ててご | ナノ



この理不尽で祝福されるゲームで II1

※ハス、リパ、謝、范、ヴィオ、マリー、ルキ、ルカ、ノト
※総受けチェイス
※ゲームで負け続けたらΩになる設定。連勝したらαになる。
※無写



 この荘園には、第二の性がある。それは、ゲームのルールの次に覚えさせられたことだ。
Ωとしての性の疼きと、αに対する絶対服従の姿勢に抗えない絶望感が、ここまで厄介なものだなんて話を聞くだけではわからなかった。
「ゲームに対するモチベーションのためだ」とは宣っていたが、これはもはや弊害に近いではないか。αとΩ。勝者と敗者。わかりやすくも理不尽なこの制度は、荘園での理不尽な遊戯と体現したものだった。

 どれだけ走っただろうか。その場でへたり込んでしまった場所が、寂れたハンター邸のどの辺りなのだろう。普段は通ることもなく、ランプが点滅する通路に眉をひそめながら、埃と雲の巣の間をかいくぐる。埃臭くて倉庫のようではあるが、いきり立ったαたちの側にいるよりはマシである。
写真家のジョゼフは、今はΩである。発情期となる期間が近づくにつれ、他の者と顔を鉢合わせないようにしていたのだが、運悪く薬が切れたのだ。今日ほど神を呪った日はないだろう。補充をしに行こうと扉を開いただけで、匂いを嗅ぎつけた黄衣の王に追われ、次に女王が目の色を変えて現れた。女だろうとΩにとっては天敵で優位種。逃げるしか道は残されていない。
 基本的にハンターにΩは少なく、基本的に気性は荒い。βを含め全てを敵だと思った方いい。
方向も確かめずに走りだすと、地面から触手が唐突に生えて獲物の位置を探って蠢くのだ。いつもは隠れた鼠を叩き落とすという目的に使用しているのだが、明らかに捕獲をするために這いずっている。捕まってしまえば、椅子に縛り付けられるだけではすまない。
「どこにいったのかしら?」鼻歌混じりの転がるような声にすら悪寒を感じ、慌てて近くの部屋へと入り込む。倉庫ではあるが、煤汚れているくせにやけに物が少ないのだ。ズラリと並んだのは絵画と棚と、タンスくらいか。これだけで天然迷路になっているのが唯一の救いである。
ひとまずタンスに隠れると、息を殺す。サバイバーたちを見つけ、追いかけ、捕まえることが生業の彼ら彼女らは、今は最大の敵。いかにして見つからないように逃げればいいのかと頭を回していると、唐突に地面を叩く音が聞こえてくる。
カツカツカツ。
杖だろうか。鋭利な鉄が木を叩くような音だ。まだ話のわかりそうなΩの狂人だろうか、それともヒールの音? 耳をそばだてていると、部屋の前で音が止まって勢いよく扉が開かれた。

「ジョゼフさーん、どこー?」

 この声は結魂者。蜘蛛の糸は彼女の手足と同然なのだ。きっと触れたことで索敵をされて、確信を持って追ってきたのだろう。足跡は消してはおいたが、即席であるために詰めは甘い。フェイクにも騙されずに特定されては終わりだ。せめてもの救いでこの部屋は暗室かと見まごうほどに暗い。廊下の扉を開けたところで、わずかな光では見つかることはないだろう。

「んー、甘い匂いがするー」

 しまった。芳香については油断をしていた。ゆっくりと近づいてくる足音に、口を押さえて縮こまるしかできない。
Ωの男は相手が誰であっても妊娠させられてしまう。恋愛感情を重んじるわけではないが、男で孕むなど冗談じゃない。我が家系の末代までの恥にされてしまう。カツカツカツと早くなる金属が木の板を叩く音に、口を抑えては息を潜める。小刻みに、正面を走り去っていったことを確認しても気は抜けない。まだαの匂いは部屋中に漂っている。文字通りに蜘蛛の巣を貼られているのだろう、隙間から見えたボロ屋敷のような光景に思わず舌打ちをした。
 しかも、もう1つαの気配とヒールの音が近づいてくるではないか。
この鼻歌と人間離れした背丈は間違いない、リッパーだ。もしかして屋敷中にΩの匂いが分散しているのではと、顔を歪めたところで何も変わらない。息を殺して小さな隙間から外の様子を伺っていたのだが、唐突に彼の足が止まる。目と鼻の先で、だ。

