離別

「ヤバいな」
 意識を取り戻した跡部は呟いた。辺りを見渡しても誰もいない。いや、人でないものしかいない。どうやら分散されたらしいと、跡部は状況を把握した。旧校舎のどこかだろうが、教室のプレートも外されているせいで、廊下の真ん中だとしか分からなかった。それでも、手洗い場の近く、鏡がある付近だという事実に、他の全員も鏡の近くだろうと予想することは容易かった。
「御門が手早く済ませば良いんだがな」
 今は御門を心配するよりも、レギュラー達を探す方が簡単のようだ。ぎゃあだの、うわあだのと悲鳴があちこちで響いている。跡部は、樺地の安否を気にかけながら、すぐ近くから聞こえた悲鳴の原因を見付けるために、手近な教室の扉を開いた。



 鳳長太郎は、日吉若と一緒だった。今、二人は一階の教室を隅々まで見てまわっている。二人が居た場所は一階の普通教室だった。その教室には、入り口付近に鏡が下げられていたせいだ。
 日吉の案で、手洗い場やトイレ、教室など、鏡があるかもしれない場所を探しているのだ。他の全員も、同じように鏡の近くに居ただろうと。
「何だか、ここは嫌な感じがする」
「当たり前だ、俺達は鏡の中に引きずり込まれたんだからな」
「じゃ、じゃあ、何かが俺達に化けたりとかは、無いんだよね?」
「そうだといいな」
 冗談、と返そうとした鳳は、通りがかった手洗い場の鏡を見て、息を呑んだ。違う、鏡の中に引きずり込まれたんじゃないと、直感的に思った。
 あの光はただの目眩ましであり、鳳達を分散させる物でしかなかったのだ。鏡はそれをはっきりと物語っている。
「お前、は、日吉じゃないんだろ」
 鳳の震えた情けない声は、それでも日吉の形をしたものを振り向かせた。それは既に日吉ではなかった。鳳よりも少し低いくらいの身長は、赤いハイヒールのおかげらしい。
 振り向き様に靡いた赤いロングコートが、鳳の目に痛いくらいに飛び込んでくる。その端にはキラリと光る刃物。恐る恐る視線を上にやると、それは長い黒髪の、顔半分を覆うほどのマスクをした女だった。
「ねえ、私、綺麗?」
 鏡に映っていたのは、にいと裂けた口が弧を描いた醜い女の姿。喉がカラカラに乾いて、鳳は上手く声を出せない。だが、肯定も否定も、正解ではないような気がした。
 口裂け女は、何も答えない鳳を見ながら、手にしていた鎌をギュッと握り締めて振りかぶった。殺される、ひやりと鳳の背筋を冷たいものが走る。避けなければと震える足を叱咤しても、鳳の言うことを聞いてくれない。

「鳳!」

 視界に銀が煌めいた瞬間、鳳は誰かが呼んだような気がした。



「何なんだよこれ、訳わかんねえ!」
「俺も聞きてえよ!とにかく走るぞ、岳人!」
 旧校舎二階の廊下を、宍戸亮と向日岳人は駆け抜けていた。理科室だった教室かも定かではなかったが、目覚めた二人の眼前には人体模型がいたことだけは事実だ。何せ、今追いかけてきているのはまさにそれだから。
 生徒の増加や老朽化で使われなくなった旧校舎だが、それでも広い。逃げているうちに廊下を半分も過ぎただろうが、それでも突き当たりまでは遠い。
 ガタガタとぎこちなく走る人体模型は、それでも速い。それを止める術さえ知らぬ宍戸と向日は、とにかく逃げ回るしかできなかった。
「このまま、逃げても、突き当たりだろ、宍戸」
「激ヤバだな、つーかお前バテるの早い」
 常々持久力不足を跡部に指摘されていた向日は、既に息が上がっている。宍戸は持久力もそれなりにあるし、速度もまだ上がる余地があるためか、息ひとつ乱さない。しかし、どちらにせよ突き当たりの壁が迫っているため、体力の有無が危機回避に役立つとも言い切れなかった。そもそも人体模型は何故追いかけくるのか、どうすれば良いのか、思い浮かべる暇もなかったのだから、仕方ない。
「と、にかくっ!突き当たったら階段行こうぜ」
「ああ、絶対逃げ切ってやる!」
 ドタバタと響く足音に迫るような、ガタガタとぎこちない音は、先ほどより速度を速めた。それでもなかなか宍戸達との距離が縮まないのは、彼らがテニス部として鍛えているせいだろうか。人体模型は、心なしかもどかしそうな顔にも見える。
「脳を、返せ」
「し、宍戸!あいつ喋ったぞ!」
「聞くな、とにかく逃げるしかねえ!」
 頭に空洞のできている人体模型は、ぎしぎしと動かした手を伸ばしてみたが、宍戸と向日には届かなかった。



