二月、贈呈データ


 二月も半ばに近付くと、校内がそわそわと落ち着かない雰囲気に満たされていく。女子にとって恋の一大イベントであるバレンタインデーが近いからだ。特にファンクラブ会員は既に息巻いていて、図書室にあるお菓子作りの本は殆んど貸し出されているらしい。
「亜子ちゃんのお菓子楽しみだなあ」
 調理室を借りようとしている女子の人だかりを縫って、職員室から鍵を借りた木崎は、バレンタインデーといえば桂が手作りのお菓子を分けてくれる日としか認識していない。彼女の父親は不憫だ。
「お前さん、危な」
「ぎゃあ!」
 鍵を手に廊下を歩いていた木崎は、不意にかけられた声と背中に走る衝撃に、色気など微塵もない悲鳴を上げた。そして、カン、コロコロ、という乾いた音と誰かの足音が耳に届いた頃に、ようやくその衝撃の原因に気付く。それは、カラースプレーの缶。安心すべきか、蓋は鮮やかな赤を湛え、カラフルな水玉を纏う缶と仲良くしていた。
「すまんのう、手が滑ったナリ」
「い、いや、大丈夫です、多分」
 動きを止めたスプレー缶を拾い、木崎に謝ったのは仁王だ。いたた、と背を撫でる彼女は、振り返ってその姿を見ると、あっと声を上げた。しかし、その次の言葉はすんなりと出てこなかった。沈黙に耐えかねたのか、仁王が木崎の言葉に疑問符を付けてそのまま返す。
「あ?」
「あの、ごめんなさい、何言うつもりだったか忘れました」
 大したことじゃないと思うので気にしないで下さいね、と木崎は恥ずかしさから頬を赤らめて駆け出してしまった。そのまま残された仁王は、手にカラースプレーの缶を持ったまま、しばらく立ち尽くすしかできない。
「仁王、廊下の真ん中に立って他人の邪魔をするくらいなら、部活に来い」
「参謀、俺は今美術の補習中ナリ」
 パァン、と丸めたノートで頭を叩かれた仁王は、その元凶である柳に、廊下の片隅にある新聞紙の上に鎮座するカラフルに彩られた段ボール箱を示した。そこには、欠食丸井に愛の手をなどと油性ペンででかでかと書かれている。それを見た柳は、ため息をつく。
「今年もやるのか。だが、今後そのカラースプレーから手を滑らせるなよ」
 普段より幾分か厳しい口調の柳に、仁王は反論が得策ではないと悟り、へいへいとやる気なく返した。その態度が悪かったのか、柳はテニスバッグを背負い直しながら「お前はサボりだと弦一郎に伝えておく」と言い残して立ち去った。
 部長の幸村に告げ口されて練習メニューを増やされたり、果ては目が笑っていない彼の監視がついたりという罰則よりは厳しくはない。だがそれは精神的に、である。柳は、仁王にとってそれよりも避けたくて仕方のない罰則を用意したも同然だった。
「いつもなら見逃してくれるんじゃがのう」
 ため息をついた仁王は、仕方なく廊下に置かれた段ボール箱を教室に放り込んで、部活へ向かうべくテニスバッグを背負った。真田の制裁、という名の強烈なビンタだけは、仁王も喰らいたくない。



「あ、思い出した。あの銀髪さんって一年の時同じクラスだったんだ」
 部室の掃除を済ませた木崎は、廊下で出会った仁王に何を言いたかったのかを思いだし、綺麗になった部室共々、清々しい気分を味わった。しかし彼女は、彼の名前までは覚えていないのだが。
 そもそも男子テニス部に所属し、女子の人気が高い仁王は男子とも仲良くやっており、授業態度は悪いもののクラスの中心に近かった。反面、大人しい木崎とは殆んど接点もなく、性格は違えど、お互いに親しいクラスメイトくらいしか名前と顔を一致させないタイプだ。
 さらに、仁王は柳と親しい女子が居ることを知ってはいたが、名前までは興味がなかったために聞いていなかった。少し前の旧校舎での筋トレの時には、早々と終わらせて帰宅してしまっていたのだ。よもやスプレー缶をうっかり当てた女子が、件の柳と親しい女子だとは思っていない。
 そんな噂があるとは知らない木崎は、今日はもう帰ろうかなあと薄暗い空を眺めながら考えた。暖かさはまだ遠く、あまり遅くまで暖房のきいた屋内で過ごしていては、帰るのが億劫になるに決まっている。



 昇降口を出るところで、木崎の携帯が鳴った。携帯を開けば、母親からのメールが届いている。それを慣れた手付きで確認して、げえと顔をしかめた。
「遠回りじゃん」
 文面には卵安売り、そしてスーパーの名前が記されている。簡潔すぎる、お使い要請だ。それだけならば木崎は文句を言わないが、指定されたスーパーは学校から下校ルートを逸れて遠回りしなければ立ち寄れない場所にある。
 拒否しようものなら夕飯が簡素なものになるのは目に見えているため、木崎はため息を吐きながらも了解と返した。確かテニスコートの近くの校門から出た方が近道だったはずだと、彼女は滅多に足を運ばない場所へと歩みを進めた。

