紹介


 次の週の放課後、俺は本の返却手続きをしに図書室にやってきた。梅雨明け宣言などとうに出ていた筈なのだが、相変わらずぐずついた天気で、それに釣られたように学校全体がどことなく湿気を帯びたような気がした。
「あれ、日吉くん久しぶりだね」
「湯河原先輩」
 図書室の扉を開けようとしたら、そこへ丁度やってきた湯河原先輩に声をかけられた。先週あの人に諭されたからだろうか、俺は何となく構えてしまった。相変わらず会話する機会は少なかったから、意外でもあったのだが。
 先輩は俺の手にある本を見ながら、読書家なのねと笑う。その笑顔はやはり優しくて、それでも俺はだからどうしたという気になっているのだが。
「先輩は調べ物ですか?」
「ちょっと人探し」
 言いながら図書室の扉を開いた先輩は、目当ての人物を見つけたらしい。図書室では静かにというルールを全く気にしないでその人を呼んだ。
「見つけた!」
「先輩、図書室は静かにしないと迷惑ですよ」
 俺の注意にも悪びれもせず笑い、その人を手招きした。司書さえも溜め息をついている事に気付いているのだろうか。
 ああ、先輩は明るくて強くて、そして真っ直ぐなんだ。部長が、跡部さんが気に入った理由が分かった気がした。
「飽きないな」
 先輩の手招きに応じてやってきたのは、俺に本を譲った人だった。意外すぎて俺は思わず二人を見比べてしまった。
 物静かで、折れてしまいそうな体に、強い意思を秘めた雰囲気で、表情をなかなか変えない彼女と、明るくて、人並みの体格で、そして責任感溢れ、笑顔が似合う先輩。おおよそ反対の位置にいそうな二人。
 共通点が分からないが、もしかして同じクラスなんだろうか。
「な、んですか」
 湯河原先輩の猛攻を控え目に拒否した彼女は、じっと顔をこちらに向ける。訊ねてから、そういえば返却手続きをするのを忘れていた本が手にあったのだと思い出した。
「それ」
「返却手続きしてきます」
 やはり彼女の視線は俺の手にしていた本で、俺はカウンターで返却手続きをしてから、彼女を手渡した。その時に触れた手は少しだけひやりとして、彼女は体温が低いのかとぼんやり考える。
「名前」
「あ、ずるい日吉くん」
 彼女が口を開きかけた時に、湯河原先輩が被せるように割り込んできた。全く先輩は何を考えているんだろうか。それでも憎めないのは多分、先輩の人柄だ。
「約束していたんです」
「そうなんだ」
「名前」
 湯河原先輩がまだ言い募ろうとするのを押さえた彼女は、俺にそれだけを言った。一瞬何だろうと考えてから、そういえば自己紹介をしていなかったのだと思い出した。
 湯河原先輩は拗ねたのかカウンターへ向かい、司書の先生と談笑しはじめている。
「二年、日吉 若です」
「三年、初崎 明里」
 よろしく、と短い自己紹介を終えた初崎先輩は、本を手にカウンターへ向かってしまった。司書と話していた湯河原先輩は、追い返されたのか俺の傍にやってきた。落胆もしていたが目は諦めを感じない。打たれ強い、というか諦めが悪いというか。
「日吉くんみたい」
「は」
「何て言うか、一筋縄じゃいかないみたいな」
「そりゃあどうも」
 彼女の問題は悪意がない事だ。皮肉っぽく返しても湯河原先輩は楽しそうに笑う。敵わない、と思う。
 この人は実は一番敵に回したらいけないんじゃないだろうか。
「あ、鳳くんに、日吉くんと友達になる秘訣聞こう」
「俺の前で宣言しないでください、あいつが勝手に付きまとうだけですから」
「日吉くんたら照れちゃって!」
 にこにこと笑う先輩に、何故かいつかの忍足さんを重ねてしまったのは秘密にしておく事にした。あれは気色悪かったし、何より周りの生暖かい目が不愉快で、思い出して溜め息をついた。
「じゃあ」
「あ、待ってよっ」
 手続きを終えたらしい初崎先輩は、本と鞄を手にして図書室を後にしようとする。そして追いかけようとする湯河原先輩。それを目で追いかけた俺は、思わず息を呑んだ。

「また戻すつもりか」

 その雰囲気は先週見た初崎先輩と、何も変わりはなかった。顔の向きからして湯河原先輩に言っているんだろうそれの意味は、俺には分からない。
 それでも、湯河原先輩はびくり、肩を竦めた。
 その隙をついてか、初崎先輩は図書室を後にしてしまった。
「あ、待ってよ!」
 初崎先輩や、彼女を追いかけるべく駆け出した湯河原先輩を追い掛ける資格など、俺にあると思えず、しばらくそこに立ち尽くしていた。



 それからはもう初崎先輩を時折遠目から見掛けるくらいで、特に会う事も無かった。それをきっかけに親密、となるでもなく、俺と先輩は、ただ図書室で多少会話をしただけの間柄なのだ。名前と学年だけしか知らないのだから当たり前と言えば当たり前だ(部長は放っておいてもクラス、どころか住所、果ては一日の行動までも学校中に広まるけれど、あれはかなり特殊だ)。
 そのまま終業式を迎えたが、あの図書室での一連の出来事は俺の中に鮮烈に残されている。相変わらず派手な生徒会長挨拶で幕を閉じた終業式。未だ興奮冷め遣らぬ女子(いや、一部男子も)を一気にどん底に突き落としたのは、担任から配布された成績表に他ならない。担任の力、ではない辺りに学校の力関係を垣間見て、俺はやはり跡部部長を目標に据えたことは間違いではなかったと確信するのも一年から当たり前の事だった。