「抜け駆けはよくありませんね」

 囁かれた言葉は、何よりも絶望的で身の毛がよだつもの。勢いよく扉を開いてぶち当ててやろうとまで画策していたのだが、逆に扉を開けられて腕の中へと招き入れられてしまった。

「は、離せ!!」

 暴れようとも、人肌を感じて力が抜けてゆく。リッパーはαだ。この鼻につく蠱惑的で頭を狂わせる匂いでわかる。熱を持て余した体が、自然と火照ってしまい、いつもの力も出せずに、逃げられない。
覚悟を決めなければいけないのだろうか。もう上目遣いで睨みつけることしか術はない。音がするほど歯を食い縛ると、浮き上がり姫抱きをされる体から力が抜けていく。

「ジャックさんずるいのー」
「我らはハンターです。獲物は見つけた者勝ちでしょう?」
「奪った者勝ち、という言葉もあるわ!」

 突然牙を剥き襲いかかる機械の腕を、なんなく人ならざる爪でいなしては霧に隠れて臨戦態勢を取る。
2人のαがいる、それだけで理性がかき混ぜられたかのようにぐちゃぐちゃなのだが、それ以上に生存本能を剥き出しにされては堪らない。耐えきれなくなった体が悲鳴を上げて、じわりと股座に滲が広がり色を濃くしていく。独特なアンモニアの匂いがするが、気にしている暇はない。涙も焦燥と恐怖で溢れ、感情が思ったようにコントロールできない。ただ、ぶつかり合う金属の甲高い音と、αのフェロモンに体を震わせるしかなかった。
 楽になりたい。無意識によぎった言葉に従って、ゆっくりと下着をおろそうとした時だった。冷静で凛とした声が入り口から響いたのは。

「嫌がっているでしょう。離れてください」

 勢いよく傘が開かれる音と共に、現れたのは白い服の長身の男。紫の目が怒りを携えて輝き、2人を射抜く。このままでは三つ巴ではなく、1人を一方的に嬲ることになるのではないか。一発即発な物々しい空気に息を飲むと、先に飛びかかってきたのはリッパーだった。

「邪魔をしないでいただけますか!」

 霧に殺気を混ぜて飛ばしてきたのだが、難なく傘で受け流す。続けて飛んでくる糸は、リッパーの腕を捉えては難なく拘束することに成功した。いくら板を砕く力がある腕でも、サバイバーたちの身動きを完全に封じる強靭な糸を解くことはできない。拮抗している2人を尻目に、真っ青になり震えている写真家を抱き上げては濡れた衣服を傘で覆い隠す。

「大丈夫ですから、ね」
「君も、α……」
「逃さない!」

 標的を変えて飛んできた糸の弾丸を再び傘で弾くと、ブルブルと生き物のように揺れては講義を申し立てる。中に眠る范無咎の魂が憤っているのだろうが、緊急事態なのだ。わかってほしいと蛇腹を撫でると近くの箪笥を引き倒して退路を塞ぐ。すぐに撤去はされてしまうが、時間稼ぎにはなる。獲物を追おうと躍起になっているのだが、横にいる者もまた敵。今は獲物を奪うために共闘はするが、完全には信用はできない。そんな関係性を利用して逃げるしかない。

「ほらほら、油断していると出し抜かれますよ」

 煽るように長い三つ編みを振り乱すが、容赦のない攻撃は白黒無常だけを的確に狙っている。獲物を見失っては本末転倒。やはり先に足を潰すつもりらしい。短く舌打ちをするしかない。
長い足はこう言う時に的にしかならない。うまく障害物を後ろに蹴り飛ばすことで攻撃を避けてはいるが、霧の刃と鉄のような糸を延々と避けることなどできない。どんどん距離を縮められてしまい、これ以上は、と覚悟を決めて傘を握りしめた時だった。近くの壁が倒れる音がしたのは。

「騒がしいと思ったら、なんの騒ぎだ」

 現れたのは、斧を構えた泣き虫と、ハンマーを手にした復讐者だ。
壁を乱暴にくり抜いては戦場に横槍を入れ、逃走者たちのヘイトを一身に集める。
彼もまた、温厚な人物。だが、それは普段の話だ。今の彼の性がどちらにあたるのか、それだけでも敵になりうる可能性があるのだ。だが、忌々しい匂いはしない。彼も理性が溶けたような素振りも見せない。もしかして、βなのだろうか。
それだけで緊張の糸が切れて、気を許してしまったのが悔やまれる。目と鼻の先まで接近することを、許してしまったのだから。

