二月、争奪データ


 今年一番の寒さです、とテレビのお天気お姉さんが何度言っただろうか。木崎はそんな事を考えながら、情報部の部室へ向かって歩いていた。冬も佳境に入っているせいか、暖房の恩恵がない廊下は底冷えの寒さだ。
 木崎はマフラーとコートを着込んで寒さ対策は万全だが、運動部はジャージだけなんだと考えるだけでも体が震えそうだ。体育でも寒さに凍えるグループに属する木崎には、耐えられそうもない。
 運動部らしき生徒がバタバタと駆けていくのを横目に見た木崎は、旧校舎へ向かう渡り廊下の窓が開いているのを見つけてため息をついた。木枯らし吹きすさぶこの季節に、なんたる暴挙かと。
「あ、木崎先輩!」
「あれ、切原くんどうしたの。部活は?」
「今日グラウンド整備なんすよ」
 渡り廊下に差し掛かる手前で、木崎は切原に声をかけられた。グラウンド整備だと言う割りに、彼は男子テニス部のジャージを身に付けている。不思議そうな木崎に気付いたのか、切原は室内で筋トレっす、と教えた。
「渡り廊下で?」
「いや、旧校舎一階なんすけど、ここで先輩達と待ち合わせしてるんです」
「へえ。切原くん、頑張ってね」
 木崎はそう言って渡り廊下の窓を閉めながら、旧校舎の方へ行ってしまった。切原は、どうせなら一緒に旧校舎へ行っても良かったなあと僅かに落胆したが、今日はいつもより早く終わるから帰りに出くわしたりして、と期待も抱く。しかし、切原は己に強力かつ抜け目のないライバルが居るなどとは、露ほどにも思っていない。

 彼がその存在を認識するまで、あと少し。



 旧校舎四階にある情報部の部室で、木崎は相変わらず棚に並ぶファイルに目を通して過ごしている。部室にあるファイルは、代価の低い些細な情報ばかりで、新任教師の左手の薬指は空いているか否かから、先週の朝礼で校長が発した「であるからして」の回数や、その話の時間だったりと、単なる日常会話で上がる噂が殆んどだ。それ以外は、部室の奥にある鍵付きの扉の向こうで厳重に管理されている。
 木崎が、過去在任していたカツラの教師名簿を開いた所で、柳が情報部の部室を訪ねてきた。切原と別れてから、そう時間も経っていないため、木崎は驚いたように柳を見る。
「あれ、柳くん。部活は筋トレなんだよね」
「ああ、各自解散でな、俺が終わるまで待っていてくれないか」
「え、うん、今日はちょっと寄るとこあるんだけど、いいかな」
「構わない」
 なら待ってるよ、と笑う木崎に、柳も僅かに顔を綻ばせてそこを後にした。元々情報部は、教師や生徒からの手紙等で個々の部員が依頼を受けているため、部員が毎日待機している必要はない。
 木崎が放課後毎日部室にいる理由は、情報の整理や何故か毎日ゴミが出る部室を放っておけず、掃除や整理を一人でこなしていたからに過ぎない。そのため、木崎が帰る時間は、毎日まちまちだ。柳はそれを知った上で、他に余計な誘いが入らず、木崎が放課後確実にいる情報部の部室という打ってつけの場所を利用して、彼女を誘った。
「有希ちゃんも亜子ちゃんも、本屋付き合ってくれないんだよねえ」
 木崎は、柳の行動が彼女の本屋に行きたいという考えまで計算ずくだなど、全く気付かない。机に広げていたファイルを捲っては、必死に笑いを堪えている。
「ふふっ、やっぱり数学の鶴田先生ってカツラだからツルリンなんだ……」



