月夜


 セレニアの花咲く地で、静かに思い馳せるは誰が為か。ただ、月とセレニアの花の明かりに照らされた彼の背中は、酷く弱く、脆くも消え去ってしまいそうに思えて。そのまま彼を何処かへ連れ去ってしまわないでくれと、柄にもなくセレニアの花に願った。



 ノエルはアルビオールで夜の空を飛んでいた。普段ならばそこには幾つかの賑やかな声が響いているが、今は酷く静かだ。しかし彼女一人という訳でも、その賑やかな声の主達が眠っているという訳でもない。
「夜分に済まないな」
「いいえ、私も夜空を飛ぶのは好きですから」
 操舵するノエルの隣の席には、視界に広がる夜空より深く暗い髪をしたフィアメントが座っている。彼はいつも、席こそ違えどそうして静かにしていることが常で、ノエルとの会話は共に旅をしている仲間の中では一番少ないだろう。それでもアルビオールを降りるときには決まって彼女を労うフィアメントは、根がとても優しい。
 だから、今仲間たちが眠っているダアトで、フィアメントはまず遠回しな話をノエルに切り出した。整備だなんだで疲れてはいないかと。それから何度か言葉を交わしてから、フィアメントはようやく、気まずそうに顔をしかめながら、今からタタル渓谷まで飛んでもらえるかと本題を口にした。それをノエルは二つ返事で快諾し、今に至る。
 元々フィアメントは口数の少ない男だ。ついでに言えば、他人に何かを要求することも殆んどない。それは、以前なら他人を信用していないからだったかもしれないが、現在はそうではなく、単に要求する前に己の力で解決してしまうからである。まるで月や星の明かり無き闇のようなフィアメントの目は、このオールドラントの変遷を長く見続けているのだから、可不可の判断は容易いのかもしれない。
 嬉しかった、とノエルは思う。フィアメントが他人に頼ることもだが、アルビオールを夜間に操る技量があると、その腕を信頼してくれていると、言外ながら雄弁に語る彼の態度が。そうでなければ、彼はとうに仲間から一度離脱し、自力でタタル渓谷へ向かっていたに違いない。ノエルが視線を前方に向ければ、無言でも不満など感じないフィアメントの表情に並んで、自身の笑みが窓に映る。そのさらに先、彼やノエルの目に星の煌めきが流れるような速さで、アルビオールはタタル渓谷の入り口へ降りた。



 渋るノエルをどうにか言いくるめてダアトへ返したフィアメントは、闇深いタタル渓谷へと足を踏み入れた。昼間も魔物がいるが、明るく緑が溢れんばかりに輝き、せせらぐ水の音も心を穏やかにしてくれるような場所だ。今は梟や木菟の鳴き声などに加え、夜行性の動物や魔物が動いているのだろう、カサカサと草を揺らす音が響き、水の音はその不気味さを増長させている。
 フィアメントはその一帯の暗さをものともせず、渓谷のさらに奥にあるらしい彼の目的地へと足を進めていく。木に繁る葉の隙間から僅かに差し込む月光に照らされた彼の表情は、その光の淡さ故か物憂げに見える。自然の音、そこにフィアメントが草を踏み歩む音が重なろうと、渓谷は静けさも内包していた。



 結局皆お人好しなんだなと、アルビオールに乗り込んだガイは苦笑した。ダアトでの宿は男女別の部屋割りだった事が、現状をもたらしたに違いない。フィアメントが宿を抜け出した事に慌てて騒ぎ立てたのはルークだったし、それに便乗するように追いかける事を提案したのはナタリアだった。アニスやティアもそれに反論はしていなかったのだから、彼らと同じ考えだったのだろう。ジェイドとガイは、むしろフィアメントの事だから朝には戻って来ると思っていたので、ルーク達の勢いに半ば呆れていた。
 結局、ダアトの入り口でノエルからフィアメントをタタル渓谷へ送ってきたと言われ、ルーク達は追いかけると息巻いた。そうしてあれよあれよと言う間に、アルビオールは再び夜空を渓谷へ向けて飛ぶことになり、今に至る。
「しかし意外だな」
「何がですか?」
「旦那の事だから、待つ方が良いとか言うと思ったんだよ」
「言って聞くようならそうしたかもしれませんが」
 ガイは、ジェイドのその言葉になるほどとも思ったが、腑に落ちないとも思った。一歩引いた意見を告げてから、聞き入れなかったのだからと言うならまだしも、いつものジェイドらしくない気がしたのだ。
 そこでガイは、はたと気付く。ひょっとしたらジェイドも内心でフィアメントが心配なのではないかと。
 夜のタタル渓谷は、視界も悪く整備されている訳ではない。それに魔物もいるとなれば、昼間よりも危険な場所となる。いくらフィアメントが戦い慣れているとはいえ、視界が悪いのはマイナス要素だろう。無傷で戻ってくる保証はない。
 そういう意味の心配か、はたまたフィアメントが突発的な行動に出た事への心配か、ガイには分からないけれど、ジェイドも少なからず動揺しているんだろうと思うと、何となく微笑ましく思える。何だかんだ言いながら、ジェイドはフィアメントを己が自覚している以上に大切に思っている証拠だ。
 ガイは、己の少し複雑な気持ちに蓋をして、旦那も人の子だなあと内心で笑った。結局、ガイの思ったお人好しの枠には己も身を置いている。
 ガイはそんな考えに再び沸いた苦笑を紛らすかのように、アルビオールを操縦しているノエルへ声をかけた。
「悪いね、休みなく夜に操縦させて」
「いえ、皆さんのお役に立てて嬉しいですから」
「疲れたら遠慮なく言ってくれよ」
「はい、ありがとうございます」
 ノエルは何となくこうなるような気がしていた。フィアメントは彼が思うよりも、大切な仲間として認識されているのだから。そして、ガイの気遣いにフィアメントを連想して笑みを浮かべた。彼はタタル渓谷まで追いかける仲間達を、どんな表情で迎えるのだろうか、ノエルは先ほどより闇色濃い夜空を視界に入れて流れる星に思いを馳せた。



 タタル渓谷は、夜に咲く花であるセレニアの群生地だ。フィアメントはその場所に一人、立ち尽くしていた。淡く光るように見える花弁の海の奥には、月光を水面に湛えて波打つ海が広がっている。そこ一帯だけが静寂に包まれたような雰囲気の中、フィアメントはそっと祈りを捧げた。
『あと何度、見る事が叶うだろうな』
 答える者のない呟きは、静寂に吸い込まれた。永久にある訳ではない己の命が絶えた時、この日にある意味が消える事に、フィアメントは寂しさを覚えながらも仕方のないことだと言い聞かせた。これも抗えぬ星の記憶というものかと思いながら。
 フィアメントは、腰に下げていた酒のミニボトルに手をかけ、それを空に掲げてから蓋を開けて煽る。光を反射させる銀製のそれは所々が黒く焦げてしまっているが、彼はそれを消すつもりはない。本来の持ち主の迎えた結末まで、フィアメントは全てを余すことなく形見として残したいと思いながら。
「それで、貴公らは何故ここに」
 振り返れば、様子を伺っていたのだろうルーク達が見えた。隠れてはいなかったが、息を殺していたのだろう。フィアメントはため息をつきながら、見つかっちゃったなどと言いながら近づいてくる彼らを見る。
「皆お前が心配だったんだよ」
 ガイが微笑みながらフィアメントの肩を叩く。その皆というくくりには、ガイやジェイドも入っているのだろうか、フィアメントは問うでもなく考えた。答えなど聞けば分かるがそうしなかったのは、少なからずそうであったらと願う気持ちも彼にあったからだ。
 ガイは、夜空に負けずとも劣らぬ満開のセレニアにはしゃぐルーク達を注意すべくその場を離れてしまった。世話好きらしいなと、あまりはしゃぎすぎて落ちるなよという彼の声を聞いたフィアメントは口の端を持ち上げた。
 再び酒を呑もうかとボトルを掲げたところで、フィアメントに声がかかる。
「わざわざボトルまで準備して、一人酒ですか」
「これは感傷だ、全て」
 こうしてセレニアの花咲く地へ来たのも、普段使わずに持ち歩くだけのボトルを使うのも、一人酒を煽るのも、感傷という一言でフィアメントは纏めた。理由を語るつもりはないらしい彼だったが、ルーク達を仲間という枠に入れていないではない。
 ただ、彼らを落ち込ませたくなかったのだ。
 人間に奪われた者へ思い馳せているのだと知れば、ルーク達が表情を曇らせるだろうとはフィアメントも予想できた。それ故の気遣いからなる、彼なりの簡素な説明だったのだが、いかんせん言葉が足りない。それを受けたジェイドが僅か眉を寄せたことにフィアメントは気付かぬまま、セレニアの白銀に似た花弁が揺れる様を眺めていた。
「貴方はそうして、一族にまつわる全てを葬るつもりですか」
「そうなるのも摂理だ」
 そう答えたフィアメントの、その表情はなんだという言葉を、ジェイドは眼鏡のブリッジを押し上げることで呑み込んだ。あっさりと答えた筈だろうフィアメントは、今にも泣き出しそうに見えた。彼を淡く照らす月明かりと、酒で僅かに染まるその頬のせいだとジェイドは己に言い訳をしながら、ただ小さくそうですかと返す。
 いるかという言葉に次いで、ジェイドの視界には月に輝きを増した銀製のボトル。皆揃えど一人酒では味気無い、そう言ったフィアメントは穏やかに、きゃあきゃあと雑談するルーク達を見守っている。まるで彼らの辿る道全てを見通さんが如く。
「なかなか風流ですね」
 ジェイドが受け取ったボトルの口からは、ツンと酒の香りがした。口に入れれば苦味の後に甘さが残るそれは、彼が今まで飲んだ酒のどれよりもフィアメントにぴったりのような気がする。その味も、それに見合わぬ強さも。
「死者の残滓が還るなど、貴公には戯れ言だろうな」
「否定はしません」
 ボトルを受け取ったフィアメントは残りを一気に煽って、ただセレニアに近付くでもなくただずっとそれを眺めていて、ジェイドもそれきり口をつぐんだ。雑談の声の合間、風にそよぐセレニアと海の音が響くそこは、まるで侵せぬフィアメントの心の内に見える。
 らしくない考えを酒のせいにできたら楽だったろうかと、ジェイドはセレニアを見るフィアメントを眺めていた。

end.




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