逃げられるもんなら逃げてみな | ナノ


逃げられるもんなら逃げてみな


季節は冬に向かっているとは言え、真昼の晴天の空の下はまだ暖かい。
今日も凌牙と屋上で昼食をとった遊馬は、昼寝でもしたい気分になったが、凌牙がそれを許さなかった。
「シャークっ!近い、近いって!」
「近くしてんだよ。何度言っても分からねえみたいだからな。体に覚えさせるしかねえだろ」
「物騒なこと言うなよぉ!」
涙目になりながら、眼前に迫っている男を見上げる。押し返そうとしたが、逆にその手を握られてしまった。
「これは俺のだって言ったろ。他の奴にベタベタ触らせやがって……」
「ち、違うんだ!誤解だよ!」
改めて失敗したと思った。
屋上で昼を一緒にする関係上、ワンフロア下に教室がある凌牙が1年生の遊馬の階まで迎えに来る。ちょうどその時、遊馬はクラスメイトとわいわい手を取り合って騒いでいた。
教室のドアのところに凌牙の姿を見つけた時、遊馬は内心、げ、と叫んだ。凌牙は人前では口説かないし手も出さない。基本的にクールなポーカーフェイスだ。この時も、ちょっと眉を上げただけで何も言わなかったが、絶対後で追究されるんだろうと予感した。それは的中し、いつかのようにフェンスまで追い詰められている。
「シャークが怒るようなことじゃないんだって!」
「へえ?恋愛とか結婚とか、そんな話をしてた気がするが、俺の聞き間違いか?」
「え。聞こえてたの?」
「………どうやら本腰を入れて話さねえといけないみたいだな」
青い双眸が鋭く細まる。獰猛な気配に身の危険を感じ、遊馬は急いで告げた。
「違うんだ!誤解だって!あれは……手相を見てただけなんだ!!」
「……手相?」
ぴたり、と凌牙の動きが止まった。遊馬は何度も首を縦に振る。
「そう、手相!小鳥が手相占いの本を持ってきてたから、みんなで見てたんだよ!」
幼馴染みの少女は遊馬と違って女の子らしく、占いやまじないなどを好んで見る。朝のニュースである星座占いも欠かさずチェックしているようだ。遊馬は取り立てて興味はないけれど、目の前に本があれば気になるもので、クラスメイトと手相を見合って遊んでいた。そこをちょうど凌牙に目撃されたのだ。
「だからそんなに怒らないでくれよぉ」
目をつり上げた凌牙は迫力があって、ちょっと恐い。取られた左手を引き戻そうとしたが、しっかり握られて放してもらえなかった。
「手相ねぇ……いいけどよ。でも、他の男に触らせたことに変わりはねえよな?」
「え」
手を目線の高さまで持ち上げられ、ニヤリと笑った。
「俺にも触らせろ。それで勘弁してやるよ」
「えええええっ!?」
無茶苦茶な言い分だった。そもそも彼女の手を自分のもの扱いしているのは凌牙の勝手で、遊馬は承諾した覚えがない。
手の平の皺をなぞるように指の腹で擦られた。その動きに先日、教室に閉じ込められた時のことを思い出し、かっと頬が熱くなった。
「待って!お願いだから、ちょっと待って!!」
捕らえられた手の平ごと、凌牙の指を掴んで動きを止めさせた。すると今度は、もう一方の手がさらに重なり、手の甲を撫でられた。遊馬はピクリと瞼を震わせる。
凌牙に口説かれるようになって、一口に手を握ると言っても、ただの皮膚接触で終わらないものもあるのだと知った。凌牙の触れ方は強引だけれど慎重でもある。ただ手を重ねるのではなく、指先から手首に至るまで全ての部位を使い、遊馬の形を確かめるように動かす。手の表面どころかその内側を撫でられているような錯覚に陥り、落ち着かなかった。
「シャーク……!も、もうっ!やめてってば!」
「お前に拒否権あると思ってんのか?」
「シャークだってそんな権利ないだろ!お前は俺の、かかか彼氏じゃないんだぜ!?」
「いずれはそうなるんだからいいじゃねえか」
泰然と言ってのける凌牙に、遊馬は脱力してしまった。
「どうしてそう自信満々なんだよ……」
彼から向けられる気持ちに同じものを返したことはない。この調子で迫られ続ければ、いつか白旗を揚げそうな予感はするが、そのビジョンもあくまで根負けした形であって、凌牙に恋をするというものではなかった。そもそも、恋している自分が上手く思い描けない。
「ああーもうっ!」
左手どころか両手とも離してもらえなくなった遊馬は、半ばヤケになって、手の平を反転させ、凌牙の手を掴んだ。
「そんなに繋ぎたいなら俺から繋いでやるよ!手相でも見てやろうか!?」
挑むように視線を飛ばす。悪戯な指先を握り込むと、気圧されたらしい凌牙は目を瞬かせた。
「え、あ、ああ……」
今しがたの攻勢はどこへやら、一気に大人しくなる。乗り出していた身を引き、好き勝手に蠢いていた指も静かになった。自分から手を出すのはいいが、出されるのは意外だったのだろう。想定してなかった遊馬の行動に驚き、戸惑っているようだ。
(なんだ。可愛いところもあるじゃん)
口説いて迫る凌牙は大人っぽく映るが、手を握られてどきまぎしている姿は年相応の少年に見えた。何だかんだ言っても、凌牙はひとつ年が違うだけの男子中学生だ。異性との触れ合いに慣れているわけではないのだろう。
そう思ったら、ぐっと彼を身近に感じて、ちょっと嬉しくなった。
「さ、左手貸して。と言っても手相に詳しいわけじゃないから、大雑把なことしか分かんないけど」
生命線や感情線など名称は耳にしたことはあったが、どの皺がそうなのかつい先ほどまで知らなかった遊馬だ。小鳥がみんなの手相を見ながら、あれこれと解説してくれたところしか頭に入っていない。手の平に走る線をひとつひとつ指差しながら、分かる範囲のことを話した。
(……それにしても、キレーな手してるなあ……)
手相がどうというのではなく、手の形が綺麗だと思った。手の平が大きくて指が長い。デュエリストの手らしく、カードを傷めないように爪は短く整えられている。遊馬よりもひと回り大きな手は、ハンドクリームで手入れをしている女子でもあるまいに、皮膚はすべすべに潤っていて、触ると気持ちがよかった。
(この手が怖かったんだよな、俺……)
手相を見るついでに、まじまじと観察してみた。
この手に腕や肩を掴まれると、とても平静でいられなかった。今度は何をされるのかと心が怯み、伸ばされる手を警戒心をもって見ていた。
けど今は、以前より怖いと感じなくなっていた。
(だってこれは、守ってくれる手なんだ)
夜の学校から脱出する時、凌牙の腕の中で遊馬はそう感じた。彼女に怖い思いをさせるばかりでなく、いざという時は守ってくれる力強さがある。全体重を預けても倒れることなく支えてくれた腕には、頼もしい包容力を覚えた。
遊馬の記憶にあるうちで、そのような信頼を向けたことがあるのは父親だけだ。だから似てると言ったのだが、凌牙にはその意味がうまく伝わらなかったらしい。隙あらば手を出してくる彼に、途中で脱出を断念して力を抜くと、凌牙は喜ぶどころか複雑な表情になる。「俺は父親じゃねえ」と訴える彼に「そういう意味じゃない」と何度も説明しているが、遊馬も自分の感情をうまく言葉にすることができず、誤解を解けずにいた。

