三月、変革データ


 終了式も間近に迫っていて、生徒達はどこか浮わついている。それは木崎も例外ではなく、春休みの予定を頭に浮かべては明るい気分になっていた。
 文武両道を謳う立海は、春休みにもそれなりの量のプリントが課題として配られる。気の早い教師は既に配っていて、一部の生徒達はそれを進めたり、既に終わらせている者もいるが。木崎もその一部の生徒に入る方で、放課後に情報部の部室でコツコツと進めている。きっと切原はギリギリに泣くタイプなんだろうなあと考えながら。
 昼間は麗らかな日差しがあるが、夕方はまだ少し肌寒い。プリントを数式で埋めていた木崎は、小さなくしゃみをした。
「うー、さすがにセーター抜きでこの時間までいるのは厳しかったかな」
 部室の外は茜色と群青色がせめぎあっている。段々と日が長くなってはきているが、夕方は思いの外早く薄暗くなる。木崎は、普段滅多にそんな時間まで残ることはなく、柳が待っていろと告げていなければ、早々と帰宅していただろう。
 プリントを粗方埋めた木崎は、後は家でゆっくりやろうと決めると、片付けを始めた。鞄の中は、この間切原にあげたのと同じ飴の袋が入っていたりするが、ごちゃごちゃしているわけではない。そこへ、メッシュのペンケースやプリントを挟んだクリアファイルを入れていく。
 片付けを終えて木崎が伸びをしたところで、部室の扉が開かれた。
「木崎」
「あ、柳くん。ナイスタイミング」
「あの日逃げるように帰られてしまったから、忘れているかと思ったぞ」
「う、嘘だ。忘れてると思ったら、柳くんはもう一回言うでしょ」
 あの日、柳が今日の約束を取り付けた日は、見慣れないものを見てしまったような気まずさに耐えかねただけだった木崎は、今は少しバツが悪そうだ。柳は、からかいのつもりで発した言葉に対しての返答に、僅かに目を見開く。しかし、次の瞬間には普段と変わらぬ表情に戻っていた。
「木崎、これをやろう」
 鞄から柳が取り出したのは、白く抜かれた梅の花咲く淡い桃色の布で包まれたものだった。季節の花の柄の布に柳らしいと思う木崎だったが、その日は彼女の誕生日ではないため、何故彼がこうして物をくれるのかさっぱり分からない。
「何でまた急に?」
「今日はホワイトデーだからな」
 木崎は一瞬呆けたような表情になり、そして柳の言葉を反芻した。ホワイトデーとは言わずもがな、バレンタインデーと対に扱われるイベントだ。しかし彼女には縁遠いもので、毎年手作りの菓子をくれる桂には遊ぶ時にパフェやクレープを奢って終わりにしてしまう。そしてようやく思い出した。木崎は先月、柳にストラップをあげた事に。
「ええと、柳くんて、マメなんだね」
 大したものじゃなかったのに、と呟いた木崎は、見るからに動揺している。桂や愛東の他、親しい生徒が女子ばかりだった事に加えて、柳が差し出したプレゼントが見た目からして高価に見えるせいだろうか。
 柳の携帯に、あの可愛くはないキャラクターが、不似合いながら揺れているなど知らない木崎は、慣れぬ事態に俯いたままで、髪をしきりに手で鋤く。それを見る柳は、呆れにも似た笑みを浮かべているのだが、それも彼女が俯いているため出来ることだった。
「木崎、気にせず受け取ってくれ」
「うん。でも、そんな、ちょうど持ってたやつだったのに」
 ようやく木崎の手に渡ったプレゼントに、柳は満足そうに笑んだ。それを、帰ってから開けるねと鞄にしまった木崎は、ふと思い出した。桂や愛東が昼休みに言っていた柳からのお返しより、自分が貰ったものの方が明らかに高価ではないか。確か彼女達は、ノートとペンを貰ったと言っていた。今木崎が鞄にしまったものは、それとは違う。
「でも、ありがとう」
 男子からプレゼントなんて初めてだなあと木崎は思いながら、照れたような笑顔で礼を告げる。悪い気はしないし、些細な行動も忘れずに返すとは柳らしい、と思うと自然に笑みが浮かぶのだ。柳はそんな木崎の笑顔に、表情が和らぐ。
 そこで木崎だからだと言わない柳の姿に、きっと彼の気持ちを知る人間ならやきもきしていただろう。好きか嫌いかと言われれば、柳も木崎も互いに好きだと言う程に親しくはなっているのだが、その感情の方向がずれている事を、柳しか理解していない。木崎の中では、柳はようやく知り合いから友人へ格が上がったくらいだ。
 帰るか、と柳が尋ねれば木崎はうんと返す。それだけで、お互いが想いは違えど満足しているうちは、このままだろう。

