出会い


 あの人に会うのはいつも図書室だった。

 梅雨明けもゆっくりと近づいているだろう空を暗雲が覆い尽くした日、昼前から降りだした雨に俺は溜め息を吐いた。しかし今日は部活が休みだと思い出し、図書室から本を借りたままと言うことにも気付いた。
 氷帝学園の図書室は蔵書が多い。それでもどちらかと言えば洋書が多く、それを求める人間が多数派のせいか、俺が借りていた本は数人しか借りていないようだった。
 昼休みに返して、また新しい本を借りようかと考えながら、俺は目の前で繰り広げられる授業に意識を戻す。


 昼休み、昼食を早めに終わらせて図書室へ向かう。生徒数の多いこの学校の昼休みは少し苦手だ。廊下を歩くたくさんの生徒に機嫌が悪くなったが、俺は仕方ないことだと言い聞かせ、少し勢いをつけて図書室の扉を開いた。
 昼休みの図書室はちらほらと生徒がいたが、静かにというルールがあるからかはたまた集中しているからか、とても静かだったためさほど苦痛には感じない。司書の先生に返却の手続きをしてもらい(扉の開閉は静かにねと諭された)、新たに本を物色するべく図書室の奥へ進んでいく。
 図書室では、今はシェイクスピア特集のようで、和訳された本のみならず、フランス語やその他良く分からない外国語の本がこれ見よがしに並べられている。こんなものを読む人間など俺は数人しか思い当たらないが、シェイクスピアの棚に並べられた本に不自然に広い隙間があるから何人か借りたのだろう。
 俺はその棚を素通りし、目的の棚へたどり着いた。しっかり並べられ、詰まった本棚はそれがあまり借りられていない事を物語っている。見覚えのあるタイトルは避けて本を探すと、新しく入ったのか、綺麗な本が目についた。読んだことのないその本を手にして、並べられた机の中でも一番人の少ない場所へ向かう。
 そこには一人の女子生徒がいて、傍らに何冊か本が積まれていた。彼女はひたすらに本に没頭しているようで、長い前髪を机に近づけるように本を眺めてはページを捲っている。
 何の気なしに彼女と斜向かいの席についた俺は、まだ新しい本を開いて、その世界へ入り込んだ。


 周りがにわかにバタつき始めた雰囲気に現実から引き戻された俺は、読み掛けの本を借りることに決めて本を閉じた。そして、視線を女子生徒が座っていた方へ向けてみると、彼女は未だに本の世界に入り込んだままだった。
 この人が授業に遅れようが俺の知った事ではないはずなのだが、何故だかその前髪の隙間から覗く伏せられた睫毛が、弱々しく見えたのだ。
「あの、授業遅れますよ」
「気にしなくていい」
 俺の声に顔を上げた彼女は、抑揚のない声でそれだけ言うと、再び本へ視線を落とした。彼女の読んでいた本は良く分からないが、ギリシャ語の本らしい。
 突き放されたと思いながら、そうした態度は少し新鮮な気がして、俺も随分あの騒がしいファンという存在に慣れてしまったものだと自嘲した。
「何で戻らないんですか」
「机がない」
 質問の答えはシンプルなものだったが、それから連想される事柄は一つだけ。そしてそれは少し前まで、テニス部の正レギュラーのマネージャーに振りかかっていた現実と同じではないだろうか。
「あのそれって」
 思わず聞き返すと、彼女は顔を上げて、長い前髪に隠された目で俺を見据えていた。俺からは見えないはずの彼女の目に射抜かれたような気がして、思わず息を呑んだ。

「知ってどうする」

 落とされた言葉に、俺は頭から冷水を浴びせられたようだった。俺は目の前の彼女を助けたいと思った気でいたけれど、最初から、そう、あの弱々しそうな伏せられた睫毛に気を引かれた時から、彼女にあの人を重ねていたんだ。
 その場に居られず、手にしていた本を棚に戻し、予鈴が鳴ったのを合図に、俺は図書室を後にした。逃げたと思われるだろうか。それでも俺はあの場に長い時間居たって、彼女にかける言葉など何一つ浮かばないような気がした。

