隠密


 初崎明里に対する第一印象は良くなかった。だからといって全く印象がなかった訳ではなく、むしろ悪いものがあっただけ。

 最初は単純な敵意。梅雨明け前を予感させる暑い日に、初崎が、涙を流しているゆきはと対峙していたから。この頃、既にいじめは巧妙に隠れ、過激さを増していた。そのため、俺を始めテニス部レギュラーは特に、ピリピリとした緊張を持て余していた。
 ゆきはは一人で抱えきれるほど、孤高の強さを持つわけではない。自惚れではなく、ゆきはは俺達がいたから気丈に振る舞い、笑顔を忘れなかった。そして、辛い時は辛いと言えたんだろう。
 それが、俺達以外の誰かの前で涙を見せていた。
 その頃からゆきはを気に入っていた俺からしたら、気に食わなかった。初崎に何かを掠め取られたような気がして。

 そうだ、最初から、初崎に嫉妬していたのだ。

 それからも正攻法でもいじめは止まず、いい加減どんな卑怯な手を使ってでも止めるしかないと決めた矢先に、それは呆気なく沈静化を迎えた。理由は簡単なもので、ただ、初崎に矛先が向いただけ。それだけだった。
 本当に呆気なかった。
 初崎は、俺達テニス部にとって生け贄のような役割を果たすことで、ゆきはに向いていた矛先をあっさりとすり替えたのだ。皆が聞けば初崎のことに対して心を傷めただろうが、それを知った時の俺は、ただ初崎に対する嫉妬だけが渦巻いた。
 他の誰でもなく、俺が、俺の力で止めたかった。
 それを初崎があっさりと奪っていったように思ってしまえば、彼女に対してさらに悪い印象が積み重なることは簡単だった。校内に渦巻く狂気に同調するように、初崎に対して異質な人間と決めれば、それだけで俺の中の波打つ嫉妬は落ち着きを見せた。初崎は異質な人間だから、彼女に矛先が向くことは仕方のない事だと、そう思えたから。

 俺の中の嫉妬は落ち着いてなどいなかったと知らしめられるまで、まだしばらくかかった。

 初崎に助けられた形になったゆきはは、必死に彼女に近付き親密になろうとしていた。最初は初崎が距離を置こうとしていたらしいが、ゆきはの粘り強さに負けたらしく、段々と親密になっていった。
 その事実さえ俺を苛立たせた。そのフラストレーションが爆発したのは、学祭前日のあの事件だ。
 俺は間違っていない、これ以上ゆきはを危険な目に遭わせずに済む。そう思い込んでゆきはの反論をはね除けた。きっと俺は、端から見たら滑稽な道化だっただろう。ゆきはの為と言いながら、彼女の意見をはなから聞き入れようとはしなかったのだから。

 そうして眼前に突き付けられた真実は、俺の中の様々なものを破壊した。

 結局俺は、ただの我が儘な子供でしかなくて、嫉妬に目隠しをされた世界をがむしゃらに歩き続けていただけに過ぎなかった。その道中で様々なものに傷をつけた事にさえ気付かずに。
 そして不意に冴えた頭と視界に、その事実は容赦なくのし掛かった。突き刺さるそれを、痛いと嘆く資格は俺にはない。それが、嫉妬に踊らされるように周囲を傷付けた代償だと思えば安いもの。



 広葉樹はすっかり葉を落とし、嫌でも寒さを認識させてくる。冷たく流れる風のように俺の心中をチクチクと刺すものは、当分消えることはない。だが、それで良い。
 進んでしまった道を戻る事は出来ないし、同じ過ち二度と繰り返さないために必要な戒めだと思えば、耐えるのも容易いのだから。

「初崎、お前はこのままで良いのか」
 二学期もあと数日で終わるある日、俺は初崎を生徒会室に呼び出した。授業中だと言うのに、初崎が何の異論も出さず素直にやってきたのは、彼女に対するいじめが変わらずにあるせいだろう。俺とゆきはが付き合っているという話はもう殆んどの生徒に知られているのだろうが、矛先は未だ初崎に向いている。校内に蔓延る狂気はもう、ゆきはに向かわない。

