に入りたい。漸く青になった信号を確認して、俺は足を進めた。
ふと、目線を正面からずらす。道を曲がろうとしたとき、向こうから本条が歩いてくるのが見えた。進める足の速度を遅くする。制服以外のものを来ている本条を見るのは、もしかしたら初めてかもしれない。


「本条」
「…あら、白布君。今朝ぶりね」
「ちゃんとコート着てきたな。あとマフラー」
「マフラーって意外と嵩張るし、でも手に持ったら何処かに忘れてしまいそうで、巻いてきてしまったわ」
「いいよ、本条は見てるだけでこっちが凍えそうだから」
「私は雪女か何かなのかしら」

そうかもしれないよな、なんて思ってしまった。どれだけ冷え込んでも本条はまったく寒そうにしないし、今だって俺はかなり着込んでいると言うのに、俺よりだいぶ薄着であろう本条は平然としてる。…お前やっぱり死んでるんじゃないのか?なんて言うと本条は笑った。


「そうかもしれないわね」
「…冗談なんだから、そこで同意されても困る」
「息をしていれば生きている、なんて事はないんじゃないかって思うの」
「…何、哲学?」
「寧ろ一般論じゃないかしら。ただそこに在る事だけが生きていると、はたして言えるのか」
「…本条の中で、自分は死んでると思うのか」
「ええそうよ。死んでるわ。こんな、毎日毎日同じことの繰り返し。起きて学校に行って塾に行って勉強して寝て起きて…機械なんじゃないかって思う」


本条は無表情に、瞳に何も映さずただ淡々に言葉を吐きだした。俺は普段、本条がどんなふうに生活しているのか知らない。学校も違う、彼女に会えるのは塾があるあの時間だけだ。でも、

「昨日、俺はお前とこうやって塾までの道のりを一緒に歩いたか?」
「え?…いいえ、昨日は一人だったわ」
「昨日は、今朝みたいに早朝に会って話をしたか?」
「…いいえ、白布君に塾以外で会うのは、今朝が初めてだった」
「だろ?毎日は繰り返しじゃない。少なくとも俺との会話は。それに本条は機械じゃないし、ちゃんと生きてる」

本条の目が、揺れた気がした。本条がしっかりと俺の姿を瞳に映す。何故だか、すごく安心した。漠然と、引き留めておかないと消えてしまうと感じてしまったから。





「私、生きてるの…」
「生きてるだろ。というか難しく考えるなよ。人間考えだしたらキリがないんだから」
「……そうね、そうよね」


本条が、俺の手を握った。酷く冷たかった、それでもちゃんと体温はあって。弱々しく俺の手を握る本条の手を、俺は握り返す。







「私ね、いつの日か、空を飛ぼうかと思ったのよ」
「は?」
「白鳥沢の屋上って、結構高いから飛べるんじゃないかって」

ぞくり、背筋が凍った。寒さではない、恐怖だ。空を飛ぶ、それは


「おい、本条」
「人間、飛べやしないのよね」
「本条」
「…なによ、心配したって飛びはしないし、堕ちもしないわ。今日、白布君に会ったおかげ」


いいえ、今日だけじゃないわ。貴方と出会って話をしたおかげで私は、今生きていられるんでしょうね。そう彼女は言った。

「本条、重い」
「失礼したわ。ただの戯言と思って流して」

するり、手が離れた。それを名残惜しいと思うのは…


「白鳥沢に入ったら、バレーするんだ」
「知ってるわ、そのために今頑張ってるんじゃない」
「本条はどうせ、特進なんだろ」
「…ええ、そうよ。それ以外無いもの」
「流石に、白鳥沢の勉強とバレーを両立させられないから、俺は特進には入らないけど。本条はどうだ?」
「…なにが?」
「ちょっとくらい、違う事に目を向けてみたらどうだって話」


きょとんとした表情の本条に笑ってしまった。


「興味あったら見に来いよ、バレー。本条の先輩に、すごい人が居るんだ」
「牛島さんかしら。彼はよく朝礼とかで名前が挙がるから。見た事はないけれど」
「あの人すごいんだ。見たら絶対わかる」
「…興味無いわ」
「ばっさり言うなよ」
「…それより私は、白布君がバレーをしているところが見たいわ」

足を止めてしまった。彼女も少し前で足を止め、俺の方へ振り向く。どうしたの、間抜け面よ?と彼女は笑った。

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