事件


 授業は自習が増えて、俺も四月からに備えた準備が殆んど終わって、卒業式の練習も増えてきた二月の下旬に事件は起きた。その日は初崎が朝からいたから、多分机を隠される事も無くなったのだろう。
 昼休みになり、初崎は珍しく教室で食事をしていた、とはいえそれは随分簡素にゼリーだけだったのだが。そして俺も何となく跡部の言葉を思い出して、教室にいたのだ。

 そこで、事件は起きた。
 行動を起こしたのは委員長ではなく、クラスで良くも悪くも目立つ女子のグループだった。彼女達は初崎を取り囲む。
 嫌な予感がして、俺は教室を出て跡部へ電話をかけた。その時、クラスから息を飲むような悲鳴が聞こえて慌てて教室を覗くと、初崎が鞄からカッターを取り出していた。
「どうした」
「跡部、うちのクラス来てくれへん?出来たら車呼んで」
「分かった」
 とにかくそれだけ伝えて、俺は丁度廊下へやってきた宍戸と岳人に、保健の先生を探して呼んでくれと頼んで、それから廊下の人混みの中に通り道を作ろうとした。

「お前ら邪魔だ」

 タイミング良く跡部の声が通り、サッと道が開く。それから教室へ視線を向けようとした時、いよいよあちこちから悲鳴が聞こえて、丁度教室が視界に入る位置にいた跡部が教室へ駆け込んでいった。
「待てっ!」
 初崎を見ると、カッターで自分の首を切ろうとしていて、跡部がそれを止めていた。様子を見ていた一部の女子なんかは、気分が悪くなったのか真っ青な顔をして、今にも倒れそうだ。
 跡部が初崎の腕を掴んでカッターを取り上げ、彼女がフッと倒れた所で、俺もようやく目の前の状況が夢ではなかったのだと気付いた。
「忍足!山吹に連絡して千石を病院に向かわせろ!」
「何処の病院に連れていくん?」
「立海大附属病院だ!車は呼んである!」
 了解した流れで携帯を取り出したが、俺は千石の連絡先も山吹中の連絡先も分からず、とりあえず職員室に向かった。きっと職員室ならばどうにかなるはずだ。
 丁度保健の先生を呼んできた岳人と宍戸が戻ってきたので、廊下の人払いを頼んでから改めて職員室に向かった。保健の先生は教室に入り応急手当てをしてくれるだろう。


「む、忍足か」
「監督、山吹中の番号分かりますか?」
 職員室に向かう途中で榊監督に遭遇した。テニス部の顧問なのだから、同じくテニス部のある山吹中の連絡先も分かるだろう。
「何があった」
「俺のクラスの初崎が怪我してもうて、今跡部が病院に運ぶ所なんです」
「初崎か、分かった。山吹中の千石と連絡を取れば良いんだな」
 俺はぽかんとして、監督が慣れたように携帯で電話をかけているのを見ているだけしか出来なかった。監督は初崎の何を知っているのだろうか。
「千石か、ああ、初崎が病院に運ばれた、跡部が付き添いだ……そうだ、千石、行ってよし」
 当たり前のように千石と直接連絡を取っている事や、電話でも締めは行ってよしかとか、突っ込みたいことは山ほどあるのだが、とりあえず目的は達成できた。俺はどうすべきか悩んだのだが、監督が俺を見ている。
「忍足、初崎と仲が良いのか」
「へ?あぁ、はい、あと湯河原もです」
「ならば湯河原も呼べ、我々も病院へ向かおう」
 訳の分からないまま、自分が初崎と仲が良いことにしてしまった。結局湯河原と連絡を取り、やはり顔面蒼白になっていた彼女と俺とで、跡部の家の車と同じくらい豪華な監督の車で立海大附属病院へ向かった。不安そうな湯河原はどうか知らないが、俺が車内で全く落ち着けなかったのは言うまでもない。



