三月、約束データ


 無事に三年生を送り出してから一週間と少し経ったある日。時間は放課後、木崎は職員室に部室の鍵を借りに向かっていた。情報部に入部して二年、ほとんど欠かさないこの日課もあと一年足らずで終わり、などと感傷に浸ることはまだない。
「あ、木崎せんぱーい!」
「切原くん。元気そうで良かった」
 何かプリントを振り回しながら、切原が職員室のある方から駆けてくる。彼は喜色満面、振り回されるプリントは既にくしゃくしゃだが。
 そんな切原の姿を見て、木崎は安心した。二月上旬に行われた進級試験の結果が芳しくなく、先週辺りに追試を受ける羽目になったと嘆く彼を見て以来、会う機会もなかったから。
「聞いてください!ちゃんと進級できるんすよ!」
「わあ、おめでとう切原くん!頑張ったんだね!」
 ピラッと木崎の眼前に広げられたプリントには、どうやら感涙したらしい採点担当の教師が書いた「お前の過去最高点だ!」という震える文字があった。ただし、名前欄の横に書かれた点数は五十点。百点満点の半分である。ともあれ、進級は進級だし、ここまで喜ぶ切原に水をさすようなことは、木崎にはできなかった。
「頑張った切原くんには不思議な飴をあげよう」
「不思議な飴っすか?」
「最近ハマってるんだ、この味が変わる飴!」
 木崎が鞄から取り出した水玉模様の包装紙に包まれた飴を切原に渡すと、彼は何故かさらに目を輝かせている。味が変わる不思議な飴がそんなに珍しいだろうか、木崎は考えたが、コンビニに売られているからそれはないなと思い直した。
「やった!先輩ありがとうございます!じゃあ失礼します!」
「あ、これから部活?頑張ってね」
 テニスバッグを背負う切原を見送ると、木崎は改めて職員室へと向かった。



「お、木崎ちょうど良いところに」
「あれ、山木先生。今日は用事があるとか言ってませんでしたか?」
 職員室に足を踏み入れた木崎を出迎えたのは、情報部顧問の山木大輝だ。がっしりしたその体格から、新入生にはしょっちゅう体育教師と間違われるが、彼は情報処理を専門とする自称草食系教師である。
 山木は太い眉を下げて木崎に笑いかける。情報部の中でも彼と一番会話をする木崎は、その笑みを見た瞬間に顔をしかめた。どうやら今日はまだ部室には行けないようだ。
「その用事で使うプリントを、パソコン室まで運んでくれないか?」
 山木が示したプリントの山はいくら少ない方といえど、乗り気ではない頼まれ事のために積まれているのを見ればげんなりする。例に漏れず木崎はがっくりと肩を落とすが、山木が今度学食でジュース買ってやるからさ、と持ち出した交換条件を飲んでしまった。
「山木先生ひどい、私が学食のミックスジュース好きなの知っててわざと」
 明日昼休みなー、と笑って見送る山木は、これから職員会議だからと手伝うつもりはないらしい。結果、木崎はプリントを胸元に抱えて、よたよたと特別棟まで向かう羽目に。
「場所が遠いんだから、考えて欲しかった、なあ」
 特別教室の集まる特別棟は、木崎が行き慣れた旧校舎とは本校舎を挟んでちょうど反対側にある。パソコン室は悲しいかなその特別棟の四階だ。木崎は時折プリントを抱え直しながら、ゆっくりと移動している。恐らくこの調子では、職員室に戻った時には職員会議はとうに終わっているだろう。木崎は、まあ春休みも近いから仕方ないかと一人苦笑いを浮かべた。



