夕暮れの狼


酷い頭痛だ。
俺は頭を押さえながらふらふらと教室を出た。月曜日でよかった、と心底思う。こんな状態で部活なんかしたら確実にぶっ倒れる。吐き気も酷い。視界も随分酷いものだ。いつもは普通に歩いている廊下も、無駄に長い様に感じる。

「国見?」
「…あー?金田一…」
「おま、顔色悪いぞ」

心配そうな表情の金田一の顔が瞳に映る。…その端で蠢く黒いモヤを捉えた。あーあ、やだなアレ。アレは心底【駄目な奴】だ。俺はそれを視界の隅で捉えつつ、金田一を真っ直ぐ見る。ああいう類のモノは、目を合わせてはいけない。問われても、応えてはいけない。

「ちょっと寝不足なだけだから」
「いや、ちょっと寝不足って…お前顔真っ青…」
「大丈夫だから」

ゆらゆらと、それが近づく。「ちょっと」と金田一の腕を掴み、足を一歩踏み出した。酷く身体が重く言う事を聞かない。が、止まる訳にもいかない。それと【眼】を合わせない様に、横を通り過ぎる。


ぎゃは は

   ぎ  い
ひゃ  
      あ は、はは

一つではない声、と無数の眼。気持ちが悪い。頭の痛みが更に増す。「おい、国見?」と不思議そうな声を上げる金田一に構っていられる余裕は無い。早くそれから、離れなければ。見るな、そこには【何もない】んだ。そう、認識してはいけない。例え【見えないものが見えていた】としても、それを悟られてはいけない。通り過ぎる時、微かにそれに触れた。腕が重くなった。構うな。ぎろり、沢山ある眼がこちらを見た気がした。眼は、合わせない。


    ねェ

き    ヒひ    ひ

 みえ
      テる  ?






下駄箱まで、無言で歩いた。アレは、憑いてきていないようだ。はぁ、と息を吐く。少し頭痛は軽くなった。アレに触れた腕が、ひりひりと痛む。「国見」と声を掛けられ、ああそう言えば金田一の腕を引っ張っていたなと思いだした。

「お前ほんとに大丈夫か?」
「あー、悪い悪い。大丈夫」
「大丈夫そうじゃねーし。家まで一緒に」
「え、キモイ」
「なんでだよ!」

家まで送るよ、なんて彼氏みたいじゃん。うわ気持ち悪い。なんて言うと金田一は「はぁ!?」と声を上げた。「せっかく心配してやってるのに!」という言葉に「余計なお世話」と返した。申し訳ないと思っているが、一人じゃないと逃げ切れる自信が無い。巻き込まれても、俺に助けられる力は無い。頼むから、巻き込まれんなよ金田一。そう願いながら俺は金田一と別れ学校を後にした。









▲▼▲


「なんなんだよ…ほんとに…」

ぶっちゃけ泣きたい気分だ。家の近くで、またアレに遭った。蠢く闇、どす黒い無数の眼、黒い塊。学校に居た奴より数倍大きい。それは見知らぬ人間を覆っていた。うぇ、あれどうすんの。見知らぬ人間と、それを覆うソレは道路に佇みピクリともしない。いや、黒いソレはもぞもぞと動いてはいるんだけど。アレの前通らなきゃ、帰れないしなぁ…最悪だ。目を合わせず、意識を向けず、目の前を通り過ぎればいい。アレの獲物は今覆いかぶさっている人間なのだから。悪いが、見知らぬ人間がソレの犠牲になろうとも俺には関係ない。心を痛めない。
【そんな余裕は俺には無い】
あんなモノに立ち向かうだなんて自殺行為だ。昔散々経験した。構うな、認識するな。見知らぬ人間がぼーっと其処に立っているだけだ。ただ、それだけだ。


きハひぁハハは
視えテるよネ
カわイイかわいイ
アたしのクモツ


誰がお前の供物だ。学校のヤツより普通に喋るし、結構【喰ってる】な。捕まったら本格的にやばいかな。酷い頭の痛みを押し込め、ソレの前を通る。


無視シないデよ
視えてルくせニ
ネぇねえ


この気持ちの悪い黒い塊やそこらへんに居る形が安定していない奴らは、俺のように視える人間かを見分けることが出来ないらしい。だから、こうやって通りすぎる人間に話しかけては反応する奴らを喰うらしい。だから反応してはいけない。
目の前を抜ける。瞬間、
バシッと腕を掴まれた。掴んだのは黒い塊に覆われてる人間。俺はじっと、その人間だけを見る。黒い塊に目を向けてはいけない。

「あの、なんですか」

ふヒぁははハ?
なんデすかじゃないヨォ
あたシを無視シないデよ

「すいません、急いでるんで離してもらっていいですか」

喰っている者(もの)があるから、無視し続ければコレは離れる。コレは一度に二つは喰わない。さぁ、早く離れろ。俺の手を離せ。
どろり、ソレが融け出した。塊から、目玉が堕ちる。ごろり、ごろり。
厭な 臭いが、頭が 痛。目が、合った。合ってしまった。融けた闇が、腕に堕ちた。焼けるような、痛み。痛い、い  たい。

