あの日は、とてもとても暑い夏だった。外に出ればアスファルトの道路は揺ら揺らと陽炎が揺れ、じわりと汗がにじむ。外に出るのが億劫になる、中学最後の夏休み。私は部屋で一人、読書に勤しんでいた。両親は仕事。涼しい部屋の中は快適だった。
時刻は1時を回った頃。そういえば国見君が宿題を見に来るなんて言ってたなぁ…自分でやらないと夏休み明け最初のテストひどい目見ちゃうのに。ギィ、椅子の向きを変える。棚には、フォトフレームに入った私と国見君の写真。あの写真は、いつ撮ったんだっけなぁ…。
…はやく、国見君こないかなぁ…ゆらゆらと身体を揺らした。

そうだ、国見君が来たら昨日お母さんと買いものに行った時に買ったクッキーを出そう。お茶もね、美味しそうな紅茶の茶葉を買ったの。水出しして、凄く美味しいアイスティーが出来上がったんだよ。国見君早く来ないかな。未だ来ない国見君を思い浮かべる。




この時まで、私は確かに「普通」だった。



「国見くん、早く来な…け、ほっ」

喉に違和感を感じた瞬間、全身に痛みが走った。歪む視界。予兆も無く、ただ突然にそれは訪れた。喉が痛い、腕が熱い、背中も、足も全身が痛い。ひゅうっと喉から息が零れた。思わず喉を手で押さえると、手のひらに妙な感覚が伝わる。違和感。その違和感を確かめる前に私の身体はぐらり、傾き床に叩きつけられる。いたい、いたい。
今までに体感した事の無い身体の異常。危険信号。

ああ、これは死んじゃうかな。

苦しくてたまらないのに、頭は酷く冷静だった。お父さんもお母さんもいない。国見君もいつ来るかわからない。このままだと、誰にも気づかれずに死んでしまうかもしれない。床に縫いつけられるように動かない身体。歪む視界の中、自分の腕に白いものを見つける。

これは、なに?

左手首にあるそれに手を伸ばす。指先に微かに触れ――意識が暗転した。



◇◆◇


「…さくらっ!」
「…う、……」

目を開くと、視界いっぱいに焦った表情の国見君の顔が映った。一体どうしたんだろう、動かない頭で考える。「こんの馬鹿っ!」と国見君に怒られ、私はただ目を丸くする。

「呼び出し鈴鳴らしても出てこないし、玄関のドア引いてみたら案の定鍵掛かって無くて普通に開くし、さくらは何故か床に倒れて意識失ってるし」
「……えっと、」
「吃驚して寿命が縮んだよ。何が有った?それに、この大量の花は何?」

――え?国見君に言われて自分の周りを見ると確かに私の周りには沢山の花が散らばっていた。霞草、マーガレット、ゼラニウム、スターチス、ベゴニア。なにやら色んな種類の花が床いっぱいに敷き詰められていた。なに、これ。こんなもの私は知らない。

「ほら、髪にもいっぱい花付いてる」

ぱたぱたと、髪に付いているらしい花を叩き落とす国見君。えっと…なんでこんなことに?私は思い出す。たしか、本を読んでいて…あれは1時を過ぎた頃。国見君早く来ないかな、なんて思ってそれで…そうだ。突然息が苦しくなって、全身が痛くなって倒れて、それ、で

「って部屋の中で叩き落としちゃ駄目か。外行って花落としてきなよ。この部屋の花は…捨てても良い?」
「…うん、大丈夫」
「…さくら体調とか悪くない?」
「大丈夫、何ともない。行ってくるね」

私は部屋を出て庭へと向かった。
ガーデニング好きの母が丹精込めて育てた花が庭に咲き誇る。霞草とか、時期じゃないから咲いてない。髪からはらはらと落ちる霞草の花を手に掬う。なんで、こんなものが部屋いっぱいに?そういえば意識を失う瞬間に見た花は霞草だった気がする。そんな事を思い出したら頭痛が走った。それと、喉の痛み。手で口を押さえけほっ、と咳をすると噎せ返るような匂い。え、と手を見る。小さな橙色の花、金木犀。ぽろぽろと口から花が溢れる。

え、地面に落ちる金木犀の花を見て呆然とする。
腕が熱くなる。するり、何かが這う感覚。花、白いはな。花が、腕に咲いていた。


「や、だ」

やだ、なにこれ。やだやだ!
腕から生えたウツギの花を引き千切る。痛み。でもそんな痛みを気にする暇は無かった。痛みより恐怖が勝っていた。やだ気持ち悪いなにこれ。泣きながら私は、花を


「え」

涙まで、花だった。黄色い花が白と合わさる。怖い。涙を引っ込めると花も出なくなった。地面に落ちた花を見る。気味が悪い。これは、全部私から咲いた花?普通に考えてあり得ない話なのに、でも実際に怒った事実。ふらふらと、リビングへ向かう。どうしよう、こんな気持ち悪い…病気?こんな病気見た事も聞いた事も無い。

縮こまってソファに座る。ふと、軽い衝撃が頭に走った。

「ちょっと、なに休憩してるの。部屋の掃除」
「…うん、ごめん」
「どうした?なんかあった?」
「な、んでもない。なんでもないよ。ごめんね。ゴミ袋持って掃除」
「勝手にキッチンから貰って来た」
「そっか」
「…花、お前好きだっただろ。捨てずに飾れば?なんの花かは知らないけど」
「いらない」
「…さくら?」
「そんなのいらない」
「……そう、まぁ花の事は置いとこう」

国見君は何かを察したらしい。だめ、気づかないで。こんな気味の悪い私に、気付かないで。つばを飲み込む。大丈夫、今は咲いてないから。

「国見君」
「今日は俺帰るよ」
「――え」
「なんか」

国見君は私の頭を撫でた。柔らかい感覚、昔から私は国見君に頭を撫でられるのが好きだった。

「さくらが言いたくない事は、無理して言わなくて良いよ。一人で落ち着きな?」

優しく言う国見君に、私は抱きついた。





◇◆◇


「…普通の花、だね」
「普通の花、ですか」
「うん。造花じゃないし。生花だよねこれ全部。俺は人間の医者だから花の事とか全然わからないけど…」
「一応、全部現実にある花、です」

小さいころからお世話になっている病院の先生に診てもらった。喉が少し傷ついてるみたい、あと肌があちこち荒れてるね。なんて先生が言う。特に目立ったものは無かった…手首に咲いた花以外は。


「生えてるね」
「…生えてます」
「なんて花?」
「ウツギです」
「…花触っても大丈夫?」
「はい」

先生の指が花に触れた。特に感覚は無い。花に神経が通っているということはなさそうだ。「…引っこ抜くよ?」という先生の言葉に頷き、腕に力を込める。

「痛みは?」
「肌が、ひりひりします。でも特に痛みは」
「そっか…なんだろうね…こんな病気今まで聞いた事も無いよ」

ファンタジー染みてて、可愛らしくはあるけど何が影響するかわからないからねぇ。私の腕から摘み取った花をじっと見る先生。

「腕から花生えて、口と目から花が零れる…うーん…」

パソコンのキーボードをカタカタと叩く先生。「取り敢えず御両親を連れて来なさい。こんな奇病抱えて独りで病院に来るもんじゃないよ」と先生に言われる。私は、目を揺らす。


「こんな、変な病気…お父さんとお母さんに気持ち悪いって言われたらどうしよう」
「大丈夫大丈夫、さくらちゃんの御両親揃って脳内花畑さんだから。おじさん、君の両親の神経の図太さを良く知ってるから」

人の両親に対してえらく失礼な気がする。先生とお父さんたちって確か同級生だったんだっけ…そんな事を思い出す。






「取り敢えず両親を連れて来なさい。話はそれからだよ」

そんな事を言われ私はとぼとぼと家までの道を歩いていた。足は酷く重い。途中、小さな花屋さんが目に入る。ふらり、誘われるように私は店内へと入った。

「いらっしゃいませ」

優しそうなお姉さんが、ふわり笑う。ぺこり、お辞儀をして私は店内を見渡す。目に付いたのは、一冊の本。花図鑑。花の写真や花言葉なんかが書かれていた。ぱらぱらとめくると、とある一ページで止まった。ウツギの花。


「そっか」

文字を、指で擦る。ウツギが咲いた意味。そうだね、うん。これは絶対に秘密にしなきゃ。私は誓う。手首を握り締めると、ウツギの花が咲いていた。

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