「ジョゼフ。今はΩなのか」
「や、めろ……私は、私はっ!」
「怯えなくていい。逃してやる」
「バカにするな! 1人でもーーー」

 沽券を保つために強がってしまったが、複数のαに当てられて、心も体もボロボロである。涙も止まらないし、体も火照り、震えて言うことを聞かない。必死に睨みつけたところで、壁に追い詰められたウサギが狼に威嚇をしている程度。
だが、命乞いをするにはプライドが高過ぎる。歯軋りをして荒い鼻息をしきりに出していると、急に横から飛びついてくる熱の塊がある。

「ジョゼフさんから甘い匂いがする!」
「や、やめないか!」
「えへへ!」

 お菓子に群がる蟻のように子供に擦り寄られて、体が熱ってしまった。
それにこの匂い。泣き虫はαではないのだろうか。復讐者はβのようではあるが、それでもこれだけαの匂いが充満する屋敷では、いつ理性が決壊して自ら身体を捧げようとするかわかったものではない。霞んできた理性を繋ぎ止めてはすりよってくる可愛らしい子供を引き離そうと肩を押す。
それだけでも、αのことを意識してしまい、一瞬意識が白い靄の中へと消え去ってしまった。慌てて理性を繋ぎ止めると、隠しようのない赤い顔で壁へと背をつけた。

「ん、どうしよう……」
「ロビー、どうした?」
「おしっこしたくなった……」

 すっかり勃起をしている股間を見せられ、顔を青く赤くしながら後ずさることで精一杯だ。こんな子供に手籠にされてしまえば、もう立ち直れない。必死で理性を繋ぎ止めるが、恐怖で股座が濡れていくのを感じる。大勢の目の前で、と恥辱心を覚える前に煩悩に侵食される。
 早く、楽になりたい。身を委ねればキモチヨクなれるのでは?
納得のいかない言葉ばかりが頭をよぎり、必死で振り払っては太い腕にすがりつく。もうだめだ。ここにいては心が狂ってしまう。もうプライドなんて保っている場合ではない。早く逃げたい。楽にして。

「お願い、助けて……」

 涙で歪んだ視界は、誰を見つめているのかもわからない。急に逞しい漢の腕に支えられたと思えば、殺気立つαたちの怒号が耳を擘く。気だけで人が殺せるのならば、きっとこの屋敷は粉々になっているだろう。それほどに強烈で、劣悪な咆哮だった。
その壁になってくれているのは、長身の男と小さな子供。傘を構えて引くこともせずに廊下の真ん中に立ち塞がると、短い舌打ちを漏らした。

「不本意ですが、ジョゼフさんをお願いします」
「引き受けた」

 もう抵抗もできず、腕の中で揺さぶられるだけ。このまま消えてしまいたいと体を丸めて小さくすると、安心させるように頭を撫でられる。
ああ、父親の手だ。子供を守ろうと、庇い護る大きくて暖かい手だ。薄れゆく意識の中で無意識に擦り寄れば「眠るといい」と優しい声。こんな優しい男が、ハンターになった理由はなんなのか。今まで同業者の過去に興味を向けたことはなかったが、ふと気になってしまった。あの、エマという娘に執着する理由も。
意識はここまでだった。暗い闇に引き摺り込まれるように、深く、深く意識が沈んでいく。まるで現実から逃げるように。



 眠ってしまった大きな子供を軽々と抱えて、ひたすら前に進む。後ろから、金属音がぶつかる音と壁が壊れるような破壊音がするが、振り返ることは許されない。きっと、白黒無常と泣き虫が応戦している。白黒無常は、写真家の身を案じている、珍しいハンターだ。泣き虫は、ただ居合わせてしまっただけの本能的な防衛なのだろう。
いつもの殺傷能力を持たないサバイバーたちとは違う、本気の殺し合いに荘園の主人はどのような反応を見せるかわからない。だが、こうなったのも荘園の力のせいなのだから、自業自得というものではないだろうか。これ以上何も言うことはない。
 天気は曇り。元より、晴れた空を見た記憶がここ最近ないが、不吉で無機質な灰色が不安を煽る。雨も降らない地だから、天気の心配はない。大股で飛び石を進んでいると、目の前から長身の男のシルエットが見えた。
あの独特すぎる猫背は、魔トカゲ。

