矛先


 夏休みが明けて、彼女は相変わらずだった。私はそれに安心しながらも、落胆もしていた。何かがチクリと痛む。それが良心だったのかもしれない。でも日が経つにつれてそんなことはどうでもよくなっていった。

「ねえ、これぶつけたら流石に泣くんじゃない?」
 誰が言い出したんだろう。周りは酷いとか言いながら笑っていた。私もそうだった。
 花瓶を、窓から彼女に向けて落としたのは私だ。
 狙いはぴったりだった、はず。花瓶が上手いこと彼女に当たる、と思った瞬間、彼女は此方を見ていた。そこには驚きも何も無い、底冷えするような冷たさだけ。
 見上げた事で分かれた前髪から見えたのは、刃物のように銀色に光る瞳だった。

 次の瞬間、彼女は、花瓶を鞄で叩き割った。

 ガシャンと割れる音も、彼女のものではない悲鳴も、何もかも遠くに聞こえるくらい、彼女の冷えた目が焼き付いて。体が震えて仕方なかった。


 彼女は腕を切ったくらいだったらしく、次の日には包帯を巻いて登校してきた。
「もう学校来るなって感じだよね」
「頭おかしいんじゃないの?」
 彼女はやはり無表情だったし、目は前髪で隠されていた。それでも私は彼女を見るだけで恐怖を感じるようになって。それを振り払うにはやはり彼女をどうにかしなければという一心で、周りについて彼女に嫌がらせを続けていた。
 それで、主犯は私だという事実は消えるはずもなかったのだが。



 学祭の前日に、彼女は謹慎処分を受けた。誰かを病院送りにしたという。その時も彼女は無表情で、でも口元を歪めていたらしい。
 噂だから真偽は分からない。そんなこと、嘘の噂を流した私が言うことではないだろうけれど。


 その日は日直で、私は日誌を書いて提出してから学校を出た。
 正門へ向かうと、跡部くんが誰かと話をしていて、私は何故か校門の陰に身を潜めてしまった。跡部くんは苛立っていたが、話の相手は余裕が溢れているようで、不思議な気分だった。

「跡部くんともあろう人が、人の本質を見抜けない?」

 チクリ。

「見込み違いだったかな、残念だよ跡部くん」

 チクリ、チクリ。

「でも、そうだね、その方が人間らしいのかもしれないね」

 チクリ、チクリ、チクリ。

「まあ良いや、これ以上男と馴れ合うつもりもないから、今日はもう帰るね」

 跡部くんの言葉が、耳に入らなかった。誰だか分からない話し相手の声だけが私の胸にぐさりと突き刺さったまま抜けない。どうや、跡部くんもその話し相手も何処かへ行ったらしい。そりゃあ放課後なのだから帰るのだろうけれど。
 私は校門の陰から二人がいない事を確かめて(本当はそんな必要、ないのに)家に帰るべく歩き出した。


「明里ちゃん、謹慎中でしょ?」
「清純」
 さっき校門で聞いた声と、あの彼女の冷たい声が聞こえて、私は思わず顔をその方向へ動かした。そこは高級マンションの前。オレンジ色の髪と、あの白い制服は確か山吹中だったろうか。私の従兄弟が入学したという写真付きのメールを送ってきたのを思い出した。そして私服らしい彼女はラフなTシャツとジーンズのようだ。
「清純の迎え」
「うん、ありがとう」
 私はそれを聞いて、小さな違和感を覚えた。何か、何かがおかしいのだ。
「明里ちゃん、何食べる?」
「それ、全部清純が買ったの?」
「そうだよ」

 そうだ、彼女が人の名前を、しかも下の名前を呼び捨てで呼ぶのを私は初めて見たのだ。

 私は愕然として、暫くそこを動けなかった。
 彼女は表情こそ分からないが、声は少しばかり穏やかで、対する彼も優しく接しているらしい。先程校門で聞いた声よりも、何倍も。二人がその高級マンションに入っていってからも、暫く、足を動かすのを忘れていた。

 彼女はきっと、最初から私達に関心など一切なかったのだ。

 それから私は、必死に自分に言い聞かせた。私は悪くない。私は元凶じゃない。私はただ異質な物を狩ろうとしただけ、悪いことはしていない。彼女が悪いのだ。

 彼女さえ居なければこんな罪悪感を背負う事などなかったのだ。



 彼女の謹慎が明けると、さらにエスカレートした噂が彼女を迎えていた。私は必死に悪くないと脳内で唱えながらそれに便乗して。
 二学期の終わりに、ついに私達は彼女を本格的に狩ることを決めた。
 私達が密やかにメールで呼び集めたら、二十人近くが賛同した。中にはテニス部の準レギュラーや平部員もいたような気がする。
 学校では不味いからと、学校からは近くない寂れた公園に彼女を呼び出す事にした。その役目は私。同じクラスだったし仕方の無い事だが、私は脳内で必死に悪くないと念じ続けなければ落ち着いていられなかった。
 彼女と連れ立って目的の公園へ向かう。その時に気付けば良かった、彼女が公園へ誘われた後に携帯でメールを送っていた事に。

