四月、進行データ


 桜は華やかさから一転、瑞々しい葉を湛えて道を彩ろうとしていた。早く全部葉桜になれば綺麗なのに、とは木崎の母親の言葉なのだが、幼い頃から聞いているもののせいか、彼女もまた早く葉桜になればなあと考えている。
 部員が増えたからといって、情報部の変化と言えば時折不慣れな一年生が部室へ立ち寄るようになったくらいで、木崎は今日も放課後の部室に一人だった。新任教師にまつわる噂もまとまり後はそれぞれ自由に活動をしている情報部は、利用者名簿が活動実績そのもの。それらが増えていくことが、木崎には何だか嬉しい。
「あれ、名簿の紙もうないんだ」
 コピーしてこなきゃ、と木崎は部室を施錠して急いで職員室へ向かった。新年度は何かと情報が増えていて整理に時間がかかっているせいか、時計はもう部活終了時間まで数十分といったところ。あまり遅くなると先生からのお叱りを受けてしまうのだ。




「はあっ、疲れたー」
 木崎が部室の鍵を職員室に返した頃には部活終了時間を過ぎていた。慌ててコピー機の使用許可を取りにきていたからか、幸い教師からのお叱りはなく、むしろ気を付けて帰るようにと言われただけ。体力は人並み程度、運動もさして得意ではないのに校舎内を駆けたせいか、昇降口で靴を履き替えている今も、木崎の息は上がっていた。
「やけにお疲れじゃのう、木崎さん」
 真っ暗になるまで時間はあるが、いつもよりも遅くなってしまったため急いで帰ろうと木崎が足を踏み出したその時、見計らったかのように一人の男子が声をかけてきた。そのテニス部のジャージをだらしなく着た銀髪には見覚えはあるのだが、名前は浮かばない。
「あ、えーっと」
「……仁王じゃ」
「仁王くん。校舎もうすぐ閉まっちゃうかもよ?」
「ピヨッ」
 仁王が名を教えてくれたことで、木崎の抱えていたモヤモヤは晴れた。晴れたが、ひよこの鳴き声にも似た謎の返答の意味が分からずに木崎は首を傾げた。テニス部に所属していたならばもしかしたら理解出来るのかもしれないと、無理矢理に自己解決してみたものの、仁王は木崎を観察するように眺めたままだ。
 てっきり仁王が教室に忘れ物でもしたのかと思っていた木崎だが、一向に靴を履き替える気配のない彼の視線に、段々と身が縮こまっていくような気さえしてしまう。実際のところ、仁王のクラスの下足入れは木崎のクラスとはまた別の列にあるのだが、彼女は彼の現在のクラスすら知らないため、気付かない。
「じゃあ、私は帰るね」
 ローファーを履いた木崎は、仁王からの視線による居たたまれなさも相俟ってか、そそくさと彼の横を通り抜けようとした。
「桂 亜子は、幸村を狙って取り入る為にマネージャーになったんか?」
 擦れ違い様、仁王の落とした言葉に、木崎の足は止まった。仁王が何を言っているのか直ぐには理解出来ないまま、木崎は恐る恐る彼の方を見上げた。銀髪に夕陽が滲む仁王の口元は、ニヤリと笑みを浮かべている。不穏な笑み。この男は桂に対して良からぬことを仕掛けるのかと、テニス部として桂と共に過ごしているはずの彼が彼女の努力を察せないのかと思うと、木崎は哀しくなった。
「もし、そうだとしても、亜子ちゃんの今までの努力は、嘘じゃない」
 中学二年、編入したばかりの木崎に真っ先に声をかけたのは同じクラスで席の近かった桂だった。彼女はその頃から努力を惜しまない人で、木崎には眩しく見えたものだ。だから、桂の行動原理がもしもテニス部にとっては不純であろうとも、先にある意気込みを知っているから、仁王の言葉に、普段大人しい木崎にしては珍しくムッとした。
「亜子ちゃんのこと、何も知らない癖に」
 お、と思ったのは仁王だった。木崎 夏実は大人しい生徒、人見知りがちだが穏やかな性格。後半は聞きかじりだが、仁王の中の彼女のイメージは間違いではない。だが桂の話を持ち出して揺さぶりをかけてみれば、彼女はあからさまに分かるほど不愉快そうに顔を歪めた。なる程、木崎と桂は随分と親しい、親友というものなのかと仁王は面白くなってきた。
「知っとうよ。桂は幸村が好きじゃが、幸村は愛東を好いとるっちゅうのも」
 木崎の目に映る仁王は、何かを探るような不敵な笑みから、ふっと優しい表情に変わっていった。
「桂が、中学ん頃からテニスやマネージャーのこと勉強してたんも、全部知っとう。騙してすまんのう、木崎さん」
 呆気に取られた木崎は、間の抜けた表情のまま暫く仁王を眺めていた。全く想像もしていなかったが、良く考えれば有り得ない話ではない。中学から立海であるならば、広いとはいえ知り合う可能性はゼロではないはずなのだから。それに何より、桂は内面の芯の強さとはまた違う可愛らしい見目をしていて、良く男子から告白されているのを木崎も知っている。テニス部という接点がなくとも、仁王が桂のことを知っていても何らおかしくはない。
 だが、仁王が桂を高校に進学するより前に知っていることを、なぜ今になって木崎に明かすのか、彼女にはさっぱり分からない。木崎が中学に編入した頃、高校一年の頃、そして今までだって、機会は山とあったはずなのだ。面識が殆どないままに過ごしていて、今更、唐突すぎる。驚きと、今度は困惑に染まり動きを止めた木崎と、その反応に楽しげに笑う仁王。
「おい仁王、部室閉めるから早くしろって真田が怒ってるぞ」
 二人の不可思議な沈黙を破ったのは、ジャッカル桑原だった。誰だか分からないけれど救世主だ、とそのスキンヘッドを内心で拝んだ木崎は、今度こそ帰宅の為に足を動かそうとしたのだが。
「女の子の一人歩きはいかんぜよ」
「え?えぇ、仁王くん?」
「お、おい仁王……」
 仁王が木崎の腕を掴み、すたすたと部室へ向けて歩き出した。例え細身に見えようと強豪テニス部に所属している仁王と、インドア派で文化部所属の一般的な体力しかない木崎とでは力の差は歴然。足を踏ん張るというささやかな抵抗虚しく、木崎は仁王に引っ張られるようになりながらも足を動かす以外の選択肢はなかった。背後から聞こえるジャッカルの戸惑う声は、もはや救世主ではなくただのお人好しな男子のものでしかない。
 困惑しきりな木崎とジャッカルを余所に、仁王は面白い玩具を手に入れた子供のような表情を浮かべていた。



 ちょうど部室から出て来た柳の視界に飛び込んできたのは、仁王と、彼に腕を引かれている木崎。そして仁王を探しに行った、というか丸井に探しに行かされたジャッカルの姿。仁王と木崎が親しいというデータは無いが、彼が部活を抜け出した隙に変化があったのだろうか。木崎が浮かべている戸惑いの表情は柳の位置からは見極められず、ただ苛立ちに似た感情が内側でじわりとわき上がる。
 冷静さを欠くな、と柳は自身を宥めるように深呼吸を一つ。そもそも木崎と仁王は一年の頃に同じクラスではあったが、互いに意識の外にあった存在だ。さらに木崎の性格を考えれば、一朝一夕にも満たない接触で異性とあそこまで密接な付き合いが出来る確率はゼロに等しい。ついでに言うならば仁王のようなタイプとは、距離を掴みかねるような間柄がせいぜいだ。よって柳が導き出した結論、これは仁王の悪ふざけ。
 その間に、仁王と木崎とジャッカルという異色の三人は、とうとう柳の近くまでやってきていた。ジャッカルは部室に入るべくそそくさと柳の傍を通り抜けていったが、仁王と木崎は何やら話し込んでいる。恐らくは仁王が一方的に入れ知恵をしているのだろう、彼は時折、柳をニヤニヤと眺めていた。
「大丈夫じゃき、行きんしゃい」
 最終的に、仁王は木崎の背を軽く押した。ええ、と戸惑いながら仁王を振り返っただが、ひらひらと手を振られてしまえば追及もできない。柳が熟考により足を止めていたのを、木崎は誰かを待っているのだと思い込んでいた。迷惑ではないと仁王は言っていたが、果たしてそうなのだろうか。
「や、柳くん」
「一緒に帰ろう、と言いたいのだろう?」
「う、見抜かれてるじゃない……」
 仁王くんは嘘つきだと呟いた木崎は、それでも困ったように柳に微笑みかけ、約束がなければ一緒に帰ろうと告げた。元々誰かを待っていた訳でもなかった柳は、構わないと返した。内心で、仁王に借りを作ってしまったなと思いながら。
 木崎と柳が連れ立って帰っていくのを見送った仁王は、ようやく部室へ向かった。そうして扉を開けた先に残っていたメンバーを眺めてから、仁王は口元に緩く弧を描く。
「桂、一緒に帰らんか?」





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