 特別棟四階にある図書室で、柳は本の返却と貸出の手続きをしていた。部長である幸村には、多少遅れると告げておいたから問題はないが、今日はホームルームが長引いたため、普段よりもさらに遅れている。中学の蔵書もほとんど読みきった功績がある柳は、同様に高校の蔵書も読破せんばかりの読書量を誇り、既に半分以上読了している。貸出の手続きを終えた柳は、本を鞄に仕舞い、そこを後にした。
「柳君、まだ部活へは行っていなかったのですね」
 柳が少し足早に廊下を歩いていると、背後から柳生比呂士に声をかけられた。そういえば風紀委員は集まりがあったのかと、柳は、柳生が出てきたであろう集会室を頭に浮かべた。
「ああ、ホームルームが長引いてな。柳生は委員会の集まりか」
「ええ、真田君はまだ先生とお話していますが」
 同じ部活だからか、自然とお互いに歩幅を合わせた柳生と柳は、個性的な男子テニス部レギュラー陣の中でも、お互い読書をするなど共通点が多い。書評をし合ったり、本の貸し借りをしたりすることもある。
 二人でこの作家の新刊はどうだったなどと雑談をしながら歩いていると、階段から女子のものらしき声が響いてきた。ついで、何故かプリントらしき紙が何枚か廊下に飛び出してくるではないか。それに真っ先に反応したのは、紳士の異名を持つ柳生ではなく、柳だった。
「木崎、大丈夫か」
 柳を追いかけるようにやってきた柳生は、階段に躓いたらしい女子を気遣う柳を見てから、辺りに散らばったプリントを集めることにした。春休みのパソコン室解放日と、利用時の注意が書かれたそれを、柳生は軽く揃えて女子に声をかけた。
「大丈夫ですか?」
「ありがとうございます」
 木崎は立ち上がると、柳生からプリントを受け取ろうとした。しかし、柳生はプリントをそのままに、どこまで運ぶものですか、と尋ねてくる。どうしたものかと頭を抱えようとした木崎だったが、押し問答を繰り広げそうな二人を見かねた柳が助け船を出した。
「木崎、ここは素直に折れておけ」
「ええ、でも」
「初対面の柳生相手に申し訳ないと思っているな」
「それもだけど、二人とも部活あるんじゃないの?テニスバッグ持ってるし」
 もう時間割上の部活動開始時間を過ぎているし、木崎は部活に向かう切原を見送ったのだ。ともかく、これ以上遅れるようなことを頼むのは、彼女にしてみれば申し訳ない。何せ、階段で躓いたのは単純に自分の不注意で、運んでいたプリントもそう枚数は多くないのだから。
 木崎は、部活行きなよと言ったが、柳生も柳も動こうとしない。どころか、二人ともが彼女の膝を見て顔をしかめている。一体何があるのかと俯いた木崎の目には、僅かに擦りむいたらしく赤い自身の膝が飛び込んできた。
「怪我をした女性に物を運ばせるなど、したくありませんから」
「えっ、いや、これは大したことないですよ」
 木崎自身も良く見なければぶつけたから赤くなったのだと思う程度で、だらだらと流血しているわけではない。じんわりと血が滲むだけで、じんじんと痛いだけの僅かな怪我だ。なのに柳も柳生も良い顔をしていない。
 これは頼むまで動かないなと悟った木崎は、諦めのため息と共に、パソコン室までお願いしますと柳生に告げた。階段から程近いそこを見た彼は、嫌な顔一つせずに、分かりましたとプリントを運んでいく。
「木崎、傷の手当てをするからついてこい」
「えっ、ちょっと、こんなの絆創膏で良いよ、私持ってるし」
 それを見た柳は、おもむろに木崎の手首を掴んで階段を下り始めた。引きずられるように慌ててついていく木崎は、何もこんな小さな傷で、と呟く。柳はそれに何も返さずにどんどん歩みを進めた。
 背後からは早足の柳生がついてきているが、彼は何も言わない。本校舎へ着くと、柳は何故か保健室を素通りし、昇降口へ向かっていく。
「え、ちょっと、柳くん、保健室過ぎた!」
「保健室で手当てをするなどと言った覚えはないな」
「え?」
「ほら、靴に履き替えろ」
 柳は何故か慣れたように木崎のローファーを取り出して急かす。傍らでは柳生が哀れみを含んだ目で木崎を見ながら、いそいそと靴に履き替えている。もうこうなったら腹をくくるしかないかと、木崎は渋々と履き替えた。
 そうして連れてこられた先は、テニスコートの脇にある男子テニス部の部室だった。どうやらランニングをしているらしく、テニスコートには人がいなかったのが、木崎にとってせめてもの救いだ。
「いや、そもそも何でこんな怪我でここに来なきゃならないの」
「木崎、そこの水道で傷を洗っていろ。俺達は着替えてくる」
「しかも拒否権なしってどういうこと」
「ああ、逃げるなよ」
 会話が成り立たない柳を見て、全く面倒くさいと思いながらも、木崎は水道へ向かった。大したことがない怪我に、こうも大袈裟な対応をされては、むしろ身の置き所がない。柳生は早々と部室に入ってしまったらしく、姿が見えなくなっていた。