 木崎が旧校舎四階で笑いを堪えている頃、一階の廊下では、男子テニス部が筋トレに精を出していた。旧校舎は普段から人が少ないため、雨天時などにはよくグラウンドを使う運動部が筋トレをしている。
 今日はグラウンド整備という事もあり、部活が休みという所が多いが、そこは常勝を掲げる全国覇者の強豪テニス部のこと。グラウンドが使えずとも、雨天時と同じ練習メニューをこなしていく。
「何回見ても圧巻」
「そうだね、有希ちゃん」
「亜子は三年目でしょ?」
「それでもこう、廊下にこれだけ並ぶとねえ」
 メニューをこなしていく部員のペースを見たり、終わった部員をチェックし、ドリンクとタオルを渡していくマネージャーは、いつもよりは仕事が少ない。だからといって楽でもないけれど。愛東と桂は、旧校舎一階の廊下にずらりと並ぶテニス部員一人一人を、無茶でないペースかどうか確認している。
「ほら、足にテーピングしてるんだから、そんな無理しないでね」
「切原、さすがに無理しすぎ。この間パワーリストの負荷増やしたばっかりなんだから」
 部員の状態をメモした名簿を片手に、二人はそれぞれペースや時間をチェックしていく。愛東は切原のペースが早すぎると指摘したが、彼は聞く耳を持とうとしない。
「早く終わらせたいんす」
「焦ってやり方を間違えると効果ないよ」
 むしろ逆効果だと愛東がたしなめても、切原はペースを落とそうとしない。頑固さを崩さない彼に、愛東は指摘する事を諦めたらしい。切原とペアを組んでいたのは彼と同じ一年生だったし、レギュラーではないためか、はっきりと言えなかったようだ。愛東が諦めたことで、切原のペアはため息をつく。
「赤也、そうやって無理をするのは良くないよ」
「あ、幸村。委員会お疲れ様」
 頑として愛東の意見に耳を貸さなかった切原だったが、不意に聞こえた声にぴたりと動きを止めた。それはまるで悪戯がバレた子供のようで、分かりやすいなあと幸村は笑った。
「赤也、そんなにやる気があるなら真田とペアね」
 疑問文ではないその幸村の言葉の端々からは、拒否権を匂わせないような威厳が溢れている。それは、切原が無茶なことをしないようにするためで、幸村はどんな手段が有効か熟知していた。
 自身や柳でも良かったのだが、幸村は少し前に、メニューをこなした柳とすれ違っていた。帰宅の用意をするためだと言っていたから、引き留める事はしないで見送ったのだ。それに、自分が切原とペアを組んでしまえば、元々彼とペアだった一年生が真田と組むことになる。
「愛東、桂にも伝えてくれないか?真田と赤也のこと特によく見ておくように」
「気になるなら自分が切原と組めば良かったのに」
「そうしたら彼が真田とだよ?酷じゃないか」
「あれ、柳は帰っちゃったんだ」
 さっきすれ違ったよと言いながら、幸村は一年生に指示を出して筋トレをこなしていく。切原は渋々と、部員に指導している真田の元へと走っていった。程なくして、急いでいようと廊下を走るなという真田の注意が辺りに響き渡る。
 メニューをこなした部員にタオルとドリンクを手渡していた桂は、今日も平和だなあと笑った。