 テニス部は大会が近いからと終業式だろうと部活がある。幾つかはオフシーズンだから休みだったりもするのだが。
 昼食は各自だからという理由で勝手に着いてきた鳳と共に、テニスコートよりは少し離れている中庭へ向かった。グラウンド近くや開放されているカフェテリアよりも人は少ない(そして何より跡部部長がいないから静かだ)。

「終わったなら帰る」

 中庭に着くなり聞こえた声に、俺はそちらに目を向けた。校舎に寄り添うように生えていた大木の影から初崎先輩が出てきた所で。俺の斜め後ろで、鳳があれあの人、と呟いたのを軽く流し、俺は初崎先輩に近付くべく歩みを進めた。
「初崎先輩、お久しぶりです」
「日吉、少年」
 変わった呼び方だったけれどそれに不快感はない。俺の傍で立ち止まり、身長差からか顔を上げた彼女の頬に赤い線が走っているのに気付く。
「怪我、してますよ」
 先輩は少しの間を置いてから、道理でと呟いた。引っ掻き傷だからか、どうやらじわじわと滲むような痛みを感じてはいたらしい。
「保健室」
「まだ空いていますよ、そこの扉から直接入れます」
「ありがとう」
 先輩は自身がいた大木から死角になる場所の扉を見てから、こちらを向いて礼をしてきた。付き添いますかと言えば、大丈夫だと返されたので、お気をつけてて言って別れた。
 それから振り返ると、思ったよりも近くに鳳がいたから、邪魔だと押し退けて木製のテーブル席へ弁当を置く。鳳が酷いなと苦笑いしたが、別に喧嘩に発展したことはない。
「さっきの人、さあ」
「初崎先輩か」
「最近二年でも噂なんだ」
 あの人初崎さんて言うんだ、と鳳は言いながら弁当を広げた。相変わらずこいつの弁当は豪勢だ、跡部部長程ではないが(彼は学校での食事でさえフルコースじみている)。
「良い噂、じゃなさそうだな」
「日吉知らないの?学校中の噂みたいだけど」
「余計なお世話だ」
 昼食を取りながら鳳の話を聞く。どうやら初崎先輩の話のようで、俺は適当に相槌を打ちながら母親の手製の弁当を食べていた。


「日吉はどう思う?」
「嘘だな」
 鳳から聞いた初崎先輩にまつわる噂をバッサリと切り捨てた。ついでに言うと、俺も鳳も弁当箱はもう空だ。
「え、あの先輩とそんなに仲が良いの?」
「いや、会ったのは今日で三回目だ」
「ふうん、でも、変わった人だったね」
 ぽつりと呟いた鳳は、果たして先輩をどう思ったのだろうか。しかし目を見たら殺されるなんて噂を誰が信じるというのだ。あの人からは殺気など微塵も感じなかったのだが。
 噂を聞いて分かった事がある。湯河原先輩への嫌がらせが終わったのはあの人に矛先が変わったからだ。それだけで、校内に渦巻くものは変わらないのだ、何も。
 そしてあの人は優しいのだと思う。

― 戻すつもりか

 あの時に図書室で湯河原先輩へ向けた彼女の言葉、それはつまり、湯河原先輩の置かれていた場所を理解し、そして自分と関われば湯河原先輩に再び火の粉がふりかかる事を危惧したから出たのだ。

 彼女の冷たさは、優しさを内包している。

「あ」
「初崎先輩か」
 直接外へつながる保健室の扉から出てきたのは初崎先輩だった。彼女は俺達に気付くと、こちらへ近付いてきた。何か用事だろうか。
 俺達の前にやってきた先輩は、鳳に目もくれずに俺の方を向く。手当てをしたんだろう先輩の頬には絆創膏が貼られていた。鳳に見向きもしないなんて珍しいと思ったが、彼女は鳳と面識が無いようだからこれが普通なのかと思う。
「昼食か」
「はい、部活があるので」
「部活は」
「テニス部です」
 鳳をまるでいないかのように扱う彼女は、テニス部と聞いて納得したように頷いた。鳳、どころか俺もその真意は分からなかった。
「じゃあ」
「はあ」
 終始鳳を無視した会話は終わり、俺がその会話の真意を知るのはもっと先なんだろうと、どこかで考えていた。初崎先輩が去った後、鳳はしばらくぽかんとしていたから、間抜けだと言ってやると、だってと返してきた。
「俺に興味ないなんて新鮮だったからさ」
「自惚れてんのか」
「いや、そうじゃなくて」
 分かってるとだけ言うと俺はさっさと片付けて立ち上がり、部室へ向かうべく歩みを進めた。待ってよ、と慌てたような鳳は、先輩を嫌いにはならないだろうと思う。鳳が優しいというのもあったし、彼女がミーハーではないと見せ付けられたのだから。



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