十月、接触データ


 木崎は保健室で昼食である菓子パンを食べていた。体調が悪い訳でもなく、単なる昼休みの保健室当番として。菓子パン一つが昼食なのは、別に彼女が食に無頓着だからではなく、彼女の母親が先日から友人と旅行に出かけているからである。父親は当てにならないほど忙しい上に、料理は壊滅的だ。自覚があるのがせめてもの救いで、一日分には十分すぎる昼食代を置いて仕事へ出掛けた父親に安心した。それを臨時収入とすべく、木崎は菓子パン一つという偏った食事をしている。
 今日の保健室は平和だ。誰も休んでいないし、怪我人もほとんどいない。保健室の養護教諭である中原はるみは、今ごろ学食で食券争奪戦を繰り広げているはずだ。彼女は赴任してからずっとそうらしい。木崎がもそもそと食べた菓子パンは、もうほとんど残っていなかった。
「すんません」
「はい、怪我ですか?体調不良ですか?」
「や、あの、木崎先輩、に用があるんス」
 扉が開いた音に、木崎は傍らのペットボトルのお茶を開けながら応対した。それから返された言葉に、慌ててお茶を一口飲んで振り返ると、そこには体育祭でタオルをあげた切原が立っていた。
「ええと、切原、くんだよね?」
「そうッス」
「用ってなに?」
「あ、あの、これ……タオル、ありがとうございました!」
 ずい、と眼前に突き出された袋に、木崎は面食らった。タオルに名前も書いていなかったし、自己紹介をした記憶もなかったのに、切原は名前を呼び、タオルを返しに来たのだ。一体誰が、と思った木崎はすぐ、切原がテニス部であり、そこには柳が所属していることを思い出した。
「わざわざありがとう。名前書いてないし、返ってこなくていいと思ってた」
「借りたままとか、悪いじゃないッスか」
「でも、私切原くんに名前とか教えなかったよね」
「あ、えっと、柳先輩に教えてもらったッス!」
 毎週金曜日の昼休みにここにいるって、と切原は続けた。木崎の予想は大当たり。しかし、柳はもっと確実な、木崎が放課後毎日いる場所を知っている。そこを、彼は教えなかったらしい。別にあそこは徹底的に隠匿すべきような場所ではないし、誰が来ようと構わないのだが。柳には柳の思惑があったのか、木崎よりも切原をよく知る彼の胸中を、彼女ははかりかねた。
 木崎と切原の共通の知り合いは柳だけで、ぎこちない会話の所々に彼の名前が出てきた。それは、会話が繋がらなかったり、沈黙に耐えかねてだったりで、なんとも不可思議な雰囲気の最中がほとんどだが。そもそも、木崎は社交性に富んでいる訳ではなく、大人しい方に分類されるタイプである。そして切原は女子との会話は苦手な方だ。
「そういえば、体育祭で法螺貝吹いたの誰だろ。切原くんは知ってる?」
 さすがに柳の話題ばかりが続くのもどうかと考えた木崎が選んだ話題は、随分前の話題だった。苦し紛れだと知られるかと思えば、切原はぽかんと木崎を眺めている。
「知らないんすか?」
「いやあ、救護所のテントからじゃ良く見えなくて分からなかったんだよね」
 知ってる名前なら、聞けば分かるかも。慌てて取って付けたような木崎の補足に、切原は少しだけ考えてから口を開いた。
「真田副部長ッスよ」
「うん?もしかして、風紀委員でたまに朝、校門にいる帽子の真田くん?」
「そうッス!あれ勘弁して欲しいんすけどね」
「ああ、確かに法螺貝似合うなあ」
 切原が告げた名は、木崎も知る人物だ。風紀委員だからと朝の校門で服装検査をしており、ともすれば教師より厳しいと評判の真田弦一郎という二年生。木崎は頭に、彼が堂々と法螺貝を吹く様を思い浮かべてみれば、何ら違和感もない。そのうちに彼女の脳内の真田は、鎧兜を身に纏い出陣の法螺貝を吹く姿へと変貌していた。
「どうしよう、真田くんのこと見掛けたら戦国武将思い出すかも」
「ぶっ……お、俺、部活で会うんす、けど!」
「うわあ、真田くんのこと良く知らないのに」
 木崎が心なしか青ざめたのは、朝に違反者に厳しく叱る真田を思い出したからだ。出会っていきなり笑っては彼に失礼なはずだ。儀礼を重んじるような雰囲気を放つ、真田の前でそんなことをしては、お叱りを受けるに違いない。木崎は悪い方まで物事を考える癖があるため、ついに正座をさせられ、ガミガミと真田に説教される事態まで、彼女の脳内は発展した。
「あ、でも真田くんとクラス違うしいいや」
 しかし思考の切り替えの早さも木崎の特徴だった。生徒数の多い立海で、木崎が真田と出会う場と言えば、彼が風紀委員の当番として校門に立つ時くらいでしかない。それも、何も真田と顔を見合わせる必要など全くない。
 悲観的な表情から一転、むしろ清々しささえ感じる表情になった木崎を、切原は不思議そうに眺めた。男子テニス部は、切原の自惚れではなく校内でも人気がある。だから、切原に話しかけてくる女子は、大抵切原や他のレギュラーの話題を持ちかけてくる生徒が大半だった。だが、木崎は知り合いだという柳の話題だったり、ファンの女子も敬遠しがちな真田の話題ばかりだ。
「木崎先輩って、テニス部レギュラーのこと知ってるんすか?」
「顔は会ったことないから知らないけど、名前は聞いたことあるよ」
「柳先輩、とか、友達じゃないんすか?」
「え、友達にしちゃあ、私柳くんのこと良く知らないし、知り合いだよ」
 しょっちゅう会う訳でもないし、と木崎は笑った。だが彼女は直後に真面目な表情になり、ずい、と切原に人差し指を突きつけてきた。
「でもね、柳くんは私の住所、家族、身長、体重とか、果てはスリーサイズまで知ってるんだよ!一回も教えたことないのに!」
 それはストーカーじゃないのかと、切原は柳の将来を心配した。それは成績や年功序列よりも、彼にとって切実なものだ。何せ部活において尊敬の対象、さらには彼が打ち倒したいと願うある種の目標である人物だ。そんな柳がストーカーなどになる事は避けてほしい。例えそれが、柳の純然たる好奇心だけを原動力にしたものだろうと。
「そのくせ柳くんたら私の質問に答えないんだから不公平!」
「柳先輩って、テニスでもそうなんすよ、他人のデータ取るくせに、自分のデータ読ませないんす」
「悔しいから柳くんにアイプチしようと思ったけど見透かされちゃったし」
「ぶっ!や、柳先輩に、アイプチ!」
 簡単に二重になるという品物を、木崎は一度試したが違和感が拭えずにすぐ止めた事がある。それを、プライバシーの侵害を平然とする柳にささやかな仕返しと称して彼女が使うつもりでいたのは、初めて柳と面と向かって会話をして半年後だった。しかし、期待に反して、柳はあっさりと「木崎の鞄にアイプチがある確率100%」などと見透かしてきたのだ。忌々しげに語る木崎に、切原は笑う。確かに、あの見えているのか分からない糸目が二重でパッチリしたら面白そうだし、切原には想像もつかない仕返しだったから。
「あ、ごめんね、切原くんにしてみれば、柳くんは凄い先輩なのに」
「大丈夫ッス!」
「タオル返しに来てくれただけなのに話し込んじゃうし、ひき止めてごめん」
「気にしないで大丈夫ッスよ、楽しかったんで!」
 良かった、と笑う木崎の目は優しい。それを見ながら、切原は素直に楽しかったと言えた自分に驚いていた。女子は苦手だ。それは彼の中で未だ変わらない。しかし、木崎はそんな苦手な女子達とは何かが違うと、切原は思った。
「また、会ったら話しましょうね!」
「いいよ、じゃあわざわざありがとう、切原くん」
 勢い良く保健室を後にした切原は上機嫌で、よく一緒に悪巧みをする銀髪と赤髪の先輩に、柳へアイプチを仕掛けるイタズラを提案することで頭がいっぱいになっていた。彼なりの木崎に対する助太刀気分だったが、そこに仕掛けた後の事を考える隙間は一ミリたりとも存在しなかった。



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