 病院に着いた頃には、初崎は処置も終わり病室に入っていた。しばらく入院しなければならないらしいが、病室に案内される道中で、俺はふと違和感に気付いた。
「監督、ホンマにこの病棟でええんですか」
「ああ、跡部から連絡が来ていたからな、間違いはない」
 一棟だけ切り離されたような厳重な真っ白い鉄扉を越えたそこは、確か入り口に精神科病棟と書かれてあったのだ。恐ろしく静かな病棟の、二階。初崎はそこの病室に入っていた。
「入るぞ」
 監督が扉をノックしてから開けると、鉄格子の嵌められた窓とベッド、簡素な棚と引き出しだけの小さな病室に、跡部と千石がいた。初崎はベッドで眠っているらしい。腕からは点滴の管が伸びていて、首には痛々しくも包帯が巻かれていた。
 ちらりと湯河原を見れば、今にも泣きそうだ。
「容態は?」
「傷も浅いんで、すぐに治るみたいですよ」
 監督の短い問いに、千石は答える。跡部はただじっと初崎を見つめているだけだ。
「ただ、やっぱりしばらく入院しなきゃいけないみたいです」
 その入院しなければならない理由を、俺も跡部も湯河原も知らない。初崎はいつだって自分の事を語ろうとはしなかったから。
 それにしても痛いくらい静かだ。他に患者はいないのだろうかと思うほどに。
「では、私は学校へ戻らなければ」
「え、俺らは」
「跡部、悪いが帰りに彼らも送ってくれ」
「分かりました」
 監督が病室を後にしてからしばらくは、誰も口を開かなかった。遠くで誰かの絶叫が聞こえてきた。ああ、誰かいるのだろうか。
「千石、どうなってやがる」
 沈黙を破ったのは跡部だった。跡部もまた、状況を把握できていないのだろう。
 千石はベッド際の壁に寄りかかっていたが、初崎の髪を撫でてから口を開いた。
「明里ちゃんにはね、傷がたくさんあるんだ」
 どこに、とは言わなかったのは、きっと初崎の体にだけではないのだろう。あの病的なまでに冷たい目も、周りを切り離したような態度も、きっと初崎なりの自衛なのだ。
「監督とは、どういう関係なん?」
「明里ちゃんの父親の知り合いだよ、住んでるのも榊グループのマンションだしね」
 知り合い、ということはあまり親密ではなかったのだろうか。しかしそれを聞いてはいけない気がして、俺は何も言えなかった。
「明里ちゃんの、ご両親は?」
「父親はもう死んじゃって、母親とは連絡が取れないんだよ」
 養育費は振り込まれるらしいけど、と千石は答えた。あっさりと話していたが、それはとても大変な事なのではないだろうか。
「し、親戚の方は?」
「来ないよ」
 今度は即答だ。湯河原がますます小さくなっている。聞いてはいけなかったのかと自分を責めているんだろう。千石もそれに気付いたのか、気にしなくて大丈夫だよとフォローした。
「こいつは、死ぬことも怖くねえってのかよ」
「うーん、そう、とも言えるかな」
「随分歯切れが悪いやんか」
 跡部の独り言にも似た質問に、千石は言葉を選ぶように視線を泳がせる。先ほどのようなあっさりとした答えではないらしい。
「明里ちゃんは鏡みたいなんだ」
「鏡、だと?」
「好意なら好意だし、敵意なら敵意、狂気なら……狂気ってね」
 千石は笑った。普段と何ら変わりが無い笑みのはずなのに、彼にこそ最たる狂気が宿っているのではないかと思えてしまった。
 要するに湯河原のように好意で近づいてきた人間には好意を返すし、委員長のように敵意や狂気を持った人間には同じように返すということか。
「まあ、敵意とか狂気ってのは強くないと返さないみたいだけど」
 明里ちゃんは優しいからなあと、千石は初崎を穏やかな目で眺める。この男は一体初崎にどんな感情を抱いて接しているのだろうかと興味すら沸いてくる。それでもやはり、そこには俺が触れられないようなしっかりとした何かがあるようにも思うのだ。
 そもそも俺と千石(跡部と千石でもいいのだが)の間柄は、ただ同じ学年で、テニスの大会や合同合宿で顔を合わせたことがある程度だ。だから俺の知る千石など、彼の人生のごく一部でしかない。初崎だってそうだ。俺の知る初崎など彼女の人生のごく一部。
 俺がそのごく一部を知る前から親交を深めてきた千石と初崎の間柄など、俺とでは敵うわけがないのだ。


「あ、そうだ、飲み物買ってくるよ」
 千石はポケットに触れて財布があることでも確認したんだろうか、それから少し緊迫したような雰囲気を打破するように努めて明るく声を出してきた。俺は別に何かほしいとも思わなかったが、きっと千石は席を外したいのだと思って、できればお茶系でと注文をつけて、病室から出て行く千石を見送る。跡部と湯河原はただ黙っているだけだ。


「初崎は、四歳で親が離婚して、小二で父親を亡くしてたんだ」
 千石のいない病室は重苦しい。じわじわと病室の壁が鈍色に染まるのではないかと錯覚させるほどに。
 先ほどから口数がやけに少ない跡部が、ゆっくりと口を開いた。きっと誰にだって、複雑な思いがあるのだ。初崎を千石と同じくらいに心配している湯河原は、普段では考えられないほど黙りこくっている。
「それから親戚の家を転々とたらいまわしで、それで今は監督の会社が経営しているマンションに一人暮らしだそうだ」
 だからか、だからたらい回しだと言ったのか。俺はようやく初崎の言動に納得した。何ヶ月もかけて納得するなど予想だにしていなかったのだが。
「何で……景吾がそんなこと……」
「調べてみたんだ」
 いつの間にか湯河原が跡部を名前呼びしていることを、以前から気付いていたのだが改めて聞くとやはり二人は付き合っているのだと実感する。今の状況とはあまりにも場違いだが、そうでもしていなければ俺でさえ冷静になれない。
 病室の外では様々な声が聞こえてくる。穏やかなものが大半だが、時々泣き声や叫び声が、小さいとはいえ聞こえてくる。普段生活していたら、きっと殆ど無縁の場所なんだろうそこは、やはり俺にも動揺を与えてくるのだ。
 異端、と己を評した初崎だが、彼女と対峙しても動揺などなかった。俺にとっては初崎は異端ではない。



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