 ファンクラブの統制の賜物か、テニスコート周辺で練習を見ている立海生はいない。ファンクラブの応援が許可されるのは、立海で行われる他校との練習試合や、大会くらいだ。
「なんかすごいなあ」
 木崎は、初めて間近にテニス部の練習を見て、その力強さに感嘆の声を上げるも、邪魔は良くないとそのまま横目に見ながら素通りしようとした。
「あーっ、危ないっ」
「へっ?」
 予想だにしない声に、木崎は慌てて視線を前方に戻すと、何やら黄色い物体がバウンドして近付いて来ているではないか。今日はやたら物が飛んでくる日だと考えた木崎は、思わず手にしていた鞄を胸元まで持ち上げた。しかしボールは何度かのバウンドで高さを失っている事に、彼女は気付いていない。
「お前の足にボールが当たる確率、100%だ」
 柳の声が近くで響き、木崎が慌てて顔を上げると、彼はラケットでテニスボールをひょいと受け止めているではないか。謝りながら駆け寄ってきたのは女子テニス部員で、いまいち状況が飲み込めていない木崎を尻目に、柳は女子に気を付けるようにと注意しながらボールを返した。
「柳くん、えーと、あ、ありがとう?」
「気にするな、お前の過剰防衛は面白かったからな」
 楽しそうな柳の声音に、木崎は自分の顔が段々赤くなっていくのが分かる。胸元に上げたままだった鞄を下ろしてから、桂や愛東、切原の呼び掛けにも気付かずに、木崎は「今日は用事があるから!」と叫んで脇目もふらずに校門を出てしまった。
「ふむ、新しいデータが取れたな」
 そう呟きながら満足そうにテニスコートに戻ってきた柳は、他の部員に怪訝そうな顔で見られた。仁王はそれをにやりと笑いながら眺めるだけ。



「うっわ、またかよ!」
 バレンタインデー当日の立海の朝は、丸井のその絶叫から始まった。彼の机の上には、カラフルに彩られた段ボール箱がでんと鎮座している。欠食丸井に愛の手をと油性ペンで書かれたそれには、既に幾つかの綺麗にラッピングされた菓子類が放り込まれていた。
「おうブンちゃん、今年も大漁だとええのう」
「仁王またお前だろぃ!こんなもん無くても俺は大漁だっての!」
 わざわざ他のクラス来るな!と丸井が仁王に文句をつけている側から、様々なお菓子が箱の中に入れられていく。中には遊び半分で安いチョコや、お菓子を模したパズルを放り込んでいく男子もいる。彼らが中学二年の頃から恒例となっているこの仁王のささやかな悪戯は、口では文句ばかりの丸井も満更ではなさそうで、仁王が逃げた後に早速菓子を見定めてはラッピングを開いては口に放り込んでいた。



 そんな賑やかな朝で始まったバレンタインデーは、放課後まで甘い匂いがあちこちに漂っている錯覚をもたらした。柳も幾つかの菓子を紙袋に入れて歩いているが、それは幸村に渡すよう頼まれたものである。柳はどうやら、真田に次いで気難しいと思われているらしく、バレンタインデーに菓子類を貰うことは滅多にない。それは、洋菓子をあまり好まない柳にとってはありがたくもあったが。
 柳が階段に差し掛かったところで、機嫌良く階段を下りていく木崎が視界に入る。彼女の右手には、ピンク色の包装紙でラッピングされたものが揺れていた。
「木崎、機嫌が良さそうだな」
「亜子ちゃんの手作りお菓子貰ったからね」
 満面の笑みで木崎が持ち上げたのは、先程まで彼女の右手で揺れていたものだった。亜子ちゃんお菓子作り上手いから楽しみだったんだ、と笑う木崎は、もはやバレンタインデーに誰かにチョコレートを送るつもりなど無いと、言外にアピールしたも同然である。
 柳は、なんとなく桂に負けた気分に襲われた。そうして、例え鬼に笑われようとも来年はバレンタインデーに木崎から何かを貰えるような立場になりたいと、切に願った。
「柳くんは何か貰ったりしたの?」
「桂と愛東から、義理を貰ったくらいだ」
「ええ、柳くんカッコいいんだから、いっぱい貰えるんじゃないの?」
 彼の性格に多少難はあるが、木崎は柳を格好良い部類だと認識している。それに、男子テニス部にはファンクラブがあるのだから、柳もたくさんのチョコレートを貰うものだと、木崎は思い込んでいた。
 彼女のクラスでも、一部の男子はチョコレート獲得数を競ったりしていたし、柳も意外と気にするタイプかと考えたが、木崎の予想は外れたらしい。しかし、マネージャーからの義理だけでは、少しばかり可哀想に思えた木崎は、おもむろに鞄の中を探る。
「そんな可哀想な柳くんには、お菓子じゃないけどこれあげるよ」
 じゃーん、と効果音を付けてまで木崎が取り出したものは、お菓子のキャンペーンで手に入れたらしいキャラクターのついたストラップだった。難点を挙げるなら、そういったものに詳しくない柳から見ても、キャラクターがあまり可愛くない事くらいだ。
 しかし木崎がくれるのだからと、柳が受け取ると、彼女は自身の携帯を取り出して、そこに下がるストラップを見せた。
「私のと色違いのお揃いだけどね」
 それでも良いなら貰っといて、と木崎は屈託のない笑顔を見せた。確かに、柳の手の中にあるキャラクターは抹茶色で、木崎の携帯に下がるそれは群青色である。柳が何度見ても、そのやる気のない顔に可愛さは感じられないが。
「貰っておこう。ありがとう、木崎」
「あのさあ柳くん、亜子ちゃんも有希ちゃんも同意しなかったけど、これすごく可愛いよね?」
「あ、ああ……そうだな」
 木崎の思う「可愛い」の基準は、どうやら周りとはずれているらしい。真剣な彼女の面持ちに思わず同意してしまった柳の中に、新たなデータも追加されたバレンタインだった。



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