モノクロ小宇宙



彼女は人と価値観が少しズレている。
他人からしてみれば彼女の発言は人を馬鹿にしているように聞こえるだろう。ただ、俺は彼女に一切の悪意が無い事を知っている。

「そんなものにそんなにも打ち込める、なんてすごいわね」

とても感心した顔をして言うのだ。とてもじゃないが怒る気にはならなかった。毎日塾の教室で、授業が始まるほんの少しの時間しか彼女と会話出来ていなかったが、それでも俺は彼女の性格をだいぶ理解できていると思う。あれは一切の悪意が無く、少し抜けているのだ。






「こんばんは白布君。受験勉強はどうかしら」

放課後、俺は学校から真っ直ぐ帰るというのに、彼女は既にいつもの席に座っている。机には参考書とノート。他には誰も居ない。こいつが1番で、俺がいつも2番目で。変わらない、いつもの事だ。彼女の隣の席の椅子を引く。

「いつもと変わらず。ああ、本条。ちょっと教えてもらいた問題があるんだけど」
「なにか、引っかかる様な問題でもあったかしら」
「昨日の授業のこの問題、応用してこんな問題が出てきたんだけど」
「ああ、この過去問ね。これは…」

静まり返る教室に響く文字を綴る音。じっと、ノートに目を落とす。本条はなんの迷いも無く文字を書き進める。「この問題は、この式をこうして…当てはめると、」本条の声が耳を擽る。「ああ、成る程」俺はその言葉に頷く。本条の教え方は実にシンプルで、もしかしたら塾の講師よりも解りやすいのではないだろうかと思うほどだ。1分後にはすっかりその問題を理解出来るようになっていた。


「ありがとう本条」
「いいえ、このくらいどうと言う事は無いもの」

それ、ウチの入試の過去問よね。本条の言葉に頷いた。どうやら過去の入試問題も把握済みの様だ。

「ちょっと暇つぶしに5,6年分の過去問を解いてみたの」
「暇つぶしにやる様なもんじゃないだろ」
「他にやる事が無いのだもの」

つまらなそうに彼女は言った。暇だから過去問をやる、だなんてどれだけ勉強に力を入れている学校なのだろうか。意識高そうな生徒ばかり居そうで少し顔を顰めてしまった。そんな俺の様子に本条はくすりと笑う。


「大丈夫よ、こんなつまらない性格私くらいだもの。他の生徒はきっと、余所の生徒と変わらないわ。それに、白布君は勉強をするために白鳥沢
ウチ
に来るわけじゃないのでしょう?」

その良い方は、栄えある白鳥沢学園の生徒の一員として、どうなのだろうか。まぁ、スポーツをしたいが為に入ってくる生徒も少なくは無いだろうけど、それでも白鳥沢は学業でもトップクラスの学園だ。「勉強なんか」なんて言ってもいいのだろうか。しかも本条は現在、中等部の首席だと聞くが。



「白布君は凄いわね」
「何が?」
「スポーツなんかをする為に、今猛勉強して白鳥沢に」
「本条は何でもかんでも「なんか」とか「そんなもの」とか付けるのやめろ」
「…ああ、ごめんなさい。そうよね、気分を悪くさせてしまうものね」
「俺は慣れたけどな」

最初こそは確かに気分を害したが、慣れてしまえばどうということはない。「なぁ本条」と俺が口を開いたところでざわざわと廊下から人の声が聞こえた。もうそろそろ、塾生が集まり始める時間か、俺は口を閉じる。本条も「なに?」とは聞いてこなかった。



◇◆◇


「…さっむ…」


塾が終わる10時過ぎ、外に出ると酷い寒さだった。首に巻いたマフラーを持ち上げ口を覆う。息はすっかり白い。雪こそ降っていないが、最早時間の問題だろう。


「もう随分冬ね」
「そうだな。で、お前寒くないのか?」


「え?」と首を傾げる本条。そう不思議そうな表情をしないでもらいたい。制服だけでなんでコートを着ていないんだ。剰え「それより白布君、そんなに着込んで暑くはないの?」なんて言われる始末だ。


「お前を見てるだけで寒くなる」
「…なら見なければ良いのではないかしら」
「なんだその捻くれた回答は。風邪ひくぞ」
「寒くないから平気よ」


くしゅん。と小さく聞こえた。…いや、なにが寒くないだ。首に巻いていたマフラーを取り本条に渡す。「なぁに?」と首を傾げる本条に「いいから巻け馬鹿」と言うと要らないと突っ撥ねられるものだから俺は無言で本条の首にマフラーを巻き付けてやった。少しきつめに。


「なんか、もごもごするわ…」
「文句言うな」
「…あったかい」
「やっぱり寒かったんじゃないか」
「寒くは無いわ。でもまぁ、うん。良いんじゃないかしら。それより白布君、寒くないの?」

寒いに決まってるだろ、そう言うと本条が笑った。こいつの笑いどころはまるでわからない。「そう」と満足そうに微笑む本条を見て、何やら複雑な気分になった。



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