 ちょうどその頃、柳は情報部の部室で木崎と合流したところだった。真田の声は、階段など軽く飛び越えて四階まで響いた。さすがに何を言っているかまでは聞き取れなかったが。
「木崎、すまないが一階へ立ち寄ってもいいか?」
「うん、さっきの声が気になるんでしょ?」
「まあそんな所だ」
 木崎の問いにそう返した柳だったが、あの声が真田だと確信している。だいたい何があったか、誰が原因かなども柳には容易い予測だ。木崎と連れ立って一階に立ち寄る理由は、今日やけに浮かれていた切原への牽制の意味がある。
 切原が木崎になついている事を柳は知っていたし、彼女と会話をした日の切原の浮かれ具合は、誰の目から見ても明らかだ。それが切原から木崎への恋愛感情でなかろうと、柳にとっては面白くないものでしかない。ささやかに練習メニューを増やしたりしていた理由が、柳のそんな単純な気持ちからだとは、切原は露ほどにも思っていないだろうが。
「わ、すごい」
 一階の廊下には、部活開始より人数が減ったとはいえ、委員会などで遅れてきた部員もいたせいか、まだ半数近くが筋トレに精を出していた。そのテニス部員が並ぶ光景に、木崎は思わず感嘆の声をあげる。それに対し、初めて見る奴はだいたいそういう反応だ、と言いながら柳が笑う。
 ちょうど近くで名簿を片手に部員の様子を見ていた愛東が、二人に気付いて声をかけた。
「あれ、夏実と柳」
「有希ちゃん、お疲れ」
「愛東、先ほど弦一郎の声が四階まで聞こえてきたのだが、赤也か?」
 ご名答、と言いながら、愛東は廊下の奥を示す。そこには、メニューを終えた部員にドリンクやタオルを配る途中らしい桂が笑顔で見ている真田と赤也。さらにその隣には幸村と、彼を前に緊張している一年生がいる。
 柳は愛東に礼を言うと、木崎についてくるよう告げて、そちらへ向けて歩みを進めた。柳と共に歩いているせいか、知らない男子の視線を浴びる羽目になった木崎は、柳の真の目的はこの意地悪をするためかと勘違いしていたが。
「あれ、蓮二じゃないか」
「夏実ちゃんも一緒なんて珍しいね」
「え、あ、木崎せんぱ」
「赤也!よそ見をするな」
 柳の後ろを歩いていた木崎は、その真田の怒声に驚いてしまった。それを見ていた桂は、笑いながらも木崎を宥めにかかる。幸村はそんな彼らを笑ってから、一年生の指導や補助をしながら柳に意味深な笑みを向けた。
「蓮二、彼女と一緒に帰るのかい?」
「ああ、約束をしていたからな」
「えっ、なら俺も一緒に」
「赤也、まだ終わっとらんぞ!」
 柳の言葉に慌てて立ち上がろうとした切原は、真田に抑え込まれた。桂はそれを微笑ましいものでも見るように眺めてから、終わった部員の声に返事をし、ドリンクとタオルを手渡しに向かった。
 切原が顔を青くしているのを柳は満足そうに見ている。幸村は、赤也頑張れと励ました。笑いだしたいのを堪える表情がオプションでついているが。それがテニス部の日常だと知らない木崎は、おろおろと切原と真田のやり取りを見るだけだ。もしかしてこれが体育会系なのかと思いながら。
 そんな木崎の肩を軽く叩いて、柳は口を開く。何かを企んでいるようにゆるやかな弧を描く彼の口元は、木崎には見えない。それすら柳の計算の内。
「木崎、寄りたい所があるんだろう」
「あ、そうそう、本屋行きたいんだけど、いい?」
「ああ、俺も本屋に用事があるからな、構わない」
「良かった。じゃあ切原くんも部活頑張ってね」
 部活邪魔してごめんなさい、と付け加えた木崎は、柳と連れ立ってその場を去っていった。そこへ、散々響いた真田の声が気になったらしい愛東が、真田と切原の様子見ついでにやって来た。
「夏実達は帰ったんだ」
「ああ、一緒に本屋行くんだってさ」
 デートみたいだよねと、幸村は笑う。切原を横目で見ながらなのだから、質が悪い。真田にはペースが落ちていると指摘され、幸村にはからかわれる切原に、愛東は同情した。もし真田が色恋に鈍感でなければ、こんな板挟みにはならなかったかもしれない。幸村のわざとらしいからかいの方が、今の切原には突き刺さるのかもしれないが。
 別に、デートしたいとかじゃなくて、と口ごもる切原を見かねたのか、愛東がフォローを入れた。
「切原、夏実と本屋に行くのはやめな。あの子一時間は軽く居座るから」
 それは、切原が木崎と一緒に帰れなかった事に対する慰めではなかったが。



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -