制裁


 それは慢心と呼べるものでもあった。俺は、俺のやり方は、間違いなく守りたいものを守れるものだと思い込んでいた心こそが。



 廊下を歩くと、あちこちからざわめきや悲鳴に似た叫びが聞こえてくる。己の頬に貼られた湿布のせいかと、溜め息が落ちた。まるでこの世の終わりのように顔を青くする奴もいたが、いちいち騒ぎ立てるもんではないはずだ。頬にチクチクと浴びせられる視線は煩わしい。
 慕われる事や従われる事は悪くないが、きゃあきゃあと付きまとう女子は頂けない。俺の知らぬ所で、見当違いの意見を俺も同意するはずと信じ込み、振りかざすのだから。そうして自分の首を絞めている姿はもはや道化だ。

 まるで少し前までの俺を見ているようで、気分が悪い。目障りだ。

 ふと視界に入り込んだくるくると癖のついた金髪に顔を上げる。ひょいと取り巻く集団から顔を出したその金髪男に、俺は顔をしかめた。ジローだ。しかも普段は寝ている癖に今はバッチリ起きている。厄介なことに。
「わ、跡部、跡部、なにそれ浮気したの?」
「ジロー、テメェ」
「あはは、跡部ダッサ!」
 いくら悲壮感はいらないとしても、さすがにここまで笑われるのも不愉快だ。ピクピクと怒りに震えるこめかみを落ち着かせながら樺地に命令して、ジローを捕まえさせ、教室に返却させた。どうせ昼休みもあと僅かだろうし、ジローは同じクラスの宍戸がどうにかするだろう。

 そもそも俺の顔に張り手を食らわせた相手とは、まだ付き合ってもいない。しかも俺には今恋人はいないのだから、浮気以前の問題だ。あの意思の強い目と、彼女からの「嫌い」という言葉は、叩かれた頬よりも胸をぐさりと突き刺して痛い。
 昨日のその一件から、俺はあらゆる手段で問題を解決するための準備を進めている。そして珍しくも後悔に苛まれた。己がただの小さな子供でしかなかったのだと、改めて自覚させられた。
 俺が平手打ちを喰らう羽目になったのは、学園祭の前日の事件が発端だ。俺の顔に手を出した女、湯河原ゆきはが何者かに手を怪我させられた。しかし、犯人は思いの外あっさりと自首してきたのだ。それは五月に転入してきた初崎明里という女子。
 湯河原の反論など聞かずに、初崎へ二週間の謹慎を言い渡した。その後も、初崎の弁護をしていた湯河原に、あいつを庇うなと冷たくあしらっていた。そして俺は、忍足に落ち着けと、日吉に盲目すぎると、千石に人を見る目がないと、湯河原に平手打ちと嫌いと、心に沈むような言葉を山と貰った。
 初崎の謹慎は既に終わっているが、湯河原と俺との間は会話こそすれ、少しぎこちないまま。

 どこへ行けども消えずにまとわりつくざわめきに嫌気がさして、俺は屋上へ向かった。扉を開けた途端に流れ込んできた、秋の匂いが色濃い風は、これからじわじわと訪れるだろう冬を孕むように少し肌寒いが、開けた視界に入る景色は青く染まる高い空は悪くない眺めだ。
 フェンスへ近付いていくと、そこには一人の女子生徒がいた。
「初崎明里か」
「生徒会長」
 前髪に隠れた目を伺い知ることは出来なくて、俺をその役職で呼ぶ声も無感情だ。それゆえか、初崎は氷帝において異質な者と認められている。そして、そうしたのは俺もだったのかもしれない。
「ガキみてえな、ただの嫉妬だ」
「中学生」
「ははっ、そうだな」
 もっともらしい初崎の一言は、唐突に落とした俺の懺悔に似た言葉を赦すようだった。なぜ俺がそう呟いたのかを知らないだろうから、言葉そのものに対する返答でしかないだろうけれど。
 下らない嫉妬に身を落とした俺は、初崎が異端であり、どす黒い悪だと思いたかった。そうして、知らぬうちに好きな人間の意見さえはね除けるような道化となっていたのだ。
「初崎、靴入れの刃物は誰が仕掛けた」
「私」
「ほう、そうなると不都合だな」
 初崎は僅かに目を逸らした。動揺しているのかは分からなかったが、多少なりとも自分の発言と事件の矛盾を察知したらしい。
「湯河原ゆきはを傷付ける事が目的なら、そんな回りくどい事をする必要はねえだろ。湯河原の靴入れに仕掛ければいい話だ」
 初崎は湯河原を傷付けたのは自分だと名乗り出た。そうする事が目的だったとはっきり言った。他に誰も犯人の可能性がないと思い込んだから、そうかとしか言えなかったのだ。
「湯河原が反論していた理由を、最初から聞きゃあ良かったんだがな。初崎、悪かった」
 容疑者ならあちこちにいたと言うのに。過激な狂気の矛先が初崎にすり替わっただけで、湯河原を、男子テニス部正レギュラーに近い存在を、良く思わない人間は未だ多数。

