事実


「お待たせー」
 やはり場に不似合いな声で千石が病室の扉を開けた。ふと、全員の視線がそちらに向かう。千石は四人分の飲み物を持っている、はずなのだが。
「やあ跡部、それに忍足もいるんだね」
 千石は二本、そしてついてきたらしい幸村が三本、缶ジュースを持っている。制服姿であるところをみると、彼も学校を抜け出してきたのだろうか。
「幸村、お前も抜けてきたのか」
「ふふ、先生方は了承済みだよ」
 千石が席を外したのは幸村を迎えに行くためだったのか、という所は納得できた。しかし幸村と初崎の関係は、どうしたって納得できない。そして幸村が来ることも予想できていたらしい(でもきっとこの時間に来るのは予想外だっただろう)跡部の態度も。
 とりあえず幸村から飲み物を受け取り(千石はやはりというか、湯河原に渡していた)、ぼんやりと初崎を眺める。細い腕と白い肌。そういえば前髪は重力に沿ってか、真ん中で分けられている。勿論、目を閉じているからその瞳は眺めることが出来なかったのだけれど。
「うん、これで全員」
 千石だけが納得したように頷いている。一体何をしようと言うのだろうか。その疑問は俺だけが抱いたわけではないらしく、千石以外が疑問の眼差しをしていたようだ。
「明里ちゃんの携帯に、アドレスが入ってる人」
 千石は口元にだけ笑みを浮かべてそう言った。
 あまりに少ない、と思うのはきっと俺の価値観でしかない。初崎は好んで人と関わるようには見えなかったし、関わったところでアドレス交換などという行動をすすんでやるようなタイプだとも思えないから。
 引越しが多かったという初崎は、きっと今までこうした交友関係などなかったのかもしれない。だとしたらこの一年ほどでここまで増えた、というのはもしかしたら大変な進歩ではないだろうか。
「明里ちゃんは、手術するんだ」
「は」
 唐突だ。
 あまりにも唐突過ぎて、俺は聞き返したかったのか息を吐きたいだけだったのか分からない声を出してしまった。
 初崎が、手術。体が悪いのか。
「体の問題と、本人の意思で今まで避けてたんだけどねえ」
 この間、やるって決めたんだと千石は言っていた。体の問題、とはもしかして十二月の下旬に起きたあのリンチまがいの出来事のせいだろうか。
 そして一体、何の手術なんだろうか。聞いても分からないし、それを聞いたところでどうもできないから、俺は何も聞かなかった。
「多分ね、明里ちゃんの考えが変わったのは君達のおかげだと思うんだ」
 俺が、彼女に何を与えたというのだろうか。俺は常に傍観者であったし、特に味方につこうという思惑があったわけではなかった。そういう打算を抜きに俺は初崎と近づいて、それでどうこうしたいわけでもなかった。
 彼女との時間はどちらかといえば気まずかったし、沈黙が多かった。だから今、千石に言われたような、初崎の考えを変えたなどという大層なことが出来ていたとは、到底思えなかったのだ。
「明里ちゃんの世界を広げたのは、俺じゃなくて君達なんだ」
 呟いた千石の言葉に滲んでいたのは、無力感か嫉妬か、それとも感謝か。
 俺は千石ではないし、初崎と長い時間を共有したわけではないから、千石が抱いた感情など分かりはしないけれど。
「でも、そんな初崎の世界を支えとるんは、お前やろ」
 それだけは分かりきっていた。初崎の世界がどれだけ広がろうと、その中心、彼女自身と共にその世界の根幹に位置している人間は、紛れもなく千石なのだ。
 自身へのいじめで傷つかなかった、などありえない。初崎の抱えた心を、不安定に揺れそうになっていた心を支えているのは千石でしかないのだ。それは家族のように、暖かい安心して生きていられる場所で。
 千石はありがとうと笑った。
 それから聞かされた説明によると、初崎は卒業式に出られるか分からない状態らしい。難しい手術なのかと聞いてみれば、手術自体は特別難しいわけではないけれど、初崎の内臓が普通の人間と逆になっているし、元々細すぎるために難しくなってしまう、と言っていた。
 そして、氷帝に来る前に起きたとある事件での内臓についた傷が完治しなければできない手術だ、とも。
 初崎の進路はわからなかったが、千石曰く、一年留年という形で、どこか高校を受験するんじゃないかという事だった。今のように一人暮らしで通うのだろうか。
 エスカレーター式に高等部に進学する人間の多い氷帝には、もしかしたら初崎は戻ってこないんだろうという、漠然とした考えが俺の頭を占めた。いくらなんでも、嫌な思いをさせられた人間がいるような場所にみすみす戻ってくるとは、思えなかったのだ。
「じゃあ、立海でも受けてくれないかなあ」
 一緒に学校生活を送ってみたいんだと穏やかに笑う幸村に賛成しそうになったのは俺だけの秘密だ。


 それから、千石だけが病室に残って俺達は帰った。初崎が目覚めたらまた来ると、誰からともなく約束して。
 俺と跡部と湯河原は、そのまま学校に戻ろうかと悩んだものの、結局それぞれ考えたいことが出来てしまったのは同じらしく、何故か三人連れ立って跡部の邸宅へ向かった。
 相変わらず豪勢な家で、好きにくつろげと言われてもくつろげなかったような気分だったが。
「おい忍足、お前いつ引っ越すんだ」
「なんや、跡部はもう知っとったんかい」
 高級そうな紅茶を高級そうな茶器で飲んで、やはり高級そうな焼き菓子を食べながら雑談をしていたら、ふいに跡部が声をかけてきた。
 そういえばまだ誰にも進路を教えていなかったなあとぼんやり考えて。
「え、お、忍足くん外部なの?」
「ちゃうよ、氷帝に残るで」
 そう、俺は関西の方へ越していく事になった親の反対を押し切り、氷帝学園の高等部へ残ることにしたのだ。家族と暮らしていたマンションでは不経済だからと、引っ越す事になっている。
 別に親についていっても良かったのだが、俺は今更環境を変えて一から新しい関係を築いていくような事は避けたいという意識と、そして三年間共に過ごしたテニス部のレギュラー陣ともう少し過ごしたいという思いを捨て去れなかったのだ。
 今後ずっとテニスを続けるか、という問いには答えが出せないが、せめて高校の間までは、テニスを続けたい。


 変化を望みながら得たものは、結局不変に似た環境だった。




 卒業式を目前にしたある日、俺は初崎の見舞いへ一人で行った。
 彼女は今のところ一般病棟に移されて、手術に向かうことが重要視されているようだ。精神科は定期的な検診くらいで十分らしい。
「結局、戻るつもりはないんやね」
 病室は個室ではなかったからか、面会に来たと言えば初崎に屋上へ連れて来られた。そこに干されているタオルはやはり真っ白で、晴れた日に反射するようにまぶしかった。
「戻ってどうする」
 それもそうかと納得してしまう自分も自分だが、初崎の噂は今も実しやかに語られているのを知っていたから、結局何も返せない。
 千石はどうしたと聞けば、彼は今日が卒業式だと教えてくれた。彼はそのまま山吹の高校へ通うらしい。
「なあ」
「何だ」

「初崎の手術終わったら、二人でどっか出かけへんか」

 ばさばさと、タオルが風に煽られてはためく。俺の髪も、初崎の髪も、風に流される。
 前髪をすっかり風で分けられた初崎の目は、鈍い銀に輝いて、それは相変わらず何の感情も映しはしなかったけれど。

「そうだな」

 それでも俺には、彼女が嬉しそうに見えた。



END.



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -