軋みだした歯車


 全く面倒だと、フィアメント・エイル・ラスティールは溜め息をついた。空に浮かぶ譜石が良く見える天気に誘われるように散歩に出ただけのはずが、フィアメントはなぜか見知らぬ男女数名と行動を共にする羽目になったのだから。そこが青空広がる地上ならば百歩譲って良しとしただろうに、そこは地上から随分下にある、障気という毒に近い空気溢れる魔界と呼ばれる場所である。そこをぽつんと航行する戦艦に、彼はいた。
 散歩コースにアクゼリュスを入れなければ良かったかと落胆こそすれ、フィアメントは崩落に巻き込まれた人々を案じたり、行動を共にしている彼らに文句をつけることはしない。そもそも、彼らとは話らしい話をしないうちにさっさと船室に放り込まれ、不穏な動きをすれば魔界の泥に放り込むと釘を刺されてから、彼は備え付けのベッドに寝転がっているのだ。
「全く面倒くさい」
 短い黒髪を枕に散らし、襟元に動物の毛をあしらった白いノースリーブコートに皺がつくことも気にせずに、フィアメントは寝返りを打った。コート以外、ノースリーブのインナーやズボンは髪の色と同じように黒く、軽金属の仕込まれたロングブーツと二の腕まで覆うグローブも同様だ。
 別に不穏な動きを見せて魔界の泥に放り込まれても構わなかったが、地上へ戻る足をみすみす逃す気はフィアメントにはない。疑念こそあれど、崩落に巻き込んだ相手を無慈悲に見捨てるような輩ではなかったことは、不幸中の幸いか。
「長い散歩になりそうだ」
 普段はあまり勘が当たらないフィアメントだが、何故かこの勘は当たると確信に似た思いを抱いた。彼の言う散歩は、一般人からすれば旅と同義のものだが。
 それにしても、とフィアメントは手を天井に向けて伸ばし、ぎゅうと握り込んだ。崩落に巻き込まれ、武器を紛失したのは痛い。それを痛感していた。丸腰でも、体術の心得はあるから問題はない。それは野党などの人間や、弱い魔物に対してのみ。この戦艦に乗り込んでいる人々をまとめて相手にするには分が悪いだろう。そんなことをするつもりはないが。
 あれこれ考えてもすぐに地上に戻れはしない。フィアメントは思考を中断させてゆっくりと瞼を下ろしていった。



 ふわふわとした浮遊感の後に、フィアメントの眼前にはどこか朧気な緑の草原が広がっていた。夢、と認識するより先に、風景と同じくぼんやりとした人影がわらわらと現れる。
 その内の一人が、フィアメントの手を掴む。そうして笑ったような気が彼はしたのだけれど、その顔もぼんやりとしていて、良く分からなかった。
『フィム、セレニア祭に間に合わなくなるぞ』
『ああ、そうだな』
 自然と、口が動く。そして表情も柔らかくなる。これは夢だと心のどこかで分かっていても、フィアメントはこの幸せな空間に居続けたかった。



 フッと目を覚ますと、フィアメントの眼前、ベッドの脇には穏やかに微笑む緑色の髪の少年がいた。儚く中性的な印象の彼を、フィアメントは知っているような気がしたが、寝起きの頭ではどうにも分からない。
「お目覚めですか?」
 その声に、フィアメントの背筋にヒヤリと冷たい汗が流れる。知っているも何も、面識がある人間に酷似していた。けれど穏やかな彼はその人物とは違うこともフィアメントは理解できたし、その冷や汗が嫌悪からではないことも分かっている。
「他の皆さんは?」
「魔界のユリアシティという街に接岸して、そこで休息を取っています」
「……貴方は、良いのですか?」
「ええ、僕は貴方と一度お話がしたかったので」
 ふと、少年が真剣な面持ちに変わり、それを見たフィアメントは体を起こして彼を見据えた。彼の知る少年とは違う柔らかい雰囲気に、その姿に、胸がジリジリと焼け付くように痛む。知っている姿は、それでも違いをフィアメントに突きつける。
「僕はローレライ教団の導師イオンです」
「フィアメント・エイル・ラスティールです、導師」
「フィアメント殿はもう分かっているのでしょう」
「……他言致しません」
 フィアメントは、イオンの困ったような笑みを捉えてしまえば、そう返すしか出来なかった。何か巨大な歯車が軋む音が、幻聴のようにフィアメントの耳を蝕む。この世界が、惑星が、大きな力に翻弄されていく予感がした。それは希望となるか否か、フィアメントには分からないけれど。
 ただ、イオンと関わったという現実は、フィアメントを力の渦中へと甘く優しく誘う。
 意図せず秘密を共有した二人は、それから些細な話題で雑談していた。それは優しく柔らかく、穏やかな夢に似ていて、フィアメントは小さな笑みを溢す。広大な自然に咲き乱れた、夜空に映える夜の花、セレニアのような優しさを、イオンは持っている。フィアメントは訳もなく泣き出したいような気分になった。
「イオン様!こんな所にいたんですかぁ」
 それを押し留めたのは甲高い少女の声と、船室の扉が開く音だった。普段のフィアメントならば不快感に舌打ちさえしていただろうが、今は彼女に感謝さえしたいと思う。イオンの側は嫌いではなく、むしろ柔らかい雰囲気が心地よい。けれど、だからこそ、その居心地の良さはフィアメントの奥底に埋もれた何かを、優しく引きずり出すのだ。
「アニス」
 イオンは少女に笑いかけるが、それはどちらかと言えば悪戯のバレた子供のようだった。黒髪をツインテールに纏めた少女は、ため息をつきながらも悪い気はしていないらしい。
「フィアメント殿、彼女は僕の守護役のアニスです」
「神託の盾騎士団、導師守護役、アニス・タトリン奏長です」
「フィアメント・ラスティールだ」
 にこり、と笑んだアニスの頭では、フィアメントがどうやらイオンにとって重要な人物らしく、ともすれば栄華極まりない身分の人間か、そうすると彼は玉の輿候補だと目まぐるしく想像が展開されている。それは結局想像でしかなく、フィアメントが元々根なし草と知ってアニスが落胆するまで、そう時間はかからなかった。
「ところでタトリン奏長。状況を簡単に教えて頂けるか」
「ええと、簡単に言うと、タルタロスってこの戦艦の名前だけど、タルタロスを記憶粒子で打ち上げて地上に戻るって策を検討してる所ですよ」
「そうか、礼を言う」
 多分今後が確定したらまた誰かが伝えに来ますよ、とアニスは付け加えた。それから、イオンとアニスは船室を後にし、そこにはフィアメントと共に横たわる静寂が残る。
「タルタロス、地を駆ける者か」
 これは陸艦かと目星をつけたが、フィアメントにとってそれはさして重要ではなかった。気を紛らせるための逃避に似ている、と彼は苦笑する。音素灯のチラチラと光る明かりは、それをただ黙って眺め続けていた。時折、フィアメントのアルトが響くだけのその部屋は、時の流れに置き去りにされたように思えた。




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