招待

 ふわあ、と御門啓次郎は欠伸を一つ漏らした。彼の目の前に立ちはだかっているのは、自身が通う氷帝学園中等部ではない。人も疎らな休日の、神奈川県にある立海大附属中学だ。
 御門は立海に知り合いなどいないのだが、どうしてもここへ来なければならない理由がある。
「気ぃ早い上に嫌なサンタやなあ」
 呟きながら、御門は鞄に仕舞っていた一冊の本を取り出した。一見何ら変わった所はない普通の本だが、裏表紙には立海大附属中学図書室と書かれた、貸し出しに使われるであろうバーコードのついたシールが貼られている。何故全く縁のない立海の図書室の蔵書が御門の元にあるのか、本人も分からない。ただ、今朝御門が目覚めたら、枕元にあっただけだ。
 他校に入った事がない御門は、校門の前で立ち尽くしてかれこれ二十分。休日のためか、守衛所は無人。そもそも図書室は開いているのだろうか。そして場所はどこだ。頭を捻った御門は、ズボンのポケットに放り込んでいた携帯電話を取り出した。
「コン、ちょっと中偵察して来いや」
「すぐ戻るでの」
 携帯電話についているミニチュアの試験管のストラップから、一週間前に従えた白い妖狐のコンが出てきた。小狐の姿だが。御門の言うことを忠実に守るコンは、スルリと壁どころか人さえすり抜けて校舎の中へと向かっていった。
「にしても、この本面倒なもんやなあ」
 御門はコンを見送ってから、ため息をついた。素知らぬ顔で返して良いものかと悩んだが、特に頼まれた訳でもないのだから、我が身に切実な被害がなければ良いかと割り切った。元より御門は、好き好んで無償奉仕するような博愛精神を持ち合わせていない。
 じとっと本を眺めた御門だったが、次の瞬間に息を呑んだ。本の表紙がぐにゃりと歪んで、渦を描き始めている。御門の脳は警鐘を鳴らしはじめて、彼の心音を警戒と期待で激しく波打たせた。
「最初から、それが目的やったんやな」
 笑みさえ浮かべた御門はそう呟くと、すっかり古びたものへと変容した本へ、呑み込まれてしまった。



 切原赤也は、もはや何度目か知れない後悔をしていた。部活の練習に遅刻し、そして待ち構えている制裁を思い出し青ざめる様は、パブロフの犬さながら。
 あのゲームの「あと一時間」を堪えていれば、切原は遅刻するたびにそう頭を抱えるのだが、ゲームをやっている間に頭からそれが抜け落ちるのだから始末に負えない。さらに言えば、今日の部活が自主練習だと言うことさえ、彼はすっかり忘れている。

 切原が校門に差し掛かった辺りで、背後から何かに引き摺られそうになった。
「う、げっ」
 力強く首を捕まれたために、息苦しさが先立った切原だったが、その直後になにかふさふさとしたものに抱えられた。バシィ、という音の後に息苦しさは消えたが、ゲホゲホと咳き込んだ彼は、未だその正体が見えない。
「主に抗うでない、若輩の九十九神」
「き、狐?」
 響いた嗄れた声に、ようやく息を整えた切原が顔を上げると、そこには大きな狐がいた。慌てて辺りを見ると、どうやらふさふさしたものはその狐の白い体毛らしい。切原はその尾に守られるように抱えられていたのだ。
「おぬし、巻き込んですまんの」
 ぽかんとしていた切原だったが、その狐の言葉に我に返った。
「か、かっけえ!」
 目を輝かせた切原は、べたべたと狐の体を触る。元より単純な切原のこと、狐を先ほどの一件を救ってくれたヒーローのように考えたのだ。恐らく、妖孤だと分かっても漫画みたいだと騒ぎ立てるだろう。かたや撫で回されている狐、コンは本へちらりと視線を向けたが、しばらくは何もなさそうだったし、何かが起きても対処できる力があると自負しているため、まぁいいかと切原の好きなようにさせることにした。