「――離せっ!」

腕を振り払った。痛みが強すぎて感覚が無い。不快。そこからじわじわと、何かに浸食される感覚。


あははハははははハハハ
やっぱり見えてル
美味シそウ
ひはァははハ


あーあ、しくじった。俺は駆け出した。溶け出した黒が触れた腕が途轍もなく痛い。くっそ。後ろから、アレが追いかけてくる。アレ自体は動きは鈍間、喰ってる人間を動かして追いかけてくる。あっちはサラリーマン風のおじさん、こっちはサボり気味でも運動部所属の高校生。十分逃げ切れる。家には...帰れない。下手したらアレが入ってくる。どうする...何かと教えてくれるあの人は神出鬼没で普段どこにいるかもわからないから当てには出来ない。さて、どうしようか。ふと、あの人の言葉を思い出した。

『国見少年、有象無象に絡まれた時はあそこの神社に行くといい。あそこのいる【其れ】は、まぁ多分、国見少年を助けてくれるだろうから』

多分ってところが怖いんだけど、取りあえず今はその言葉に縋るしかない。夕暮れ、俺は言われた神社に足を進めた。
神社に着くころには空は薄暗くなっていた。こんな時間に神社とか、逆に危険な気がする。神社が良い場所、だなんて思っていたのは最初くらいだ。寂れた神社にはそれ相応のモノが居る。つーか寂れてんだけどこの神社。
ハァ、と息を吐き、石段に腰掛けた。だいぶ走ったかばんからペットボトルを取り出し、口を付ける。…静寂が広がる。撒けた、のか。あの人が言っていた【其れ】とは一体何だったのだろうか。まぁ、いいや。撒けたのなら、帰ろう。立ちあがった瞬間、ざわり、嫌な風が吹いた。あ、やば



追い
   かけっこは 
 モゥ

   終ワリ?



「―――、」

視界が、黒く塗り潰される。追い憑かれた。気味の悪い笑い声が木霊した。



おいしソう。美味シそう。
全部タべちゃうノ勿体なイなァ
右腕だケ、食べヨうかナぁ


なんだそれ、喰うならいっそ丸飲みにしろよ。腕だけとか、引き千切られるのかな。もぞもぞと痛みが右腕に集中する。やばい、マジで喰われる。ギリッと唇を噛む。こんな程度じゃ、次来る痛みには耐えられないだろうけど。は、と息を吸う。眼を、瞑る。
諦め、


「――なにをしている?」

声が、響く。それは気味の悪い声ではなく、凛とした声。俺を覆っている黒い塊が動きを止めた。瞬間歪な悲鳴と共に俺の上から退いた。一気に身体が軽くなる。

「何をしている、有象無象」

赤、が居た。赤い着物、赤い和傘、赤い…狐面。顔は狐面で見えない。長い黒髪と、声からして女性だろう。どろどろと、黒い塊が溶け出す。ギィギィ、と歪な声を上げる。あの人が言っていた助けてくれるかもしれないと言った【其れ】とは、このヒトだろうか。
ふと、面の向こうで目が有った気がした。

「…よくもまぁ、ここまで来たものだな?形の無い屑の分際で」

一歩、一歩近づく。耳障りな叫び声も連れて大きくなる。怯えて、いる?
そのヒトは俺の前に立ちぽんぽん、と俺の頭を撫でた。ら、痛みが消えた。全身の痛みも、爛れた腕の痛みも、酷い頭の痛みも、全部全部消えて無くなった。すっと、頭から手が遠ざかる。

「私の土地のモノは全部私のモノだ。当然、この土地に入って来たお前も私のモノ。なら、何をするのも私の自由だ。さて、ではどうしてやろうか。お前に問うてやろう。塵一つ残さず消されるのと、ぐちゃぐちゃにされて枯れ井戸に捨てられるのと、どちらが良い?私は後者を選びたいのだが。あそこは良いぞ、お前のような奴らがわんさか【共食い】をしてるからな。中途半端に理性が出来たお前のような奴にはさぞ地獄だろうな。一生そこから出られず―――ん?」

あ、と声を漏らしたのは俺とそのヒト。目の前で黒い塊が四散した。「お前さぁ…」と少し呆れたような声が通った。前方には、見知った顔。俺の顔を見ると「おっ、国見少年」と笑みを浮かべた。

「お前の知り合いか蒼」
「おー、知り合いっつーかなんつーか?つかお前子供の前で物騒な事言うなよ。遊んでないでさっさと消しちまえっつーか…耐えられずに俺が手出しちまったじゃん」
「丁度餌が無かったから餌にでもしようかと悩んでいて」
「…え、俺ただの脅し文句だと思ってたけど、井戸の話マジなの?」
「さぁて、どうかな?」

ケタケタと笑うそのヒト。ただぼーっと見ていたら目が、合った。多分。お面付けててよくわからないけど。

「そこの少年、大丈夫か?厄は祓ってやったが」
「…あ、ありがとうございます」

えーっと…と声を零すと「ああ」と気づいたように狐面を取った。息を、飲む。酷く白い肌、血のような赤い瞳。にやり、とそのヒトは笑った。

「自己紹介がまだだったな。私の名前は夜織という。ここら一帯…ではないんだが、まぁこの神社を仕切っている」
「…国見英、です」

じゃあ国見少年、茶ァでも飲んでくか?と言う蒼嗣さんを夜織さんが小突いた。「お前が仕切るな」「え、いいじゃんべつに。ほれ行くベ」と蒼嗣さんに腕を掴まれ、ずるずると神社の中へ引きずり込まれた。