愛は与えるものでしょう? | ナノ


愛は与えるものでしょう?


※シャークさんは普通にサラリーマン





その日は久しぶりに残業がなかった。定時で帰るのなんていつぶりだろう。疲れて重かった足取りも、今日ばかりは軽かった。
(ったく、毎日残業とか勘弁してほしいぜ。こっちは新婚だってのによ)
つい恨み言が出てしまう。仕事が嫌なわけじゃない。最近では上司からも働きぶりを認められて、プロジェクトをひとつ任される立場になった。充実した日々ではあるが、その仕事の多忙さが、凌牙の私生活を圧迫していた。
遊馬と結婚したのは数ヶ月前になる。念願の彼女との挙式に、凌牙だって甘い期待を抱いていた。朝、寝起きの悪い凌牙を起こしてもらったり、逆に遊馬をベッドの中に引きずり込んで軽いスキンシップを交わしたり、なるべく早く家に帰って二人の時間を大切にしたいと夢見ていた。けれど、結婚後すぐに一任されたプロジェクトの煩雑さから、いずれも叶うに至っていない。
朝は遊馬が起きる前に出勤するし、帰りだって夜中だ。連絡を入れれば起きて待っていてくれるが、時間が遅すぎて食事は一緒にできないし、疲れてそのまま寝に直行するのが大半だった。休日も仕事で潰れることが多い。
そりゃあ新婚なので、やるべきことはそれなりにしているが、世間一般の新婚夫婦から見て頻度はかなり低いだろう。無理ないこととはいえ、ろくに構ってやれず、遊馬に悪いと思っていた。
(だが、今日は……)
ようやく仕事に一区切りがついた。定時にオフィスを出ることができたし、休日出勤の振り替えで明日から休暇を取っていた。これでやっと羽を伸ばすことができる。専業主婦の遊馬はずっと家にいるし、存分に構い倒してやろうと考えていた。唇が弧を描く。
(今夜こそ遊馬を抱きてぇな)
随分ご無沙汰だったから、柔らかな肢体を心ゆくまで堪能したかった。定時で帰れたため時間は充分にある。明日だって寝坊を気にしなくていい。累積した疲労は感じるが、任された仕事をこなした充実感と達成感から、体は軽かった。
放りっぱなしだった遊馬に、ちゃんと愛情を伝えてやりたい。
遊馬は強い女だ。たとえ取り巻く状況が望んだものでなくとも、前に進もうとする意思を持っている。愚痴くらいはこぼすけれど、不本意な事態をいつまでも不本意なままで受け止めない。仕事が忙しいなら仕方ないと割り切って、少しでも二人の時間を持とうと努力してくれた。本心ではきっと寂しいだろうに、疲労を隠せない凌牙のために、笑顔を絶やさず労ってくれた。その気持ちに今度は凌牙が報いる番だ。
明かりのついた家を見上げると、心が弾んだ。待っている人がいるのは嬉しい。温かい思いを胸に宿して、我が家のドアを開いた。
「ただいま」
「おかえりー!」
リビングに続くドアの向こう側から明るい声が上がった。ぱたぱたと駆けてくる足音がする。平凡な幸せに感じ入りつつ、靴を脱いで振り返った。
そして凌牙は固まった。
「…………え」
目を疑った。突然視力が落ちたのでなければ、出迎えてくれた遊馬は、服を着ていないように見える。エプロンはつけているのだが、その下から素肌が覗いているのは気のせいだろうか。
「おかえり凌牙!今日もお疲れ様!食事にする?お風呂にする?それともわ・た・し?」
小首を傾げて放たれた台詞に、髪で隠れた耳が瞬く間に熱を持った。