 午後の授業は、珍しく身が入らなかった。



 正レギュラーのマネージャーをしている湯河原先輩とは、合宿くらいしか会話をする機会が無かった。俺はそれに何の感情も無かったけれど、ある日の昼休みに、校舎裏で何人かの女子に囲まれて詰め寄られている湯河原先輩を見たのだ。
「何、しているんですか」
 一人が湯河原先輩に向けて振り上げた手を掴むと、女子はバタバタと逃げていき、俺が手を掴んだ女子も手を離した途端にひきつったような愛想笑いを浮かべて逃げた。
「先輩、大丈夫ですか」
「あ、うん、ありがとう」
「今まで気付かなくてすみませんでした」
 コートに群がるような女子の歓声だって俺は知っていたのに、湯河原先輩がそういう女子から敵意を向けられるであろう事を予想出来た、はずなのに。俺は、ひたすらに自分の事にしか目が向いていなかったのだと改めて突き付けられたような気分だった。
「良いの、頑張ってる皆の気を反らしたくないし」
 でも素通りしないで助けてくれて嬉しかったと言う先輩は、とても優しく笑う人で、綺麗だと思った。
 結局いつの間にかあの人が先輩を助け、ある日を境に先輩への風当たりは少し弱まってきた。
 あの一度しか、助けられなかった。
 それが後悔になった矢先に、図書室で彼女を見つけたのだ。だから、かもしれない。彼女に先輩を重ねてしまったのは。



 チャイムの音に我に返ると、いつの間にか放課後になっていた。らしくないとため息を吐きながら、俺はあの本を借りるのだと頭で理由を作り、図書室へ向かう事にした。彼女がいるなんて、そんな確証ありはしないが、それでも何故か、もう一度彼女と対話をしてみたくなったのだ。


 図書室に行くと、まず本を探せばいいものを、俺は昼休みにあの人のいた場所に足を向けていた。
 彼女は昼休みと同じように本を広げてそこにいた。それだけならば良かったのだが、彼女が今広げている本の表紙を見れば、俺が昼休みに読んでいた本だ。そしてそれはあの一冊しかこの図書室にない。つまり、俺が図書室に来た目的を遂行するには、必然的に彼女に話しかけなければならない。
 またの機会にすれば良かったのだが、やはり俺は彼女に興味があったらしく、足を向けて彼女の方へと近づいていた。
「あの」
 俺が声をかけると、彼女は本から顔をあげた。さらり、彼女の髪が流れるように頬を伝う。
「その本、読み終わるのに時間かかりますか」
「借りたいのか」
「はい、でも読みたいんでしたら、お先にどうぞ」
「いや、いい」
 彼女は何の未練もなさそうに本を閉じてそれを俺に差し出した。短く言葉を落とす彼女との会話は酷く簡素で、それでも不思議と不快感はない。
「来週には返しに来ます」
「そうか」
 俺は受け取った本をカウンターに持っていき、貸し出しの手続きをして、そのまま図書室を後にした。


 何をしているんだと気付いたのは、昇降口に着いた時だった。


 確かにあの人と会話はした。素っ気ないにも程があるが。結局あの人には、俺が借りた本を譲った人間程度にしか思われなかっただろう。何故自己紹介をしなかったのか。
「ああ、あの人がしなかったからか」
 あの人は俺の事などどうでもいいのだ。このあっさりと譲られた本のように。
 それにしても俺も大概馬鹿だ。自己紹介など自分からすれば良かったのに。彼女の纏う雰囲気に呑まれたのか、彼女とは何か似たものを見い出したのか、俺は初めての経験に顔をしかめてから靴を履き替えた。


「名前を聞くのを忘れた」


 俺は彼女がそんな事を呟いたことなど知らない。



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