「これはこれは。復讐者の旦那がどこに行くのか」
「今、屋敷は戦場となっている。逃げる方がいい」
「それは何故……ん? あの気難しくて孤高の写真家が、随分と大人しいものだね」
「寝ている。起こすなよ」

 今の彼はβ。すぐには敵となり得ないが、根っからの研究者である彼がいつ牙を剥いてもおかしくない。新種の病気のような症状を、彼が放っておくとは思えないのだから。

「彼は、Ωなのか。性の匂いが強過ぎる」
「お前も敵になるのか」
「冗談。仲間とやり合う気はないさ」

 仲間。金の瞳が怪しく輝き、赤い舌が煽るように外界へと顔を出す。
今は争っている暇もなく、相手をする時間も惜しい。もう言葉を交わすこともせずにすれ違おうとしたのだが、急に尻尾を揺らしながら周りこまれ、細く青い指が、白磁の色をした首筋をゆっくりとなぞった。

「αにβ、それにΩ……実に興味深い。彼は、αの前では理性が保てなくなるのだったね」

 線の細い顎に指を這わせ、顔を斜に構えては覗き込んでくる。金の丸い爬虫類を彷彿とさせる目が、細い瞳孔が収縮して小さくなると、獲物だけを見据えて微笑うのだ。捕食者と非捕食者。身を震わせて古い作業着へと指を強く絡めた

「交尾は生への渇望。もう落命をしたハンターたちほど、優秀な種を残す性を得ることができるとは、なんたる皮肉」
「おい」
「しかも、そんな中で1人Ωとなった者は、きっとーー」
「ルキノ。やめろ」
「おお、失礼した。被検体にはしたいが、流石に非人道的すぎたかね」

 不適な笑みを浮かべ、仰々しく一礼をすると大人しく屋敷の中へと入っていった。長いトカゲの尾と尾を引く笑い声を残して。今は牙を剥かないというのならばいい。後ろから甲高く響く音は、止む気配がなければ白熱している始末。αの匂いにあてられ、彼がまたパニックに陥る前に、離れなければいけない。暗く鬱蒼と揺れる木々の中に足を踏み入れると、縋り付いてくる小柄で美しい罪人を抱きしめた。



 金銀、赤、白銀。まるで天然のイルミネーション。壁にめり込んだ物掘り出された物、様々な宝石が輝く坑道に屈強な護衛は足を踏み入れていた。ここならば道は蛇行しているし、隠れる場所も少なくない。リフトもあるから撹乱もできるし、暗い場所ではあるから人の気配も探り辛い。何よりも、人の出入りが極端に少ない場所なのだ。
ざらついた壁を伝い、中層へと降りたところで、静かに眠り姫をおろすために膝をついた。近くにあった板を数枚手繰り寄せ、簡易のベッドを作ると娘のように優しく扱う。美しい銀の髪を目から降ろし、薄く開いた唇が規則正しい呼吸をしていることを確認して、やっと安心した。
 発情期ではないようだが、あまりにも多すぎるαに当てられて、フェロモンのコントロールができないらしい。こんな彼を狩人たちの巣に置いておくのはあまりにも酷である。ならばどこか人気のないところで匿うか、お人好しのサバイバーたちに任せるか、だ。
しかし、愛娘の元へ自ら赴くことに気が引けた。いつものゲームは半分正気を失っているとはいえ、娘を傷つけてしまっているという事実に苛まれる。
ならば、どうしようか。上階の音に耳をそば立てていると、中層の奥からコツコツと音が反響しているではないか。
誰かいる。

「誰だ」

 隠れる理由はない。きっと相手も気配に気づいている。試すように、何度かわざと音を立てては移動して、徐々に近づいてきているのはわかっているのだ。
ゆっくりと近づいてきた音が、すぐ後ろの壁で止まった。投げられた石がカツン、と軽快な音を上げた。と同時に現れたのは歪んだ鍔のヘルメット。ただ何も言わずに模様を描く顔を出したのは探鉱者だった。