 初崎を身代わりに得た平穏に毒されていただけだ。

 初崎は立ち上がり、そのまま屋上に張り巡らされたフェンスを掴んだ。小さくて、そして病的なまでに細いその手首が、俺の中のどす黒い感情を掴んで引きずり出したんじゃないかという気さえする。初崎はフェンスの向こうへ顔を向けたまま。
「結果的に傷付けた」
「悪いのは初崎の仕掛けを利用した奴だ。湯河原の意見を聞かなかった俺様も、正義じゃねえがな」
「そう、か」
 初崎が初めて俺の顔をまじまじと見つめてきた。その視線が頬に刺さっている気がしたが、そこにはからかいも悲壮感も何もない。これは湯河原からの制裁だと言えば、初崎はそうかと呟いた。そうして、それから初崎は顔を逸らすことなく続ける。
「綺麗な目だ」
「ありがとよ」
 俺を見上げる初崎の、その長い前髪の隙間に、鋼のように鈍く輝く目が垣間見えた。それはやはり無表情だったけれど、何よりも初崎を表現するものだ。
「勿体ねえな、その目を隠すとは」
 笑ってやれば、初崎は僅かに目を見開いた。多分前髪で全て隠れていれば分からないだろうが。よほど驚いたらしい。
「誰に何と言われようが、堂々としてりゃいい」
「気が、向いたら」
「それと、俺様の名前は生徒会長じゃねえ、跡部景吾だ」
 分かった、と返してきた初崎は、俺の名前を知っていたのか知らなかったのかまでは悟らせてくれなかった。それから、事件の真犯人が分かったら連絡してやる、と連絡先を交換した。悪用するなよと笑いながら言えば、口元を僅かに歪ませる。
「しない」



 それから、準備をしていたおかげか、一日足らずで犯人は特定出来た。それでも、湯河原の協力がなければ成せなかっただろう。彼女達には、初崎よりも長い三週間の自宅謹慎が課せられた。そう初崎にメールをしたら、短いながらも了承の返事が届いた。その文末には、千石が打ったらしい「湯河原さんと早くくっついちゃいなよ」という、いらない一文まで付いてきたが。

 その一件は、理事長の意向により当事者間のみの話として、学園祭前日と同じく秘密裏に処理された。

 その次の日の昼休み、俺は生徒会室に湯河原を呼び出した。別に千石にせっつかれたせいではないが、いい加減はっきりとさせたかったのだ。
 生徒会室へやって来た湯河原の表情は、少し硬く、突然の呼び出しの理由が分からなかったらしい。目を泳がせる湯河原の名を、俺は静かに口にした。
「俺様の顔に手を出した奴はお前が初めてだ」
「なにそれ」
 俺の言葉にけらけらと笑う湯河原の事が好きだ。努力家だったし、何より俺に臆さずに意見するような性格で、対等な立場で会話が出来る。こいつなら、俺と共に高みを目指せると確信した。
「責任取って、俺様と付き合え」
「跡部くんらしいなあ」
 照れたように笑う湯河原が、こちらこそよろしくと手を出してくるから、その手を引いて抱き締めた。顔を上げた彼女、ゆきはは笑いながら、付き合っても容赦しないよと言った。
「バーカ、容赦するような奴を俺様が気に入るわけねえだろ、ゆきは」
「そうだね、景吾はそういう人だもんね」
 手始めにお昼を一緒に食べようかと言うゆきはは、しっかりと弁当を手にしていて笑えた。

 ゆきはは、一年の頃から男子テニス部マネージャーとして所属していた。人数の多いテニス部のマネージャーにも、平部員担当、準レギュラー担当、正レギュラー担当がいる。当然、それぞれの担当には経験の有無などによる序列があるのだが、正レギュラー担当だけは毎年一人を全マネージャーから選抜する実力社会だ。
 ゆきはは平部員担当から始まり、二年の終わりに正レギュラー担当に選抜された。今までは体力的な部分に強い男子が選抜されていたのだが、ゆきはは久しぶりの女子。それでも、媚びるようた態度もなく、部員を分け隔てなく扱う性格をはじめ、様々な要素は正レギュラーに受け入れられていき、かけがえのない仲間として認められた。
 俺も例外ではなく、ゆきはには何度か文句をつけられたりもしたが、それは新鮮で、彼女の志の高さにも惹かれていた。きっかけなんて忘れたが、それでも、ゆきはを大切に思う気持ちは誰にも負けない自信がある。



「それで、初崎を連れてどうした」
「だって、明里ちゃんたらお昼はゼリーだけだなんて言うんだもん」
 冬に片足を突っ込んだようなある日の日曜日、ゆきはが初崎を連れて俺の家に来た。付き合い始めてからゆきはがいきなり俺の家に来ることが増えていたが、初崎を連れてくるのは初めてだ。
 初崎はゆきはに物言いたげにしていたが、初崎の食生活の酷さを力説するゆきはは気付いていない。朝はヨーグルト、昼はゼリー、夜にようやく惣菜パンらしいと嘆くゆきはにも、傍らで彼女を見つめている初崎にも、果たして惣菜パンとは何かなど聞けるはずもなかった。
「それで、私は思うの。明里ちゃん一人暮らしだからご飯食べるの楽しくないんじゃないかって!」
「落ち着けゆきは、初崎の意思を確認してやれ」
 何か予定があるかもしれないだろ、と言えば、ゆきははようやく落ち着いた。初崎はゆきはの誘いは不快ではなさそうだが、何か告げたがっているように見えたのだ。
「明里ちゃん、この後何か予定とかあった?」
「夜は、清純が来る」
「なら千石もここに呼べ、四人で食うぞ」
 そういえば千石は初崎の事を大切に思っているんだと思えど、初崎はそもそも食生活に執着はなさそうだし、千石も料理が得意だとは思えなかった。ゆきはと二人きりでも良かったが、たまには人数が増える食事も悪くないかもしれない。
 初崎は頷いて、携帯でメールを打つ。その手はやはり細く、骨と皮だけのように見える。初崎の両手に包まれた携帯から垂れるストラップには、ゆきはも好きだと言っていたピンク色のリボンをつけた猫のキャラクターが、どこか頼りなく揺れていた。



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