 だからといって、俺はもう手放しには安心できなかった。

「良い」
「ふん、今はそれを尊重してやる。ただし、お前に何か事が起きたらそうはいかねえからな」
 自身が矢面に立つことを初崎はさも当然のように受け入れている。そう望むのは彼女の勝手だし、抗うにしても、今までは幸いにも彼女自身の力で対処出来る範疇で済んでいた。だが、今後どうなるかは分からないだろう。初崎がゆきはを傷付けたという嘘は、学校側の意向の影響で訂正されないままだったし、ゆきはの時と同じように、屈しない初崎に対して業を煮やした奴らが結託しないとも限らない。
 俺は、今まで気付けなかった事がようやく晴れて見渡せるようになったのだ。
 もう二度と、繰り返さないと決めた。それを見張るように痛みが心を抉る。
「何故」
 初崎は沈黙の後にそれだけを口にした。そりゃあ分からないだろう。周囲を隔絶する異端としての自分が当たり前だと自覚し、己に向いた狂気を逸らさずにいる初崎にとって、救いの手など差し伸べられない事が当たり前なのだろう。
 だが、この学校で俺と関わりを持った。俺は、知らぬ存ぜぬでは済まされぬ場所に立った。それだけでも十分な理由となる。
「俺様がこの学校のキングだからだ」
 それに、初崎が傷付けば悲しむ人間はゆきはを始め何人かだが、少なからず存在する。俺はゆきはを悲しませたくはない。その悲しみの原因が、例え俺でなくとも。きっと俺も、初崎が傷付けば良い思いはしないだろうけれど。未だ彼女を良く知らない俺が胸を張って告げられる理由は一つだけしかない。
「それに、お前にもしもの事があれば、ゆきはが悲しむからな」
「そう、か」
 ゆきはの名を出したことで、初崎は納得した。ゆきはの存在は、初崎の中でそれほどに大きくなっているのだろう。そうして心が揺れただろう初崎に、止めと言わんばかりに一つの案を提示した。
「お前が何か気になる事があれば、俺様じゃなくても構わねえ、ゆきはや千石に伝えろ」
 それに納得すれば、後はその二人に根回しをして、俺に繋がるホットラインを形成すればいい。卑怯な手にも思えたが、ゆきはにも千石にもない、俺が使える武器を何だって使うにはそれが最善だろう。そうすることで、ゆきはの悲しみや不安さえ取り除けるのならば容易いことだ。

 千石の名をだめ押しのように出したからか、初崎は異論さえ出さずに頷いた。



「スケールが違うねえ」
「お前にとっても悪くねえだろ」
 初崎に関するホットラインを作ると言えば、ゆきはは二つ返事で了承したが、今俺の目の前にいる千石は一筋縄ではいかないような気さえする。彼は初崎に関して、恋愛とか甘いとか過保護とか、そういう言葉だけでははかれない深い感情を抱いているようだから。
 千石が毎週末に初崎を訪ねている事は、本人から聞いていた。だからついでに来いと自宅に呼び出せば、後は話をつけるだけ。
「明里ちゃんが了承したなら俺は協力するよ」
 そう笑った千石に、何か後ろめたさを感じたのは気のせいではなさそうだ。けれど、今はそれを指摘するタイミングではないし、やたらと弱味を突いて拒否されては本末転倒。俺はそれで良いと返すだけだ。
 カモミールの香りが漂うティーカップを口につけると、千石が遠慮がちに菓子に手を伸ばした。こいつはこんなにしおらしかったのかと、俺の中に疑問が浮かぶ。
 菓子を一口食べた千石は小さくため息をついた後、思い出したように声を上げた。そして出た名前は、俺にとって予想外のもの。
「あ、榊さんとも話をつけとくと良いよ」
「何故そこで監督の名前が出るんだ」
「榊さんは明里ちゃんの今の身元引き受け人だから」
 初崎が住んでいる場所も監督のグループのマンションだと言う千石の言葉に、俺は返す言葉もない。しかし、初崎の通う学校が、彼女と親しい千石のいる山吹ではなく、氷帝だという理由に納得した。
 初崎が現状のようにいじめに晒される可能性が高かったとすれば、監督のいる氷帝の方が、身元引き受け人として都合が良かったのだろう。
「ただ、榊さん忙しいからねえ」
「その分、お前が初崎についてるだろう。それに今は俺達もいるじゃねえか」
 千石と初崎との付き合いがどれほどのものかは知らない俺でも、彼女にとって彼が支えとなっているだろう事は想像に難くない。ティーカップをソーサーに戻す音が、やけに響く。
 俺の言葉に、千石は目を丸くしてから苦笑した。そして菓子の残りを一口で食べると、取り繕ったような明るい声を上げた。
「あーあ、跡部くんが羨ましいよ」
「お前な、人のことを罵っといて今更だろ」
 初崎の謹慎に、わざわざ氷帝の校門まできて俺をチクチクと攻撃したのは、他の誰でもない千石だ。それが一転、何があったかは知らないが、やたらと弱気なそいつを相手にしていると少し調子が狂う。
「お前に言う気がねえなら深くは聞かねえが、そんな態度じゃあ初崎も心配するだろうよ」
「それもインサイト?」
「馬鹿か、今のお前は分かりやすすぎるんだよ、寝ぼけてんのか?」
 何なら顔でも洗うかと笑えば、千石は降参したように両手を上げた。根本的な解決は、初崎が望むか問題が起きるかしなければ学校に掛け合えないだろう。
 俺が校内で大々的に動こうにも、生徒会長という肩書きや周囲からの注目が煩わしい。牽制になる可能性もあるが、反対に火に油を注いでしまう可能性があることも否めない。例え個人的な理由だとしても、そうとは取られないだろう立場は少しもどかしかった。
「俺様もお前をとやかく言えた立場じゃねえがな」
 確かに、と笑う千石が何を抱えているか。見ようと思えば見られるのだが、俺はそうする気になれなかった。興味本位で立ち入っていいものではないし、そもそも今は奴の弱味を握るようなタイミングでもないのだから。
 少しはマシな顔になった千石が、そろそろ初崎の所へ行くと言って出ていくのを見送ってから、俺はなんとなくゆきはに会いたくなった。何故か予感がしたのだ、これから何か良くない事が巻き起こるような。

 そして、予感につられるように、それが一つの契機になるという確信に近い予想も浮かぶ。

 その予想を頭の片隅に起きながら、俺は携帯電話を手に取って、ゆきはに電話をかけた。



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