「何、してるの? ゲームに使われていないはずだし」
「お前はαか? βか?」
「βだけど。誰かΩでもいるの?」

 復讐社の後ろへ興味津々の目を向けると、横たわっている人物がいるではないか。それが眠る写真家だと理解し、思わず目を丸くして素っ頓狂な声が上がってしまった。

「写真家、が? 珍しい」
「刺激しないでくれ。今は情緒が不安定だ」
「いつもだと思うけど」

 彼のヒステリックはなかなか大変だとはサバイバーにも有名な事実である。それに疲れ切り、赤く腫れた目を見ていると起こすのも忍びなくなる。刺激をしないよういと近づけば、青白い顔に薄く開かれた唇。ああ、黙っていると人形のようだと顔を近づけていくと、頭を鷲掴みにされて我に返った。

「Ωの抗体薬はあるか?」
「僕は今持ってない医師のところなら薬が余ってる」
「そうか。ならばお前に任せたい」

 探鉱者が驚くのも無理はないが、ここで隠れていられるのも時間の問題である。ハンターであったとしても、先ほどのように相手は複数人になる可能性が高い。守り切れると限らない。
守備も大切なのだが、一刻も早く暴動者たちを鎮圧して、追えなくするのも手。武器を握りしめ、お守りがわりに人形を手渡すと、小柄ながらも大股で歩き去っていきライトの奥の闇へと消えて行った。
 てっきり、横たわっているのは庭師だと思っていたのだ。彼が守りたいものは愛娘ただ1人だと思っていたから。だが、父親の表情をして眠り姫を見つめる仮面の横顔を見て、察した。弱った者には優しくする、根はいい人だったのだろうと。

「わかった」

 もう聞こえているのかはわからないが、人形を握り締めるとすぼんで口角が上がったように見えた。
さて、どうしてようか。鉱山には鉱石探しと、感傷に浸りにきただけだ。目的は特にない。このまま立ち去るほど鬼でもないし、白く光る美しい宝を眺めているのも悪くない。側に座り込んで愛用の磁石を磨いていると、小さく唸り声が漏れ出た。
 目を覚ましたのか。すぐさま横を見れば、水の膜に覆われた青い宝石がゆっくりと現れた。ぱちぱちと瞬きをして、状況を理解しているらしい。周囲を見回して人影を見つけた瞬間だった。
すぐさま獲物を抜くと犬歯をむいて威嚇してくるのだ。丸腰で、今は生身であるのに、真剣で切られるのはごめん被る。両手を上げて無害を装おうと「βだから」と告げ、宥めることに徹した。
徐々に眉間から力が抜けたということは、信頼されたのだろうか。ゆっくりと近づいて傍までやってくると、額に手を起き体温を測る。大丈夫だ、異常は見られない。

「大丈夫?」
「君は、炭鉱者の、キャンベル君?」
「今はΩなんだね」

 それ以上は何も口を開かなかった。無言は肯定。口をひき結んでは代わり映えのない地を見つめるものだから、心配になってしまう。手を差し出してみたら、存外素直に掴み返してくれた。
 忌々しいαの匂いはない。錆びた鉄の匂いと、土独特の湿った匂いに安堵しながら、ゆっくりと金の山を見つめていると、強く引かれて近くのトロッコの中へと引き摺り込まれてしまった。

「何のつもりだ!」
「ハンターが近い」

 必要最低限しか答えない、事務的なやりとりではあるが苦痛とは感じない。無愛想ではあるが、悪い人ではない。冷たい印象だが、根はお節介なのだと。
都合のいい人肌が恋しくなっただけだ、そうに違いない。目の前にある逞しい男の腕にすがりつき、抱き返せば丸くなる目が降ってくる。気づかないふりをして体を擦り寄せれば、頭を優しく抱えて小さくなることを促される。
 ドクン。ドクン。
この心音は、ハンターが近くにいる証拠なのだろうか、はたまた。答えは出せないままに息を殺していると、腕の力が弱まって鼻腔を擽る男の汗の匂いも遠ざかる。

「行ったよ」

 優しく頭を撫でられて、離れるのが惜しいとまで思ってしまう。だがこれ以上は例えβであっても危険だ。急いで体を離せば、顔色1つ変わらない無表情がそこにあった。
確か彼は、金に対する執着が人一倍あった記憶がある。きっと、無償の人助けではなく報酬を要求してくるだろう。淡々と服についた砂埃を払うと、冷めた目で手を差し出してくるのだ。

「動ける?」
「なめないで、もらいたい」
「じゃあ、どこまで行けばいい」

 相変わらずぶっきらぼうではあるが、先導をしてくれるということは、護衛を務めるつもりか。ハンターの屋敷に帰るわけにもいかないが、サバイバーに親しい者も、知り合いもいない。

「どこか、適当な場所で身を隠す」
「そう」

 彼の部屋に雪崩れ込むことが正しいのかもしれないが、お金がいくらあっても足りないだろう。それはなんだか釈だった。それに、2人きりの個室など何があるかわからない。万が一、間違いがあれば正気に戻った時に発狂してしまうかもしれない。だが、しかし。
悪くないかもしれない、という思想も生まれる。陰りを帯びた目に見つめられていると、心が穏やかになるのだ。

「……部屋に戻れたら、小切手を準備する」
「なんで?」
「君はお金に、執着しているだろう」
「もらえるものはもらうけど、今は貴方が無事ならいい」

 一体何が本心なのかわからないが、淡々とした声が安寧をもたらす。つい、背中のバインダーを掴んでしまい、不思議そうな目がまっすぐ写真家の小さくなった体を映す。

「どうしたの」
「隠れ場所、知らないか」
「この鉱山は案外明るいから……サバイバーの屋敷がいいかもしれない」
「だが、あそこは、人が」
「αは少ないよ。βが多いけど、Ωもいる」

 ひねた者たちが多いこの荘園ではあるが、サバイバーたちの方がまだ秩序がある。どうやら「発情したΩを襲ってはいけない」というルールがあるらしく、ヒートの日はαたちが自主的に部屋に篭るらしい。抗体の薬もあると聞くし、そう考えれば悪くはないかもしれない。背に腹は変えられないのだ。

「では、やっぱり、お邪魔しようかと思う」
「僕の部屋に?」
「いくら、かな」
「あとで決める」

 まるで興味のないものの話をするように、すぐにそっぽを向くのは予想外だ。もしかして、金が必要なくなったのだろうか。それとも、通貨が違うからいらないのか。普遍的な値のする貴金属や宝石の方がいいのだろうか。
ここまで考えて、頭を大きく振る。馬鹿馬鹿しい。何故彼の欲を満たすために気を使わなければならないのか。いらないと言うならばそれに越したことはない。
吹っ切れた足取りで横を通り過ぎようとした時だった。今度は彼の腕が、細い二の腕を掴んだのだ。

「前払いは、体で払って」
「え」
「キス」

 俗物な彼が、そんな不確かな報酬を求めてくるとは思わなかった。目を瞬かせて呆気にとられていると、ゆっくりと顎を掴まれて深い黒い目が近づいてくる。吸い込まれそうだ。深い、深い闇の奥に。まるで眠りに誘われるように瞳を閉じれば、啄むように、食いつくように唇が重なった。
荒々しく、慣れない動きだが、徐々に明確な意思を持って舌が口内を蠢き始める。沈めるように、同じもので突いてやれば、絡まり吸い上げ、手を引くように奥へと誘ってくる。
 失礼かもしれないが、彼にも色欲があったのかと意外に思ってしまった。淡白で、金銭欲と睡眠欲と食欲で3大欲求となっているものだとばかり思っていたのだ。
抵抗する力もなく、しばらく好き勝手にさせていたのだが、急に肩を強く押して周囲を仕切に見回しだす。一体何事だろうか。まるで野生動物が天敵を警戒をするようだと思っていると、早足で近づいてくる者がある。

「ジョゼフさん!」

 坑道の中、四方八方から響く足音は真っ直ぐで。現れた長身の男はいつもは整えられている三つ編みを乱し、ストレートの黒白の髪を揺らしていた。
目の前で止まれば、安堵した表情を浮かべた。だが、傍に立つ男の姿を身染めると、再び殺気を纏って傘を握るのだ。

「貴方は」
「βだから。大丈夫」
「そう、ですか」

 それでもまだ腑に落ちない表情で、威嚇を続けているのは先ほどまでの乱戦のために気が立っているのだろう。揺れる金色の目に微かな殺意が見えて、思わず足がすくんでしまうほどだ。彼と仲が悪いのだろうかと勘ぐりたくはなるが、相対して探鉱者は平常である。勝ち誇ったように笑みを浮かべると、あっさりと背中を向けて手を振るのだ。

「残念だけど、僕は行くよ。ハンターの方が強いだろうし」
「ジョゼフさんのこと、ありがとうございます」

 淡白な声と、涼しい瞳。久しぶりにまともな人間に会えた気がして、油断しているのは確かだ。つい呼び止めてしまいそうになったが、彼は振り返ることもなく黄金の山に続く穴へと飛び込んでいった。

「彼と、何かありました?」
「いや、別に」
「ならいいですけど」

 今日の謝必安は異様に気が立っている。常に周囲に対して威嚇をし、卵を守る親鳥のよう。警戒色を露わにしているが、何をそんなに気にしているのだろう。そして、もう1つ疑問がある。

「どうして私を追ってきた」

 特に何かを約束している覚えもなければ、頼んだ覚えもない。むしろαにつけ狙われるなど、たまったものではない。「早々に立ち退いてほしい」という意味を込めるのだが、彼は引く気配はない。豪胆でなければハンターは務まらないのだ。

「貴方に、お願いがあるんです」

 一歩踏み出すだけで、閉鎖空間でフェロモンが揺れ動く。抜刀をして鋭く睨みつけると、流石に殺気に対しては足を止めてくれた。

「近づくな。恩義があるために話は聞くが、変な気を起こせば容赦はしない」
「実はその、無咎が、Ωなんです」
「は?」
「だから、助けてほしいんです」

 白黒無常は2人で1人。だが、2人は元は別人であり、第二親等ですらない他人である。
どのような経緯で同一の存在となってしまったかは知らない。だが傘を握る手に篭めた感情は2人ともベクトルは違えども同じ。悔恨と焦燥。もう失いたくないという強い感情が、彼らを駆り立てている。
 同じだ。
何度試合を鑑賞して思っただろうか。ずっとそばにいたい、失いたくない、求めてしまう。2度と会えないとしても繋がりは感じる、そんな2人が羨ましくて憎らしかった。だから、嫌いだ。

「どうやらヒートが来てしまったようで……。薬自体は私が調達しているのですが「人肌が恋しい」と」
「それで、私に相手をさせると? 冗談じゃない!」
「お願いです。ただ、手を握るだけでもお願いします。」

 彼は、なによりも片割れの范無咎を大事に思っている。ハンターをやっているが、もとより気性は穏やかで、優しい。そんな甘いところが亡き弟と重なり気に食わないが、そんなことは置いておこう。

「なにより、私に何の得がある」
「貴方にヒートがきた時、私が貴方を守ります」
「ふざけるな! αなんて信用できない!」
「私たちは2つの性が1つの体に存在しているからか、多少は性に対する耐性があります」

 ハンターらしからぬ優しい眼差しに口吃ってしまう。無害だと訴えては手を広げて迎え入れようとしてくれる。
嫌いだ。年下なのに大人ぶるところが、自分も余裕なんてないくせに守ろうと必死になるところが。

「クロード……」
「え?」
「なんでもない」

 似ているけども、彼らは弟ではない。今は亡き太陽のような笑顔を思い出してはアンニュイになってしまったが、早く忘れなければ。首を振り、地上へと戻ろうとした時だった。強い力で、すがるように腕を掴まれたのは。

「ジョゼフさん、」
「なんだ」
「ヒート、まだですよね」
「落ち着いた」

 どうして、そんなに必死な声音なのだろう。顔にも影がさして、表情は読み取れない。まさかとは思うが、フェロモンに当てられて発情する手前なのではないだろうか。強いと言っても欲に争うのは難しい。どれだけ禁欲的な相手でも、目の前に餌が無防備に置いてあれば喜んで食いつくだろう。

「思ったよりもΩの匂いが強い……先ほどまで、擬似のヒート状態だったから……」
「だ、ダメ……」
「ジョゼフさん、貴方を抱いてはいけませんか……?」 

 αに強く求められる匂いに、理性が朦朧としてきた。おかしい。さっきまでは情欲がなりを潜めていたというのに、彼に詰め寄られただけでこの様である。
このまま抱かれるのには抵抗がある。だが、怪しく情欲に揺れる紫色の瞳を見つめていると、逆らえない。

「シャ、必安、」
「っ」
「優しく、してくれる……?」

 躊躇う子供に手を伸ばせば、顔を真っ赤にして目を逸らす。その怪しいアメジストの瞳は情欲と困惑に揺れていた。彼も、まだ理不尽な性に争っているのだろう。

「っ、嘘です。すぐに無咎に変わるので、逃げてください」
「シない、の?」
「無咎!」

 果たしてその悲痛な叫びは聞こえているのだろうか。傘を強く揺さぶれば、応えるように自主的な振動が始まる。
浅ましい感情と共に黒い泥となり溶けると、生前の姿を思い出しては形成する。
白く穏やかな雰囲気ではなくて、攻撃的な黒。現れた范無咎は、釣り上がった目で周囲を見回し、こちらを見ては目を見開いた。