凌牙がだいぶ参っている。
多忙な夫を、遊馬はとても案じていた。
仕事が忙しいのは仕方ない。大事な仕事を任されるなんて妻としても誇りに思うし、なるべく協力したかった。朝早く出勤する凌牙のため、夜の内に朝食を用意しておいたり、いつ帰ってきてもいいよう栄養バランスを考えて夕食を作った。眠気に負けて先に寝てしまうこともあったが、なるべく凌牙の帰宅を待つようにしていた。疲労を溜めている凌牙に少しでも安らいでほしくて、ベッドの布団はいつもお日様の匂いのする状態を維持するよう努めた。
けれど、それがどれだけの慰めになったのだろう。肉体的な疲労は遊馬にはどうしようもなくて、ぐったりと沈むように眠る凌牙を見ては気を揉んだ。
「どうしたら凌牙が元気になってくれるかなあ……」
昼間に立ち寄った実家で、口から零れた呟きを拾ったのは、父の一馬に会うため出入りしていたチャーリーだった。
「そりゃあ、旦那の前で脱げば一発さ。あっという間に元気になるだろうよ。あっはっは」
露骨な下ネタに頬が熱くなった。
「な、何言ってんだ!そういう元気じゃねえよ!」
「赤くなっちゃって可愛いねえ。けど性欲って馬鹿にできないんだぞ。疲れてると男は女の肌を求めるからなぁ。一種の生存本能だな。死ぬ前に子孫を残そうとするんだ。お前の旦那だって、夜はお盛んなんじゃないか?」
ニヤニヤ笑って揶揄するチャーリーを、強く睨み付けた。
「凌牙は本当に疲れてんだよ!んなことする気も起きねえくらい!」
「またまた、新婚なんだから照れなくたっていいだろー」
「嘘じゃねえよ。だから心配なんじゃん」
「……マジかよ」
笑みを引っ込めた彼は、真面目な顔で身を乗り出した。
「それはいけないぞ、遊馬。結婚早々にセックスレスなんて……!夫婦の危機だ!ここはお前が一肌脱いで、旦那を誘惑してやれ!」
「他人様の家でなに言ってんのよ、チャーリー!!」
いつの間にか背後にいた姉が鋭い拳を繰り出した。まともに食らったチャーリーは腹を押さえて蹲る。
「ぐっ……よ、容赦ないなぁ、明里……さすが黒帯だ……」
「もうっ!遊馬、チャーリーの言うことなんか真に受けなくていいんだからね」
「う、うん」
その場は頷いたものの、家に戻った遊馬は、凌牙からメールが来ているのに気付いて考え直した。チャーリーの提案も悪くないかもしれない。凌牙の仕事は今日で一区切り付くらしい。定時で帰れるという凌牙からのメールを見て、心が浮き上がった。明日から休暇ももらえると言うのなら、ゆっくり凌牙と仲良くできる。
「そうだよ。チャーリーじゃないけど、俺たち新婚なんだし、今しかできないことってあるよな」
疲れて帰ってきた旦那様を、今日は目一杯甘やかしてあげようと思った。あったかいご飯とお風呂はもちろん、遊馬も頑張るのだ。羞恥や躊躇いなんてかなぐり捨てて、凌牙に尽くそうと決心した。

