遭遇


 彼女を知ったのは、転入生だからではなく、噂だったからだ。
 噂の発端は女子らしいけれど、男子にもそれは広まっていた。女子とは違い、単なる好奇心や悪戯心だから、結局女子って怖いよなで終わるだけだが。
 そもそもその噂を知ったところで、男子が憐れみをもって被害者に手を貸すなどしない。そうすれば、気があるだの囃し立てられて居心地が悪くなるのが目に見えているからだ。かといって、加害者に手を貸すのも良くはないと俺は考えているから、結局噂を耳にしては女子って怖いなと言うだけの、ただの無関係な傍観者の位置にいるのだけれど。

 被害者である彼女は、どうやら忍足と同じクラスらしいが、忍足は俺と同じように傍観を決め込んでいるようで、特に彼女の噂を好き好んで話題に出すわけでもなかった。
 彼女の噂の広がりに反して、テニス部マネージャーである湯河原への嫌がらせはもう殆んど無くなったらしい。俺は、現場を見かければ止めるようにはしていたのだが、女子は怖いもので、テニス部レギュラーがそうする度に、陰湿かつ巧妙に、そして人目につかずにひっそりと発展するだけだった。歯噛みしたのは俺だけではない。ただ、あの跡部でさえもそれを完全に沈静化などできなかったのだ。
 それが、たった一人に対する噂だけであっさりと下火になっていった。まるで遊び飽きた玩具を捨てるように。

 初崎 明里と言うその彼女を、俺は何度か廊下で見かけるだけだった。目がすっかり隠れる前髪だが、別に俯いてるという訳でもなくて、いつの間にかそこにいるような静かさだけが印象的で。でも、思い浮かばなかった、彼女が嫌がらせを受ける理由が、何一つ。
 俺には関係ない、そう思えどもそれは俺の中に僅かな淀みを与えてくる。元々そういう小難しい事を考えるのは苦手で、それでも考えても仕方ないと思う気持ちとは裏腹に、どうにか消化したいと足掻く自分が居るのも事実だった。

「女って、わっかんねえ」

 結局その一言で解決させた気になって、ただ目を反らしていたに過ぎないと突き付けられるのは、まだ先の事だ。




 二学期が始まり、部活も引退をした。それでも俺は良くテニス部に顔を出しては後輩の面倒を見ていた。他の奴らには、あまり顔を出すと長太郎が親離れできないなどと茶化されていたけれど(内心そうかもしれないと思ったのは長太郎には秘密だ)。
 その日も、テニス部に顔を出そうと決めながら校舎脇を歩いていた。気付けば目の前には初崎。正門へ向かうには通らない場所だから、多分裏門から帰るんだろう。
 ふと、視界に影が出来た気がして俺は顔を上げた。
「な!」

 彼女、初崎に向けて花瓶が落ちてきたのだ。

 今日はいくつかの委員会の集まりがあるから、早く終わった委員会の生徒や、所属していない、もしくは集まりのない委員会に所属する生徒がちらほらといるだけで、周りに人は少なかった。そう、生憎と教師も例外ではなかった。
 助けるべきか、自分が一瞬葛藤していた隙に、初崎は少し横にずれて、ただ花瓶が落ちてくるのを見上げている。受け止めるのか、などと馬鹿な考えが頭をよぎる。
 重力に引き寄せられて速度を増した花瓶は、アスファルトの地面を目掛けてただ真っ直ぐに落ちる。
 ガシャン。
 危ないと思うのと、その何かが割れる音が響いたのはほぼ同時だった。
 初崎は、自分が持っていた鞄を使い、落ちてきた花瓶を割ったらしい。少しのざわめきと小さな悲鳴に我に返った俺は、慌てて初崎の方へ焦点をあてると、彼女のシャツの腕の部分にはじんわりと赤い染みができているのに気付く。
「おい、お前腕怪我してるぞ」
「知ってる」
 思わず声をかけたが、初崎は素っ気なく返してしゃがみこんでしまう。少し拍子抜けした俺は、カチャカチャという無機質な音に気付いて、慌てて初崎に近付いた。
「お前素手でやったら切るぞ」
「そうだな」
「それによ、怪我してんだろ、保健室行けって」
 片付けなんて誰か気付いた奴がやるだろ、言いながら、俺も割れた花瓶の欠片の大きいものだけは集めるのを手伝った。俺が手伝ったからかは知らないが、近くにいた女子の何人かが箒と塵取りを持ってやってきた。片付けはしますから保健室に、という彼女達に見覚えがあったので、確か一年で準レギュラーのマネージャーだったかと聞けば、はいと返ってきたので内心ホッとする。大所帯はこれだから難しい。
 彼女達は顔をしかめながら小声で伝えてきた。
「一年でも、初崎先輩の噂は流れてるんです」
「でも私たち、そう言うの嫌いで」
「そうか。悪いな、部活行くところだったんだろ」
「そんなことより、初崎先輩を保健室に連れていってください」
 その言葉に、俺が慌てて初崎を見れば、彼女はまだ花瓶の欠片を集める作業をしていて、なんとなくため息をついた。
「あー、初崎だっけ、片付けはあいつらがしてくれるし、保健室行くぞ」
「ありがとう」
 さっきまでよりも効率良く欠片を集めては塵取りに入れ、さらに袋にザラザラと片付けていく一年生と俺を見て、初崎は相変わらず素っ気ないもののお礼を言って立ち上がる。パンパンとスカートを叩いたのを確認してから、俺は付いてこいと初崎に言って保健室へ向かった。


「はい、出来たわよ、ブラウスのお陰で欠片は入らなかったみたいだけど、出来れば病院に行ってね」
「ありがとうございます」
 流石と言うべきか、養護教諭の金沢先生は初崎を手際よく手当てした。幸い手を切らずに済んだらしく、腕も欠片が入っていないようだった。
「宍戸くんも、彼女を連れてきてくれてありがとう」
 にっこりと笑う金沢先生に、何故だか罪悪感が胸を突き刺したように痛んだ。それは多分、今まで下らない事を気にして、ただ眺めるだけだった自分が居るからなのだろう。
 俺は、本当は、彼女に興味があったのか。自分でも良く分からなかった。
「べ、つに、目の前で怪我してたら何か気分わりいじゃん」
「優しいな」
 意外、だった。
 照れ隠しだとか言って、からかわれるかと思っていたから。多分それほど周りには分かりやすかったんだと思うのだけれど。
 初崎は、そのたった一言を静かに告げただけで。それだけでさっさと鞄を持って帰る支度を始めていた。
「初崎さんは、ちゃんと人をみられるのね」
「ったく、激ダサだな俺」
 金沢先生には軽く笑われたのだが、それは嫌な感じではなくて。顔が熱くなるのが自分でも良く分かってしまったのが余計に恥ずかしかった。
「帰る」
「初崎さーん!」
 初崎が俺達に挨拶をしようとする前に、保健室の扉が勢い良く開いた、と同時に騒がしい湯河原の声が響いてきて。俺は心の中で、激ダサだと言う他になかった。初崎もどことなく呆れている気がする。
「湯河原さん、初崎さんが心配なのは分かるけど、保健室は静かになさい?」
「ご、ごめんなさい」
 金沢先生が注意したら素直に謝った湯河原は、多分保健室の常連だったんだろう。そう思うと、何だか複雑な気分になった。
 初崎を代償にして、湯河原は、俺達は、平穏を得たような物だと思うと。
 俺の複雑な心境を知ってか知らずか、初崎は湯河原と金沢先生の雑談に発展した会話など気にしたようでもなく、ただ顔を俺の方へ向けてくる。彼女の長い前髪の隙間から、きらりと光るような目が少しだけ見えた。
「名前」
「え?あ、そうか、お前転入生だからな、俺は宍戸、お前と同じ三年だ」
 不意に名前を問われて不思議に思ったが、初崎は転入生だったし、いきなり噂やいじめの対象となったのだ。ましてや彼女はあまり周囲に興味が無さそうだから、自分を知らないのも無理はない。当たり前に周りが名前を知っているものだと諦めもあったから、初崎のこの対応が普通なのだと思い出すのに少しだけ時間がかかったのもあるが。
「初崎 明里」
「よろしくな、初崎」
「よろしく、宍戸少年」
 初崎の前髪から少しだけ覗く目が、少しだけ暖かくなった気がした。
「帰る」
「ああ、あれはほっとけ、いつもの事だ」
「そうか」
 未だ雑談に興じる二人の頭の中には、もう俺も初崎も欠片くらいしか無いのだろう。それでも気にした風な初崎に、気にするなという意味も込めて声をかければ、小さく息をついた。多分挨拶を諦めたんだろう。
「湯河原も先生も悪気はないと思うし、勘弁な」
 じゃあ、と一言残して初崎はそっと保健室を後にした。湯河原にもあれくらいの物静かさが備われば、と思いもしたが、終始物静かな湯河原はちょっと嫌だなと思い直した。


「あれ、初崎さんは?」
「とっくに帰ったぞ。湯河原、激ダサだな」
「今日こそゆっくりお茶しようとしたのに!」
「お前が初崎の事忘れて雑談するからだろ」
 湯河原が初崎の不在に気付いたのは、金沢先生が職員会議があるからと保健室を去るときだった。
「なあ湯河原」
「宍戸くん、なに?」
「お前、何で初崎にこだわるんだ?」
 結局、最終下校時刻が近くなってしまって、テニス部に顔を出すのを諦めて、帰る方向が同じ湯河原と一緒に帰っている。道中の話題は専ら初崎の話題で、それも湯河原が楽しそうに仲良くなるまでの経緯を語っていた。俺には、その強引な、下手したらストーカーになりそうな湯河原の武勇伝に相槌を打つしかできなかったが。
 そして、ふと気になった疑問をぶつけたのだ。河原を傷つけないように言葉を選べる跡部や忍足のように回りくどくなんて言えやしないから、直球で。

「多分、自己満足だよ」

 そう言って嘲笑うように笑った湯河原の、そんな表情を俺は初めて見た。だって彼女は、いつも屈託のない明るくて優しい笑顔を見せてばかりだったから。
 俺は、そうかと呟いて、次に続ける言葉を探しながら、視線をあちこちに巡らせた。
「でもよ、初崎が、もしお前のその気持ちに気付いてたとしても、多分、お前の事を、気に入ってんじゃねえか?」
 湯河原にとっては気休めにしかならないだろうと思う。それでも、俺はなんとなくだが、初崎は湯河原を嫌ってはいないと思ったのだ。
 保健室を去る前に、挨拶をしようとした初崎。それは湯河原を嫌ってはいない証拠ではないだろうか。彼女は、嫌ったり、どうでも良いと思っている相手にわざわざ挨拶をするような人間には思えなかったし、湯河原を嫌いならば、湯河原が保健室に来た時点で何も言わずに帰ってしまうんじゃないだろうか。
「そう、かな」
「あいつが何考えてるかとか、俺は知らねえけど、初崎はお前の事、多分嫌ってねえよ」
「宍戸くん、ありがとう」
「お、おう」
 柔らかい笑みを浮かべた湯河原を、俺は気恥ずかしくて直視できなかった。



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