「ジョゼフ?」
「お前の相棒に、相手をするよう頼まれた」
「そ、うなのか。ならばお前は、Ωか」
「忌々しいことだがね」

 強烈な優位種の香りが薄れただけで、お互い安堵のため息をついては深く息を吐き出した。Ω同士では間違いは起きない。やっと気を緩めることができて小石の転がる地面へ座り込んだのだが、急に彼の目の色が変わった。
しきりに鼻を動かしている、と思えばゆっくりと近づいてきて肩を掴むのだ。金色の目が、怪しく猛禽類のように射抜いてくる。「逃さない」と言わんばかりに。

「これ……お前からか」
「え」
「甘い匂い」

 香水をつけた覚えはない。自分で服を嗅いだときに嫌な予感に青ざめた。
残香がする。謝必安の、αの匂いが。ずっと猛るαたちの中にいたのだ、移っていてもおかしくはないが自分で気がつかないほどに慣れてしまっていたのも驚きである。
そうか、彼はヒート状態であるから影響しやすいのだろう。久方ぶりの、相方の存在の証拠であれば尚更。

「αの、必安の、におい……」
「ま、待て! 私は謝必安ではない!」
「ん、甘い、匂い」

 交代したところで立場は変わらないではないか。急に大型犬のように覆いかぶさられ、首筋に高い鼻が押し当てられる。
意識ははっきりしているのだが、元より彼の方が力が強い。抵抗したところで勝てる保証などない。精一杯両手で逞しい男の胸筋を押すが、びくともしないことに血の気が引くのだ。しかも、首筋に長い舌を這わせ始めたではないか。まるで蛇に狙われた草食獣。暴れることもできないし、攻撃する手段もない。ただ、顔をそらして我に返ることを願うだけとは情けない限りである。

「必安、ん……」
「あっ……」

 ツプリ、と突き立てられた牙は、動脈を探り当てて掻き毟る。ゆっくりと流れ出た血は写真家のものだ。白のキャンパスの上に走る赤い絵具。なんとも美しく、自然な色合いで芸術を彩っていく。
小さく震える体を抱き込み、逃さないと深く唇を這わせて吸い上げると、行儀の悪い水音がやけにはっきりと耳へと流れ込んでくる。ちゅるちゅる、と舐めとられては傷から痛みを感じる。まるで快楽のように頭に響き、ついつい享受してしまったが、彼の獰猛な金の目を見て我に返ることができた。容赦なく頬を殴り抜くと、不満な表情を露わにして摩るのだが、怒りたいのはこっちなのだ。片方も殴り抜いてやろうかと思った。

「き、さまっ!」
「Ω同士なら番いになれない。心配することはない」
「そういう問題じゃない!」

 全く反省の色を見せない駄犬の頭を、上から下へと引っ叩くが、まだ堪えた様子はない。むしろ、満足した溌剌とした表情を見せるのだ。次はどこを殴ってやろうかと拳を握りしめるが、ため息と共に力は抜けていくのがわかる。
 写真家がなぜ怒っているのか、黒無常はわからなかった。噛みついたのは謝るが、彼も十分発情した雌のような表情をしていた。「気持ちが良さそうだったから奉仕をした」というのが言い分である。それに、噛み跡があれば、もう誰かの者であると言いふらしているようなものだ。遠目だと、番いがいるものだと認識されるだろう。

「これで、周りへの威嚇にはなるんじゃないか?」
「反省の色もない奴め! 早く止血するものをよこせ!」
「血が止まるまで舐めておけばいいだろう」
「馬鹿者! 温めて止まるわけがないだろう!

 それでも怒り狂う姿に、ため息を1つ。憤怒しているのは間違いはないが、許してくれているのもわかる。わずかな痛みを感じる程度の殴打に、思わず笑いそうになれば青い剣呑な光が射抜いてくる。
その時の、物言いたげな赤い顔を荘園生涯で忘れないだろう。一体写真家が何を言いたいのか、白黒無常にはわからなかった。

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