 公園へ着く少し前、私は気紛れに彼女に聞いた。
「学校、楽しい?」
 横目で見た彼女は、口元を歪ませてから一言だけ答えた。

「楽しいよ、とても」

 相変わらずの声なのに、私は彼女がとても楽しそうに見えた。ぞくりと身震いをしてしまい、それでも公園の入り口が見えてきたから、震える足を叱咤して彼女をそこへ迎え入れた。沢山の人間が殺気立っている公園へ、表情を変えずに足を踏み入れる彼女に、何か狂気めいたものを感じてしまう。
 私が公園を見渡すと、少しばかり人数が増えたようだ。どうやらテニス部のレギュラーの何人かが混ざったらしい。
「何か、マネージャーの分の仕返しだってさ」
 集団に混ざり仲間に聞くと、そう教えてくれた。そういえば彼女の謹慎の原因はマネージャーを怪我させたからだったように思う。
 それからはもう誰が原因だったか分からない。
 何人かが彼女を突飛ばして殴る蹴るしていたのだと思う。何度か誰かの笑い声が聞こえた所で、バイクのエンジン音が聞こえた。
それでもう、半分以上がさっさと引き上げていったようだ。

「アイツに負わせた怪我より温いだろっ、死ね!」

 向日くんが彼女の腹部に蹴りを入れたのだけ、はっきりと見えた。

「お前ら何やってんだ」

 遠かったバイクのエンジン音が段々と近付いていく中で、一際通る声が響いた。踞ったままの彼女からその声に視線を向けると、そこには跡部くんが。
 それだけでもう、殆んどの人間が慌てたように逃げて行く。私と何人かは、足が震えてへたりこんでしまった。
「だ、だってよ、こいつが悪いんだろ?」
「そうだよ、人を怪我させたんだぜ?」
 言い訳を並べ立てる向日くんと宍戸くんの声に反応するように、彼女がピクリと体を動かした。それだけでも私達は心臓を鷲掴みにされたように、震えてしまったのだ。
「っげ、ゲホッ」
 咳き込んだ彼女の口から、何か赤黒い血のようなものが吐き出された。それが本当に血だと気付くのに時間がかかる。彼女の手がガタガタと震えている。
 その場にいた誰もが、呆然とそれを見ているだけだった。

 バイクのエンジン音がやけに近いと思ったら、あのオレンジ色の髪の男子と、もう一人背の高いいかにも不良そうな男子がやってきて。
「明里ちゃん!……阿久津、救急車!」
「指図すんじゃねえ、分かってんだよ!」
 救急車を呼ぶためか、阿久津と呼ばれていた男子は集団から少し離れた。オレンジ色の髪の男子は、彼女に上着をかけてやってから立ち上がる。

「ねえ皆、何て顔してるの?」

 彼はあの校門での跡部くんとの対話の時と同じような声で残っていた人間に語りかけた。
「死ねって言って暴行しながら、死にそうな姿見ただけでそんな情けない顔するなんてね」
「千石、てめえ……」
「事実でしょ?」
 彼はまるで私達を嘲るかのように鼻で笑った。救急車のサイレンがやけに響く。近づいてくる。私は思わず震えている手を握り締めた。砂が爪に入り込むのもどうでも良い。
 阿久津という男子が彼女に近付いてそして眺めている。その目にある優しさなんて、気付かなければ良かったのに。
「お前、お前はどうなんだよ!」
 向日くんが叫ぶ声にサイレンが重なる。と同時に、何かが空気を裂く音がして向日くんが吹っ飛んでいくのが見えた。
 私の隣にいた友人も息を呑み、跡部くんも宍戸くんも驚いたようだ。

 サイレンが止まった。

「君たちより、覚悟はあるよ」
「おい千石、何遊んでやがる」
「あ、ごめんごめん、今行くよ」
 オレンジ色の髪の男子が冷たく落とした言葉の後に、不良そうな阿久津という男子が苛立ったように声をかける。するとあっさり引き下がり、さらには軽い調子に変わった声で返す。
 それから救急隊員を案内すべく公園の入り口へ駆け出した彼は一体何者なんだろうか。目の前でバタバタと繰り広げられる応急処置やストレッチャーの車輪の音、再び鳴り響き遠ざかる救急車のサイレンを、私はどこか遠くの出来事のようにしか思えなかった。
「無様だなテメエら」
 阿久津、という男子はそれだけ言い残して去っていった。そのバイクのエンジン音よりも、救急車のサイレンがやけに脳内で反響して気持ち悪い。
 暫く無言だった皆が、沈黙を破られるのが、ただ怖くて私は不意に弾かれたように立ち上がり、友人と一緒に脇目もふらずに走り出した。私は悪くない、悪くない、私は手を下していない、ただ異端を排除しようとしただけ。



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