 立海のグラウンドでは、テニス部が自主練習に励んでいた。定期テスト前であり、学校の決まりで本来ならば部活は休みとなるのだが、県大会が近いからという理由で自主練習ならばと許可が下りたのだ。文武両道を謳う立海だからこそ、テスト勉強をしたいという部員が多数いたことも、自主練習となった理由の一つだが。
 テニス部以外は部活をしていないため、グラウンドはいつもより閑散としている。さらにテニス部の自主練習はレギュラーを対象としていて、何人かはテスト勉強やガットの張り替えに行きたいなどの理由で不在ともなると余計に。
 そのおかげと言うべきかはわからないが、校舎から白い何かが校門へ飛んでいくのを、テニスコートにいた全員が目撃していた。嫌な予感がする、と呟いた柳生比呂士は真っ先に校門へ駆け出し、残りの真田弦一郎、柳蓮二もそれを追いかけた。
「珍しいのう、柳生が一番に動くんは」
 残った仁王雅治は、楽しげな笑みを浮かべながら、彼らをゆっくりと追いかけていった。



「切原くん……」
「あ、柳生先輩!こいつ超かっけえんす!」
 校門に真っ先に到着した柳生は、目の前の光景にがっくりと肩を落とした。切原が無邪気に、やたらと大きな狐と戯れている。彼はその状況が異質だと分かっているだろうか。柳生は眼鏡のブリッジを、ため息の後に押し上げた。
「切原くん、狐が困っていますよ」
 それと、と柳生は言葉を続ける。
「今日はテスト前で自主練習です。切原くんは自宅で勉強をするべきではありませんか?」
 切原は、ひとまず狐の体毛を手櫛で直してやってから、柳生の言葉を目を瞬きながら反芻した。その合間に柳生を追いかけてきた真田と柳、少し遅れて仁王がやって来る。集まってきたレギュラーを見渡して、切原はようやく間の抜けた声を上げた。
「えっ、今日自主練だったんすか?」
 その言葉に吹き出した仁王以外は、あきれ混じりのため息を吐くだけ。コンは彼らを知らないため、くああと欠伸を一つ漏らす。
 直後、真田の怒声が辺りにこだました。



「ぬしらも巻き込んですまなんだ」
 切原達は、男子テニス部の部室に集まっていた。コンは白い仔狐の姿になり、古びた本は部室の机に鎮座している。状況説明をしている間、コンは切原の膝の上で円くなっていたため、緊張感が三割ほど減った。
 すっかり色褪せた糸綴じの表紙には、やたら達筆な筆文字が流れるように鎮座している。柳生はそれをじっと眺めてから、コンに視線を移す。そのまま、何も言わない柳生を、仁王と柳は黙って見つめている。
「お前は、その主を護るために存在するわけではないのか」
「主は我より強いでの、我はただの使役なんじゃよ」
 コンは、すんと鼻を鳴らして尾を揺らす。尾を七つもつ妖狐よりも強い存在とは何なのか、誰にも見当がつかない。本の中にいるという話も、コンの存在も、俄には信じがたいもので事態を呑み込むので精一杯なのだ。切原だけは、漫画みたいだと目をキラキラ輝かせていたが。
 しん、と沈黙が漂う。それは緊張感にも似ていて、どうにも気まずい。
 何か言いたげな柳生も、ついに口を開かない。ただのしかかるような沈黙に耐えられなかった切原が、そわそわしはじめた。そんな彼の膝では落ち着けないと判断したコンは、ひょいと机に場所を変える。
「そういえば、その本は何故立海の蔵書に?」
 沈黙を破ったのは真田だった。コンを目で追い、机の上に視線が向かったことで、改めてその本が気になったようだ。
 糸綴じの製本がなされた本は立海の蔵書にはない。色褪せたような表紙や、流麗な筆で書かれた題字は、図書室に置くには勿体ないような歴史的価値があるのではと思わせる。私立中学よりも、歴史研究者や博物館に寄贈される方が自然なものだ。
「元々蔵書に姿を変えていたんじゃろうて」
「て言うかこの本何が書いてあるんすか?」
 誰かが止める間もなく、切原が本に手を伸ばした。お前では読めない可能性が高いと、彼を良く知る人間は思う。コンは止める意思はないようで、切原の手を眺めるだけだ。
 興味津々な切原の手が本に触れた途端、辺りに伸びたのはおびただしい数の禍々しさを湛えた手。ゲッ、と青ざめた切原どころか、全員が瞬く間にその手にしっかりと捕らえられて、引きずられた。


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