「……で、これか」
夕飯の香りが漂うリビングに上がった凌牙は、ソファに脱いだスーツをかけると片手で額を覆った。呆れているようだった。溜息まで聞こえて、浮かれていた気持ちが徐々に萎んでいった。
「だって……新婚って言ったらこれだろ。お風呂にする?ご飯にする?それとも……ってやつ。一回やってみたかったんだ」
「裸エプロンもか?」
「これは凌牙を喜ばせようと思って。……でも、あまり好きじゃない?可愛くないか?」
裸エプロンは遊馬も勇気を出して実行したプランだった。本音を言えば恥ずかしい。前面はエプロンの生地で覆われているけれど、背中側は紐で結んでいるだけで、素肌が剥き出しの状態だ。下着もつけていないから股がスースーして心もとない。夫を驚かせるところまでは予定通りだったが、乗ってこないところを見ると引かれたようだ。
(失敗した……)
どうしようかと困っていると、口元を引き結んでいた凌牙が、ゆるゆると口角を上げた。
「いや?可愛いぜ。いきなりだったからびっくりしたが……悪くねえ」
「ほんと?」
「ああ」
腰に腕が回って抱き寄せられた。額に口付けが降ってくる。遊馬は静かに瞼を伏せた。続きを期待して心拍数が上昇していく。
すると突然、膝の後ろにも腕が回って横に持ち上げられて、瞠目した。
「えっ?なにっ?」
横抱きにされたままダイニングキッチンへ運ばれる。しっかり抱えてくれているので怖くないが、地肌に触れるシャツの感触がこそばゆかった。上着は脱いだが凌牙はワイシャツの第一ボタンを外しただけだ。対する遊馬はほぼ裸。改めて自分があられもない格好をしているのだと実感し、身を隠すように凌牙へ擦り寄った。
「いい匂いだな。シチューか」
キッチンのフローリングに足を下ろされた。火を消したコンロに置いた鍋の中を見やった彼は、おたまで掬うと直接口に運んだ。唇についたシチューを舐め取る赤い舌が見えて、どきっとする。
「懐かしい味がするな……牛乳の他にも何か入れたろ」
「ああ、醤油をちょっと隠し味で。ばあちゃんがよくやってたんだ。真似してみたんだけど、どう?」
「美味いぜ。……ほら」
再びシチューを口に含んだ凌牙が、そのまま口付けてきた。反射的に目を瞑る。開いた唇の間から甘い味を流し込まれ、喉を鳴らして嚥下した。シチューと一緒に侵入した舌が口腔をまさぐる。味覚を感じる舌同士を擦り合わせると、どこもかしこもシチューの味がして、口いっぱいに甘い香りが広がった。
「ふっ……あ……」
「ん……美味ぇだろ。今日のは自己採点で何点だ?」
「あ、味わう余裕なんてないよ……」
「なら、もう一回……」
「んっ……」
再び口移しで飲まされた。ぬるいシチューの熱と、舌の温度で口の中が熱くなる。首の後ろを支えられていたが、深く入り込もうとする凌牙に押されて頤が上がっていった。彼の背中に手を回して、シャツを掴む。一歩足を引くとシンクに当たって、ステンレス製のキッチンと凌牙の体に挟まれる格好になった。
「ぁっ……ま、待って。キッチンでするの……?」
ただの戯れか本気なのかは、触れ方でわかる。腰に回った手が遊馬のスイッチを入れようと不埒な動きをしていた。潤む視界で見上げると、目尻に口付けられた。
「せっかく裸エプロンしてくれたんだからな。キッチンで楽しんだほうが燃える」
「でも、疲れないか……?立ってするんだぞ?」
「キツかったらよっかかっていいぜ」
「ううん。俺じゃなくて凌牙がさ」
背中にしがみついていた手を離し、彼の頬に持っていった。目元に薄く隈が浮かんでいる。凌牙の疲労の濃さを物語っているようで心配だった。
「ベッドのほうが楽じゃねえ?なんなら、お、俺が、上になってもいいし……」
今日は凌牙に尽くすと決めた。いつも施される愛撫に翻弄されている遊馬だけど、頑張るつもりだ。自分の気持ちよさは二の次でいい。とにかく凌牙を労わってやりたかった。
目を細めた凌牙は、頬に触れる遊馬の手に自分のものを重ねると、手首にキスをした。
「魅力的な誘いだが、それはまた今度やってくれ。今はここで、お前を可愛がりてえ」
「っ……」
青い炎を映した瞳に、心臓が大きく波打った。愛情が触れたところから伝わってくる。
好きだ、と思った。目の前に立つ夫を、心の底から愛しく思った。
前々から凌牙とは気持ちの波長が合うと思っていた。遊馬がくっつきたいと考えている時は、たいてい凌牙もそうだったし、セックスに乗り気でない夜は凌牙も消極的で、おやすみのキスひとつで寝に入る。逆に激しく愛し合いたい時は凌牙も妙に熱っぽい目をしていて、盛り上がった。
今だって似た思いを胸に抱いているのだろう。遊馬が癒したいと願うように、凌牙もきっと慈しむことを望んでいる。仕事に振り回され、思うように触れ合えなかったのは双方同じだ。満たされたくて、求めて、求められる。重なる心に幸福を感じた。



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