懺悔


 再び初崎先輩と出会ったのは、二学期に入って少ししてからだった。少し曇りがちなその日、俺は久しぶりに図書室へ向かった。課題、というわけでもないが、少し調べたい事があったのだ。
 図書室には生徒がちらほらといた。そして最初に出会った時と同じ場所に初崎先輩が座って本を読んでいたから、彼女はあそこが気に入ったのかもしれない。
 本に目を向けている先輩は、腕に真っ白な包帯を巻いていて。
 あまり大袈裟でもないそれは、傷が小さい事を物語っているように見える。それでも絆創膏ではなく包帯、となると心配にもなるのだ。
「初崎先輩、腕大丈夫ですか」
「すぐ治る」
「なら良かったです」
 それから俺は目当ての本を探し当て、初崎先輩のいる机の、やはり初めて会った時と同じように斜向かいに座り、パラパラとその資料に目を向けた。
 初崎先輩の側は楽だ、と思う。
 何をしているのかとか、何を読んでいるのかとか、そういう興味本意の問いかけをされない。そして、彼女は媚びたような笑みなど浮かべなかったから。楽だった。わざわざ間を持たせなければならないような人達よりも。
 調べ物を終わらせて本を閉じたら、もうすぐ閉館時間となっていた。初崎先輩は席を外しているようで、机の上に鞄だけが残されている。
 もう司書と俺と先輩しか居ない図書室に、パタパタと窓を叩く音が聞こえてくる。どうやら雨が降り始めたらしい。
 傘を持っていない事に気付き舌打ちをしたが、雨は止む気配がない。濡れて帰ることを覚悟してから、俺は鞄を持って席を立った。


 昇降口に着く頃には、雨は本降りとなっていた。
「あ、日吉くん、だよね」
 声をかけてきたのは、何故か傘を二本持ち、昇降口に当たり前のように立っていた山吹中の千石さんだった。
「千石さん、何でここに」
「友達に頼まれたんだ、傘持ってこいって」
 なるほど、一本は女物のようだから、きっと彼女か誰かだろう。この人は軽薄だと噂なのだが、意外と紳士、かもしれない。
 彼の待ち人がどんな人なのかと思いながら靴を履き替えていたら、人の声が聞こえてきた。
「清純」
 振り返れば初崎先輩がいた。この人が変わった敬称など付けずに、誰かを下の名前で呼ぶのは新鮮だ。それだけ付き合いが長いのだろう。
「明里ちゃん、はい傘」
「ありがとう」
「お先に失礼します」
 千石さんは初崎先輩が靴を履き替えるのを待っているらしく、俺は早く帰らなければと昇降口を出ようとした。
「少年、傘」
「無いので、走って帰ります」
「使え」
 先輩はさも当然と言わんばかりに、千石さんのであろう傘を俺に手渡した。大丈夫ですと返そうにも、先輩は俺が受けとるまで動かないようで。
 傘の本来の持ち主である千石さんは苦笑いをしながらも眺めるだけ。
「借りて良いよ」
「いや、大丈夫ですから」
「明里ちゃん、頑固だし」
 千石さんは、彼女の家には他にも傘があるからそれを借りるよと言うものだから、仕方なく借りた。
 彼女は淡白で執着が無さそうに思っていたのだが、意外と決めたことは譲らないらしい。
「明日、図書室」
「あ、はい、昼休みに返しに行きます」
 初崎先輩と千石さんにお礼を言って、帰宅した。傘は爽やかな青で、何だか千石さんには似合わないような気もしたのだが。



 次の日、昼休み。空は昨日借りた傘と同じような青空が広がっていた。手には傘と、お礼の品。傘を借りたと母親に言えば、これも差し上げなさいと渡されたものだ。多分母親手製の焼き菓子だろう。
 図書室に行けば、初崎先輩はやはりあの席に座って読書をしていた。
「初崎先輩」
「日吉少年」
「傘ありがとうございました、これお礼です」
 良かったら千石さんと分けてくださいと付け加えておいた。傘の本来の持ち主は千石さんなのだから、何らおかしいことはないはずだ。先輩はありがとうと言うと、それを鞄の傍らに置いた。
「先輩は、学校が好きですか」
「好き」
 先輩は口元を歪めて、そう言った。笑う、つもりだったんだろうか。俺は、それなら良かったと思いながら、結局何も口にせずに本を捲る先輩をぼんやりと眺めるだけ。
 始業のチャイムを珍しくやりすごし、俺はしばらくそこにいた。先輩は何も言わずにただじっと、本をパラパラと捲って。

