障気満ちる奈落


 セイはアクゼリュスが落ちた場所、魔界のそこかしこに充満している障気に顔をしかめたが、傍らにあったマルクト船籍の陸艦、タルタロスの入り口付近は幾分かマシだと気付いて、そこに佇んでいた。見知らぬ場所だというのに、セイは笑みすら浮かべている。
「そうか、此処が」
 アクゼリュスのあの崩落で、ヴァンからメシュティアリカと呼ばれていた少女の譜歌無しに生きていた人間など居るようには思えないセイは、生き残りを探していた彼らに協力するでもなく、ただ爛々と目を輝かせながら魔界の地表に蠢くような泥を眺めている。
「貴方が不穏な動きをすれば、然るべき措置を取らせて頂きますよ」
 そんなセイに声をかけたのは、マルクト軍の青い軍服を着た男、死霊使いの二つ名を持つジェイド・カーティスだった。セイは小さく息をついてから彼を見据えた。ヘーゼルカラーの髪を肩口辺りまで伸ばしているジェイドは、紅い瞳を鋭くしてセイを見ている。
「今は緊急時です、分かりますね」
「この陸艦を使うか」
 ジェイドの言うように、確かにここに長くいても意味がない。目の前にある陸艦が動けば何か変わるかもしれないし、無用な争いはセイもしない主義だ。彼は陸艦の中へ入り、動力を確認すべく歩き出した。



 そこはまるで絶望のようだとルークは思った。英雄になることも、周囲に己を認めさせることも出来ず、あの超振動という力でアクゼリュス壊してしまったのだ。それでも己のせいだと認めたくないのは、認めてしまえば何か恐ろしいものに押し潰されてしまう気がしたから。
 目の前の光景は夢ではない筈なのに、ルークの目にはどこか他人事のように映っている。分かるのは、己の体が恐怖に打ち震えていることだけだ。ヴァンは最初から、ルークを道具として扱うために、こうして惨劇を生み出すために、彼を優しさで縛り付けていたに過ぎなかった。

 違う、師匠は優しい人だと叫ぶ心は、最早ルークの奥底に沈んだ。

 その翡翠の目に映る魔界の禍々しい色の泥に呑まれて今正に消えたのは、果たしてアクゼリュスで笑んでいたあの少年だけだったのだろうか。ルークは、抱えていた劣等感を今まで隠していた虚勢も、そうして消えてしまったような気がした。





 魔界を航行しているタルタロスの甲板には、重苦しい空気が充満している。外殻大地、今までセイ達の暮らしていた場所が空を覆っている事も手伝って、時折雷鳴響くそこでは閉塞感も拭い去れない。だがその閉塞感より、アクゼリュスが為す術なく崩落してしまい数多命が奪われた事実が、そこにいる面々にはずっしりとのし掛かっている。



 甲板では、ルークに全ての矛先が向いた。必死に自分は悪くないと叫ぶ彼に、かつて仲間としていただろう面々が冷たい目を向ける様子を、まるで茶番劇だと思いながらセイはそれを眺めるだけで、次々と立ち去っていくルーク以外の面々を見送る。ただ一匹、ローレライ教団の聖獣とされるチーグルの仔だけは、喚き叫ぶように泣くルークから離れる事はない。
 セイはしばらくルークとチーグルを眺めていたが、ルークの頭を軽く撫でてから艦内へと戻っていった。



「しかし侮れないな」
「何がですか?」
 艦内でのセイの呟きに、凛とした声が問い返す。振り返ったセイの視線の先には、ヴァンの妹であるティアが警戒しながら近付いて来ている。
「総長の事ですよ」
「兄の、ですか?」
「“ルーク”を、ゆっくり時間をかけて手込めにしたのですから」
 セイは薄い笑みを浮かべながら、敢えてティアに言葉を続けた。
「ただ、アクゼリュスに到着する時点で、彼を本格的に総長へ傾倒させたのは貴方達なんでしょう」
「それは……」
「ああ、気に病む事はありませんよ」
 セイは口元の笑みを益々深くしてから、未だ沈痛な面持ちのティアをそこへ残して立ち去っていった。確信めいた足取りでセイが通路を進むと、船室が並ぶエリアに辿り着く。辺りには人が居らず、皆はもう船室に入ったのだと察したセイは、近くの扉に手を伸ばした。
「俺にはちょうど良い状況になった」
 手近な船室へ入ったセイは、くつくつと笑いながら呟く。そこの窓は外の暗さも手伝って、鏡のように船室とセイを映し出した。彼が目隠しと額当てを外していくと、短い金髪がするりと流れ、濃紺の瞳が露になる。それが映された窓に手を伸ばすと、セイは歪な笑みを浮かべる。

「あれからずっと待っていたよ――ガイラルディア」

 窓は冷ややかなセイの目のように、ただ彼を映し出す。



 様々な思惑を乗せたタルタロスは、轟々と魔界の泥の海を航行していった。




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