「あ、柳くんは寄りたい場所ある?」
「まだあのことを気にしている確率、100%だな」
 昇降口へ差し掛かり、お互い靴に履き替えたところで木崎が口を開いた。柳の言うあのこととは、以前一緒に帰宅した時に立ち寄った本屋で、木崎が延々と本を選び、彼を待たせたことだ。うっと言葉に詰まり、みるみる申し訳なさそうな表情に変わる木崎に柳はくすくすと笑う。
「だがそうだな、文房具屋へ寄っても良いか?」
「良いよ。ノートでも買うの?」
「まあ、そんな所だ」
 じゃあ行こうかと二人連れ立って歩く姿を、小さな蕾をつけ始めた校門まで立ち並ぶ桜の木々が静かに眺めていた。そよぐ風はまだ肌寒く、冬の名残。



 木崎と柳が連れ立って帰宅していた頃、中庭の花壇の近くでは幸村と愛東が向き合っていた。
「幸村、いきなりどうしたの」
 早く帰りたいんだけど、と愛東は不機嫌そうに告げる。幸村はそれに害されるでもなく、柔らかい笑みを浮かべたまま。
「俺は愛東が好きだよ」
 さらりと告げられた言葉は告白の言葉だった。一呼吸分の間を置いて、愛東は目を見開く。信じられないとでも言いたげな彼女は、幸村をそういう対象に見た事はない。端整な顔立ちで物腰も柔らかい好青年だとは思っていたし、部活動においても部長たる責任を背負い試合に臨む姿は好感が持てる。けれど、愛東は幸村がそうした感情を持っているなど思いもしなかったのだ。
 何か言わなければと愛東は口を開いたが、何も声にならずに間の抜けた表情となっただけ。幸村は困ったように眉尻を下げながら、愛東を見る。
「困らせるつもりじゃなかったんだ」
 ただ知って貰いたかっただけでと、幸村は困ったような表情のまま微笑んだ。返事は必要ないようで、愛東は小さく息をついた。好きと嫌いを幼子のように躊躇なく口にするには大人すぎて、無慈悲に恋愛の対象でないと突っぱねるには子供すぎる立ち位置で、彼女は場に相応しい言葉など見付けられない。
 ついに俯いてしまった愛東に、幸村はますます眉尻を下げて頭を掻いた。逆効果だったかなと思いながらも、撤回するつもりは彼にははなから無い。好意を知らせた上で、幸村は愛東との距離をさらに縮めたかっただけだ。
「いきなり言われて、困るなっていう方が、おかしいでしょ」
 しどろもどろになった愛東の言葉は、沈黙と混乱で渇いたらしく少し掠れた小さな声で放たれた。彼女にとって、それが精一杯だった。幸村はそよぐ風より何より、彼女のその言葉にすうっと頭が冷えて冴えていく。その傍らで子供じみた感情を沸き上がらせたが、理性で押し留めた。
「全国三連覇」
「いきなり、何?」
「それを達成したら、俺はまた言うよ」
 彼の目は真剣で、それを達成出来ると疑わないほどに強い。愛東はその目に射抜かれたように動けなかった。返事の猶予、告白に対して気負わずにいて欲しいと、幸村なりに考えた結果なのだろう。
 自信に満ちたその言葉は上っ面ではなく、幸村の、テニス部の努力に裏打ちされて溢れるもの。
 愛東が分かったと言うより早く、幸村はそこから立ち去った。一拍置いて、愛東の胸はつまり、小さく脈打つ。傍らでは間もなく開く蕾をつけた小さな花が、揺れていた。



 春休みを迎え、休日や長期休暇には部活がない木崎は、出された宿題をとうに終わらせて自宅で悠々と過ごしていた。時折友人と遊ぶこともあるが、新しく買った本を読み耽る時間も十分にあるため、木崎は長期休暇が好きだ。
 今日も飽きずに自室で読書をしていたが、不意に机に置いていた携帯がチカチカと光り着信音が響く。木崎が慌てて手にすると、ディスプレイには桂の名前が映し出されていた。テニス部は今日は半日なんだろうか。そんな事を考えながら通話ボタンを押して、もしもしと声をかけた。
「夏実ちゃん、これから時間ある?」
「うん、大丈夫だよ」
 元気のなさそうな桂の声に、木崎は不安を抱きながらも待ち合わせ場所を決めて電話を切った。それから慌ててクローゼットを開けて服を身繕い、身だしなみや荷物を確認して、急いで家を出た。母親の、夕飯までには帰って来なさい、という声に背中を押されながら。



 波瀾、その二文字が木崎の頭を過ぎった。可愛らしいキャラクターグッズに囲まれた桂の部屋とはあまりにかけ離れた言葉だが、ピンク色のクッションを抱えて俯いた彼女はむしろその二文字が似合っている。しかしその波瀾には、絶対的な悪など一欠片も存在していないことも、二人は痛いほど理解していた。
「有希ちゃんを勧誘して来たときから、何となく分かってたの」
「亜子ちゃん」
「だからね、やっぱりって思うのに」
「泣いて良いんだよ、亜子ちゃん」
 涙声の桂を見ていられずに、木崎は彼女の頭を撫でた。色恋に身を委ねたことなど木崎には無かったけれど、立海に来て初めての友人だった桂が努力を重ね、日々の出来事に一喜一憂している姿をずっと見ているのだ。それが泡と消えてしまうことが、木崎にも物悲しく映る。桂の話を聞くだけしか出来なかった自分が今出来ること、経験の足りない木崎が選んだものは、彼女の悲しみを受け止める道だった。
 しゃくりあげるようだった桂は、ついに木崎に抱き付いて泣き出した。何も言えずにただ背をさするだけの木崎は、その傍らで桂の気持ちへ思いを馳せる。
 ― テニスもね、好きになったんだ。
 木崎が桂と知り合った頃から、彼女はテニスについて勉強していた。その努力を知っているから、高校へ上がりテニス部のマネージャーになると言った桂を応援していたのだ。どんなに大変なことも、彼女は弱音を吐かずにこなした。どんな時でも前向きだった桂の泣き声は、木崎の胸にも痛く響く。
 けれど、愛東もまた、二人の大切な友人だ。心の底から嫌うなど出来ないし、気持ちを他人がとやかく言ってはいけないことも頭では分かっている。木崎は、自分がまだ子供だなあと呆れながらも、一頻り泣いて落ち着き始めた桂にぽつりと漏らした。
「酷いことだけど」
「夏実ちゃん?」
「その幸村くんが有希ちゃんに振られたら良いのにって思った」
「なあにそれ」
 ふふ、と桂が泣き笑いの表情で顔を上げた。個人的な会話すらしたことのない人物を相手に、あんまりな話だと木崎自身思う。けれど、自分の友人を一人泣かせて一人困らせた幸村に対してそう思うだけならば可愛いものだとも。
「夏実ちゃんがいてくれて良かった」
「そうかな、何もしてないけど」
「こうして話を聞いてくれただけでも嬉しいの。一人だと、有希ちゃんに対して酷いこと考えてたかもしれないから」
 眉を下げて笑う桂は、益々泣き出しそうに見えて、木崎は何も返せなかった。



> CHAPTER2 END.



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