 どれくらいそうしていただろうか、先輩は本を読み終えたらしく、本を閉じる音が静かな図書室に響く。それでも、俺も先輩も動かなかった。
「先輩は、湯河原先輩を助けたかったんですか?」
 静かな図書室、遠くから合唱らしき歌声が聞こえるだけで、俺の声は潜めたはずがやたら響く。
「いや」
 彼女は、はっきりと答えた。湯河原先輩が聞いたら泣くだろうか、笑うだろうか。俺はそうですか、とだけ返した。初崎先輩が何故狂気の矛先に立ったのか分からないが、それでも、俺は何も解決していない、と思うのだ。
「狂気は消えない」
「そう、かもしれません」
 そして、先輩の言うように今後も解決する事は無いのだろうとも。俺は一線を引きながら、それが悪だと感覚で理解していた。それでも、俺には初崎先輩のように矛先に立つことも、跡部さんのようにイメージをかなぐり捨てて守ることも選べなかったのだ。
「俺は、卑怯なんです」
 懺悔のようだ。口にした所で、行動に移さなければ意味がないというのに。
 静かな図書室は、俺の懺悔をただ受け止めるだけ。
「知っているのに、二の足を踏むだけで」
 初崎先輩は何も言わなかった。それでも、一度傾けた杯からは止めどなく溢れ落ちてしまう。
「結局、俺は自分を犠牲にしようと思えなかったのかもしれません」
 見掛けた時だけ助けた、それがどうしたって言うんだ。狂気は消えない、だから何もしなかった、なんてただの言い訳だ。
 結局俺は、己をかなぐり捨てる覚悟さえ無かっただけで。本当に助けたかったなら、そうしてでも助ければ良かったのに。

「少年には流されない強さがある」

 初崎先輩の声に顔を上げた。相変わらずどんな感情で俺に言葉を投げ掛けているかは分からないが、その一言に何故か救われたような気になったのだ。
「ありがとう、ございます」



 それからまた、しばらく初崎先輩に会うこともなく過ごしていた。部長という地位を与えられ、葛藤はあれども認められたのだと考えて、ひたすらテニスに打ち込んでいたせいもあるのだが。
 学園祭を控えてからは跡部さんがテニス部の模擬店を取り仕切っていた。相変わらず豪勢な喫茶店を打ち出して、生徒会も忙しいだろうに張り切っている。
 跡部さんの指示か、引退した筈の先輩達もしっかりとテニス部の要員として数えられて、俺は結局部長になりきれていないのかとも思ってしまった。それでも、跡部さんには補佐を頼まれた(とはいえ命令に近かったが)ので、俺も何かと忙しく過ごしている。

 事件が起きたのは学園祭の前日で、俺はその時、必要な備品類をテニス部のブースに運び込んでいた。忍足さんが準備を放っていたために仕事が増えた向日さんが、丁度戻ってきた忍足さんに食ってかかっていた時で。
 跡部さんが珍しく急いでやってきて、俺を呼んだのだ。
「湯河原が手を怪我した、傷が深いらしくて病院に連れて行く事になった」
「それで、跡部さんは」
「付き添う。今日は朝打ち合わせた通りだ、お前に任せる」
 分かりました、以外に言えるはずもない。あれだけ必死な跡部さんを、テニス以外で見たことなどなかったのだから。
 それだけ、跡部さんは湯河原先輩を大切に思っているのだと思い知らされる。
 それから、湯河原先輩の怪我は初崎先輩が原因で、彼女には二週間の謹慎が課せられた事を知った。忍足さんはそれを納得できなかったらしいが、俺もそれは同じだった。初崎先輩は、故意に人を傷付けるような人ではないと思っていたし、何よりも被害者である湯河原先輩が必死に異議を唱えていたから。
 それでも、湯河原先輩の異議を学校側は聞き入れずに、湯河原先輩を大切に思っているだろう跡部さんさえ、彼女の意見を聞き入れはしなかった。



 学園祭の余韻も消えた頃に、俺は跡部さんとカフェテリアで遭遇した。放課後にこの人がここに居るのは意外、ではあったが、跡部さんに話があったので丁度良いと思いながら声をかけた。
「跡部さん」
「何だ日吉か」
「跡部さんは、湯河原先輩だけが助かれば良いんですか」
 何が言いたい、跡部さんは不機嫌そうに返す。放課後のカフェテリアには人もまばらで、それでも跡部さんがいるからか、いつもより多い方だ。ざわめくカフェテリアで、俺は跡部さんを真っ直ぐ見据えて口を開いた。
「今のアンタは、盲目すぎます」
 それは俺が言うべきではなかったのかもしれない。けれど俺は、きっと己の理想であり目標であったこの人が、周囲を見ることさえ忘れる程に焦り、もしくは恋情に翻弄されている姿を見たくなかったのかもしれない。
 何か言い募ろうとする跡部さんを無視し、そのまま失礼しますとも言わず、俺はそこを後にした。

 カフェテリアを出るときに、湯河原先輩とすれ違った。手に巻かれた包帯は少し痛々しかったのだが、それでも先輩は決意を秘めた目をしている。この人の方が、俺よりもずっと強いと思えるような目だった。
 それでも、挨拶をすればいつもと変わらずに笑顔で返してくれたので安心した。

「下剋上だ」

 それは果たして跡部さんか湯河原先輩か。



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -