再び


 それからも、俺は初崎先輩に会う事もなく日々は過ぎていった。校内は相変わらず先輩に対する狂気が渦巻いていたらしいが、俺は全くといえば嘘だが、あまり気にせず過ごしていた。

「日吉くん、調子どう?」
 三学期が始まって日は浅かったその日。部活も終わろうとしていた時に珍しく湯河原先輩が声をかけてきた。先輩はマネージャーを引退してからはこんなに遅くまで学校に居ないと、学園祭の時に話してくれていたから、本当に珍しいことだったのだ。
「湯河原先輩、お久しぶりです」
「この後、ちょっと時間貰えるかな?」
 本当ならば自主練習をしたかったのだが、俺はわざわざ先輩が来るのだからと了承して、部室で良いですかと尋ねた。どうせ自主練習をしている部員はしばらく部室に戻ってこないし、寒空の下で話をするよりは良いだろうから。
「うん、良いよ」
 コートにマフラー、そして手袋と完全防備した先輩は笑った。


 部室には案の定人はおらず、俺は跡部さんの置き土産じみたソファーに先輩を座らせた。
「随分物が減ったわね」
「先輩達の私物が減りましたから」
 生憎と跡部さんのように部室にティーセットを常備するわけでもないため、温かい飲み物などありはしなかったのは少し申し訳ないような気もしたので、自分で飲むつもりでいたお茶を差し出した。
「良いの?日吉くんが飲むんじゃないの?」
「気にしないでください」
 ありがとうと笑った先輩は、それを一口飲んでから口を開いた。

「私、卑怯者なんだ、きっと」

 それは、まるであの日の俺の懺悔にも似ていて。部室の外から響くテニスボールの弾む音が、やけにはっきりと聞こえたような気がした。
 俺はどうするべきか考えてみたが、この場に似合う言葉など思い浮かばない。結局、初崎先輩のようにただじっと、湯河原先輩の言葉に耳を傾けるだけ。
「標的が明里ちゃんに変わって、私はそれに安心してた」
 先輩は俯いていて表情など分かりはしなかったが、彼女の声は震えていた。
「私はもう、いじめられないって、安心したんだ」
 だから初崎先輩への仕打ちを止めようとしなかったのだと、再び彼女のいる位置に立ちたくはなかったのだと、そんな利己的な自分が嫌で、それを払拭するために彼女に近づいたと、湯河原先輩は時折しゃくり上げながらぽつぽつと話す。何か物音、果ては呼吸音までも立たせてはいけないような気がして、俺はじっと湯河原先輩の言葉を聞くだけしかできずに。
「あの子がいつも一人で、あの子が矢を受けて、あの子が傷ついて、それを見る度に、安心した」
 私は卑怯者。湯河原先輩はすっかり机に突っ伏してしまった。彼女はもう、何も言わない。聞こえるのはただ、未だ弾むテニスボールと、少しのざわめきだけだ。
 断罪の剣を掲げるか、もしくは懺悔と寄り添うか、果てはどちらにも属さないか。むしろ湯河原先輩のそれは、果たして裁かれるべきなのか。俺には、何一つ分からなかった。
 それでも、きっと。
「それは、俺に言う話ではないでしょう」
 何故彼女が俺に言う気になったのか分からないが、それでも俺は、湯河原先輩の懺悔にも似た言葉を受け止める資格などないことははっきりと分かっていた。
 ただの部員とマネージャー、俺と湯河原先輩の関係はそれだけだ。先輩達のように友人、と呼ぶには遠かった気がする。仲間、確かに仲間だった。しかし特に親密でもなかったと思うのだ。むしろ鳳の方が湯河原先輩とは仲が良かった。なのに何故、湯河原先輩は俺に話をしたのだろうか。
「日吉くんは、明里ちゃんと、似てるから」
「それだけでそんな話されても困ります、それこそ初崎先輩へ直接言ってください」
「……予行演習を、したかったのかもね」
「そろそろナイターも終わりです、遅いですし送ります」
 湯河原先輩が何か言おうと口を開いた瞬間、部室の扉がノックされた。先輩を横目で見ながらどうぞと告げると、そこには跡部さんがいた。
「ゆきは、帰るぞ」
「景吾」
 跡部さんは棘のある目で俺を見据えてきた。名前で呼び合う二人、そして跡部さんの視線、なるほど二人は付き合っているのか。そういえばそんな噂もあったような気がする。
 それにしても厄介だ、相変わらずこの人は盲目だったか。俺は溜め息をつきながら、自分のロッカーを開けた。
「湯河原先輩、そこに丁度いい予行演習の相手がいたじゃないですか」
「おい日吉」
「それとも、先輩は跡部さんを過小評価しているんですか」
「そんなわけじゃない!」
 なら跡部さんに同じように言えば良かったんです、そう言うと湯河原先輩はすっかり項垂れた。言い過ぎたかと思いながらも、俺はすぐにはフォローなど入れなかった。それは多分、跡部さんの役目なのだ。
「俺は先輩を責めません」
「日吉くん」
「ですが、寄り添いもしません」
「そうだね、ありがとう」
 笑顔を見せた湯河原先輩は、未だ話が分からないだろう跡部さんを強引に部室から引きずり出した。そこに少しだけ、二人の力関係を垣間見た気がする。
 閉じられた部室の扉は、何故か俺に僅かな痛みをもたらしたが、気付かないふりをするしか、俺にはできなかった。

 初崎先輩が去年から入院していると知ったのはその次の日だった。



 初崎先輩が入院し、そして退院した事も、俺は何故か事後報告のように跡部さんから聞いた。結局俺は、ありきたりな見舞いの言葉を跡部さんに告げるしか出来なかったのだけれど。
 そういえば、俺は初崎先輩のメールアドレスや携帯電話の番号さえ知らないではないか。お互い知ろうとせず、それでも俺にとって彼女の傍は居心地が良かった。なのに、今や訳の分からない焦燥感が沸々と沸いてきている。
 この焦燥感が何なのか、俺は知らない。



 三学期後半となれば、授業は退屈にも似ていたかもしれない。自習や先輩を送り出す為だけの卒業式の練習が増えていたのだ。
 そんなある日の昼休み、俺は鳳と中庭で食事をしていた。すっかりいつもの事として馴染んでいるのは何故だろうか。跡部さんが卒業したら、樺地も誘ってやるべきだろうか。
 鳳はにこやかに話題を振ってくるのだが、俺は大した相槌も打てなかった。さすがに違うクラスの話題には興味がない。

 不意にどこかから、悲鳴が聞こえた気がした。それは鳳も同じだったらしく、二人して顔を見合わせる。
「何だろう」
「少なくとも跡部さんのせいじゃないだろう」
 俄に校舎が緊迫しながらも慌ただしい雰囲気に呑まれたような気がした。やはりと言うべきか、俺の頭をよぎったのは初崎先輩の事で、それでも悲鳴は彼女の物ではなさそうだった。何が起きているのか分からないまま、様子を見ようかと中庭から出た所で跡部さんを見つけた。
 何かを横抱きにして裏門の方へ走っている。
 跡部さんは俺達に目もくれずに駆け抜けてしまったが、俺の目は彼に横抱きにされ、蒼白い顔をしてぐったりとしていた初崎先輩を捉えていた。
「跡部さん」
 茫然と呟いた声は跡部さんには届かないまま。俺はその後の授業など全く頭に入っていなかった。


 いつの間にか放課後になってしまったような錯覚に陥り、今日は丁度部活が休みで良かったと安堵した。



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