 静かな場所にぴちょん、と水音がする。忍足侑士は何故こんな場所に、と頭を抱えるしか出来なかった。トイレの個室。しかも女子トイレらしい。
 彼の目の前、同じ個室には一人の少女がいた。黒いおかっぱ頭に、赤いプリーツスカート。忍足も話を聞いたことはあったが、よもや閉じ込められるなど初耳だ。
「は、花子さんや」
「味気ないけど仕方ない名前よね、本名だもの」
「で、何で俺は花子さんに閉じ込められてんねん」
「あなたと祝言をあげようと思って」
 花子さんは、至って真面目な表情だ。祝言という耳慣れない言葉に、忍足は一瞬ぽかんとしたが、つまり花子さんは、彼と結婚をしたいと言っているのだ。最近は、幽霊も結婚をしたいらしい。
「そもそも俺、結婚できる年齢やないわ」
「大丈夫、たかが数年待つのは容易いわ!」
 悪い虫なんて敵じゃないと言い切った花子さんに、潔さを感じた忍足だが、幽霊と結婚など真っ平だ。そこでふと、正月に神社でひいた御神籤に女難の運気とかかれていた事を、忍足は思い出した。あの御神籤は当たりだ。
 普段はあまり行かない神社だが、無事に脱出できたら御祈祷をしにいこうと、忍足は心に決めた。ついでに花子さんが除霊されてくれれば万々歳。
「男子トイレには、何もおらんのか?」
「太郎はダメよ、あいつチャラ男の割りに老け専だから」
「そ、そうなんや……」
「私、浮気なんかしないから安心して!結婚まで操は守る主義なの!」
 幽霊にも好みがあるらしい。そして花子さんは、かなり前向きな思考の持ち主だった。当然ながら、忍足はそれに惚れる事はなく、むしろ早く誰かに気付いて欲しかった。例えここが女子トイレであり、彼の仲間は皆男子であるため、その望みが薄かろうが。



 芥川慈郎は、相変わらず樺地宗弘に担がれていた。そして、樺地は物凄い速度で駆けるものに乗っている。そして向かうは跡部のいる場所だ。
 二人は昇降口の大きな姿見の前にいた。しかし、芥川は眠ったままで、樺地は起こせと指令もないため、律儀に担ぎ続けている。彼は跡部を探すべく動き出したが、所在が分からない。しかも辺りは嫌な空気。
 どうしようか途方に暮れた樺地の前に勢い良くやって来たのが、今彼が乗っているターボババアだった。彼女は止まりきれずに樺地の足に激突したのだが、彼が優しく気にかけた事が嬉しかったらしく、お礼に跡部のいる場所まで運ぶと言って、有無を言わさずに乗せて駆け出したのだ。
「全く太郎は優しさが足りないんだよ、花子を見習えばいいんじゃ」
「ウス……」
「その点、金次郎は勤勉な努力家でなあ、随分助けられたわい」
 道中の会話の半分以上、延々と続くターボババアの愚痴だった。樺地は嫌な顔一つせず、彼女の話しに相槌を打っている。彼が元々無表情なだけだが。
 一階、二階と階段を駆け上ったターボババアは、四階で足を止めた。樺地の探し人は四階にいるらしい。階段の踊り場での彼女の急カーブをものともせずに、芥川は眠っている。遠心力に振り回されて目を回している可能性もあるが。
「じゃあ、気を付けて行くんじゃよ。何かあったら助けるからの」
「ありがとう……ございます」
 ターボババアは樺地からのお礼に、満足そうに笑って階段を下りていった。その直後、階下からガンッという衝突音と、「またお前は!人体模型の分際で!」という彼女の怒鳴り声が聞こえてきた。果たして何があったのか、樺地には見当もつかないが、ともかく彼の目的である跡部を探すことを優先させたのだった。


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