沈殿


 冬休みは何かを振り払うように勉強に没頭した。進路など決まっていたようなものだったのだが、何かをしなければ罪悪感や怖さを追いやれなかったのだ。
 連絡網で、彼女が神奈川県にある立海大附属病院に入院したと聞いたが、私は一度も見舞いに行かなかった。



 休みが明けて、始業式では特に何も言われなかった。びくびくしていた皆はふうと一息つく。無論私も。
 彼女は未だ入院しているらしく、水面下で不穏な空気が流れる以外は平和だった。もう誰も、マネージャーを虐める人間はいない。ある意味で、一番平穏だったかもしれない。
 それが嵐の前だと、私はなんとなく気付いていた。
 だからどうにかしようとは思わなくて、後僅かで卒業という緩い空気を享受するだけの毎日を過ごした。
 彼女が退院したのは一月の下旬だった。

 それから再び、彼女に対する嫌がらせが始まる。私はもう、主犯から手を引いたけれど。かと言って彼女につくつもりもなかった。私は彼女の立場に立つことを、理解する事を放棄したのだ。
 だからといって罪悪感は拭えないまま、早くこの雰囲気が消え去れば良いのにと願うだけ。
 種をばら蒔いておきながら身勝手だとも思う、卑怯だと思う。でも私は、今ならまだ手を汚さずにいられると、勘違いをしていたのだ。

 私の手は、心は、すっかり狂気に汚れていたというのに。

 初崎にまつわる最後の大きな事件は、授業も殆んど終わり、卒業式の練習や自習が増えた二月の下旬に起きた。その日の昼休み、私は友人と一緒に食事をしていた時だ。クラスは雑談で騒がしかったが、彼女の周りだけは酷く静かで。
「ねえ、アンタ死ななかったのね」
 そこに落とされた良く通るソプラノは、クラスで良くも悪くも目立つ女子の声だ。その一言で教室が一気に静かになる。廊下のざわめきさえ、切り離されたようだ。
「アンタみたいなネクラ、死んじゃえば良かったのにね」
 取り巻きがそれに合わせて笑う。彼女達に罪悪感なんて微塵もなさそうだ。私など、今も彼女が怖くてたまらないと言うのに。
「そうか」
 冷たい声が、静かな教室に落とされた。他のクラスの人間も、このクラスの異様な静けさが気になったらしく、いつの間にか野次馬が廊下に沢山集まっていたようだ。

 彼女は鞄からカッターを取り出して、口元を歪めた、ように見えた。

 私と彼女の席は教室の丁度対角線上だったから、彼女の手先まで細かくは見えなかったのだけれど。カチカチとカッターナイフの刃を出す音が、張り詰めた雰囲気の教室に波紋を描く。
 彼女は何の躊躇いもなく、自身の首筋にカッターナイフの刃を当てた。それだけでも様子を見ていた女子達が悲鳴を上げる。

 あの時と同じだ。

 死ねと言いながら、いざ死ぬ素振りを見せれば顔を蒼くする。覚悟がないと、改めて突き付けられたようだ。私達はただ何かに突き動かされるように、狂気を、中途半端な狂気を振りかざしていただけだったのだ。
 彼女が手に力を込めれば、首筋から赤い血が一筋、二筋と垂れていき、彼女の制服を汚していく。それでも彼女は痛みも何も感じていないかのように、じわじわとカッターナイフの刃を首筋に埋めて。

「待てっ!」

 跡部くんの声が聞こえてからは、全てがスローモーションのように見えた。
 彼女の腕を掴んでカッターナイフを取り上げる跡部くんも、首から血を流してぐったりと倒れた彼女も、あちこちで聞こえる悲鳴も足音も、現実なのに私には夢のように見えていた。
「忍足!山吹に連絡して千石を病院に向かわせろ!」
「跡部、その子何処に連れていくん?」
「立海大附属病院だ!車は呼んである!」
 跡部くんと忍足くんの会話をぼんやりと聞きながら、教室に保健室の先生がやって来るのを眺めていた。動く気にもなれず、体だけがスッと冷えていく。
 あらかた応急処置をしたらしい彼女は、跡部くんに抱えられて運び出された。
 それを見送った保健室の先生が、教室内を見渡して口を開いた。
「これは口外しないこと!気分が悪い子がいたら保健室に来るように!」
 それからようやく、私の時間は周りの時間と同じように動き出した。友人に心配されたが、お互いに真っ青な顔色だったらしく、支え合うように保健室へ向かう事にした。何度振り払おうとしても、網膜にはあの流れ出る血とカッターナイフの刃が光る様、彼女の目の光が瞬きをする度に写し出される。

 そういえば、死にたくてリストカットをする人間はいるのに、彼女は首を切り裂こうとしていた。理科で習った頸動脈を切るつもりだったのだろうか。あそこは確か致命傷に成りうるんだったか。


 彼女は本当に死ぬ気でいたのだ。


 それが彼女の狂気であり、覚悟だったのだろうか。

 一命を取り止めたらしい彼女は、結局卒業式に出なかった。


 私は遂に彼女を知ることも、謝ることもできないまま高校生になる。後味が悪かったのだけれど、私はいつかあの狂気を忘れるのだろう。
 私が彼女に謝る日なんて無くて、きっとこの出来事は私の中で薄くなり、ただ私の人生に少しの淀みを与え続けるだけなのだ。



END.



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