「あれ、夏実ちゃん?」
 木崎が傷を洗ったところで、桂の驚いたような声が響いた。それに対して、木崎は勢い良く振り返って今までの経緯を早口に捲し立てる。桂は、穏やかに相槌を打ちながら木崎の話を聞いたが、柳のあまりの過保護さに思わず吹き出した。
「ああ、柳生くんは着替えて出てきたみたいだから、部室入ろうか」
「柳生、くん……ああ、あの人か」
 桂に手を引かれ、木崎には今まで縁のなかった運動部の部室というものに、初めて足を踏み入れた。木崎はこの時に気付くべきだったのだ、桂は柳の味方だということに。

「じゃあごゆっくり」

 木崎がそれに気付いたのは、桂が笑いながら部室を後にした時だった。慌てて桂を追いかけようとした木崎だったが、柳に手を捕まれて、そのままパイプ椅子に座らされる。彼の右手には、テニス部の備品だろう救急箱がある。
「もう、データマンの癖に大袈裟だよ」
 拗ねたような木崎だが、大人しく手当てされているところを見ると、さほど嫌ではないらしい。柳は密かに口元に笑みを浮かべながら、簡単な手当てを済ませた。元々些細な怪我だったせいもあって、木崎の膝には正方形の絆創膏が貼られているだけ。
 ありがとうと礼を告げた木崎が立ち上がろうとしたところで、柳がひき止めてきた。まだ何かあるのかと木崎が顔を上げたのと同時に、部室の扉が開く音が響く。誰が来たのか、眼前に柳がいて木崎には分からなかったが、彼は予想できていたらしく、フッと笑う。
「れ、蓮二……」
「弦一郎、覗きとは感心できないな」
「えっ、何、私はデータ収集のエサにされたの?」
 木崎の前からようやく退いた柳の向こうに、帽子で隠されていても分かるほどに茹で蛸のような真田が見える。どうやら遅れてきたのか、まだ制服姿だ。
 辺りに漂う気まずい沈黙が、木崎には痛い。ランニングから戻ってきたらしいテニス部員の声が微かに響いてくるのが、それを余計に増長する。耐えかねてこのまま帰ろうかと思った木崎だったが、未だ部室の出入口に立ち尽くす真田を押し退ける度胸など、持ち合わせていなかった。
「木崎、十四日の放課後は暇か?」
「へ?あ、暇、だけど」
 柳は真田を無視し、木崎に声をかけた。木崎は真田をちらと見ながらも、返答する。自然な流れに思えるが、気まずさは払拭されてはいない。
「では、俺の部活が終わるまで待っていてくれ。お前の部室まで迎えに行く」
「そりゃあ構わないけど、あれ、どうするの?」
 気まずさゆえか、木崎は思わず小声だ。柳は、あれと示された真田を見て、それから何もなかったかのように彼に近づく。そうして何か話しかけていたが、木崎には聞こえなかった。
 どうやら柳のその一言は効果的だったらしく、吃りながらも「たるんどる」と叫んだ真田は、そのまま部室のロッカーの前へ立つ。それを見てしばし呆けていた木崎だったが、真田が制服のジャケットを脱ぎネクタイを外し、ワイシャツのボタンに手をかけたところで、ヒッと小さな声を上げて慌てて部室を飛び出していった。
 柳はそれを、楽しそうに見送ったのだった。



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