「…………とまあ、こんな感じ!わかった?」
大雑把に手相を占い、握っていた手を解いた。これで話も終わらすつもりだったが、凌牙に離れた手を追ってこられ、捕まえられてしまった。
「待てよ。これだけか?」
「他に何かある?」
「俺が聞いたのは恋愛とか結婚の話だったんだがな。その診断がまだだぜ?」
「うっ」
ぎくりと体を固くした。わざと避けて話を終わらせたのに凌牙は気付いていたらしい。
「さ、さあ?俺はそういうの興味ないし、あまり聞いてなかったからなあー」
「嘘つけ。目が泳いでるぜ」
「シャ、シャークの気のせいじゃねえ?」
「そうか。よっぽどお前にまずい相が出てるんだな。占いなんて興味なかったが、望みと同じ相が出てるとなると嬉しいぜ。運が味方してくれているうちに口説き落とすとするか」
「うわああああっ!ま、待って!勘弁してくれ!!」
凌牙が大人しくしていたのなんて僅かな時間だった。遊馬が握った手を離した途端に、今度は俺のターンだとばかりに迫ってくる。
遊馬は涙目になって言い募った。
「違う!そうじゃないんだ!恋が叶うとか叶わないとか、そんな難しいこと、素人の俺に分かるだけないだろ!?」
「じゃあ何を隠してるんだよ」
「そ、それは……その……ちょっと俺から言うのは気まずくって……」
言い淀む遊馬の手首を掴みつつ、凌牙はニヤリと口角を上げた。
「結婚線なら俺でも知ってるけどな」
「え」
「これだろ?小指と感情線の間にある短い線」
凌牙は遊馬の手首を掴んで軽く捻り、手の平を上に向けさせた。人差し指で短い一本の皺に触れる。
「結婚するまでに付き合う人数を表しているんじゃなかったか?」
「それは3本以上ある時だって。1、2本の時はそのまま結婚する回数らしいぜ」
「……そうなのか」
当てが外れたような表情になった。凌牙が言おうとしていたことはわかる。1本しかないなら遊馬の恋愛相手は自分だと主張するつもりでいたのだろう。凌牙の結婚線も1本しかなかった。けれど残念ながら、遊馬が躊躇っていたのはそれじゃない。
「なら恋愛線のほうか?さすがにどれか知らねえが……」
複雑に絡み合う皺を見ても、知識がなければ何がなんだか分からない。遊馬だって今日まで恋愛線という線があることを知らなかった。
「調べればわかることだから言うけど……これ」
凌牙の手の平にある斜めの皺を指差した。感情線と生命線にまたがり、親指へ向かって斜めに延びている線だ。
「ふーん。で、これがどうしたんだ?」
楽しげな凌牙からの問いかけに、遊馬は言葉に詰まった。頭では教えないほうがいいと分かっている。でも、何も言わずに凌牙が許してくれるとも思えない。
「答えねえなら体に聞くぜ」
案の定、掴んだ手を引き寄せられてしまった。空いた片腕が背中に回って体温が触れ合う。その熱に鼓動が速まった。一応押し返そうとしたが、逆に密着度が上がるだけだった。
やっぱりこうなるのか。遊馬はこっそりため息をついた。凌牙に何かあると気取られた以上、隠し通すのは無理だったのだ。渋々、口を開いた。
「恋愛線はさ……恋をしている時に出る線なんだって」
「へえ。それで?」
「……それだけ」
「は?」
見上げればすぐそこにある秀麗な顔が、怪訝なものに変わった。
「それだけ……?んなわけねえだろ。俺がお前に惚れてんのなんて分かりきってることじゃねえか。何を言い淀むことが……」
言いながら遊馬の手を見た凌牙は、はっと口を閉ざした。遊馬は申し訳なくて顔が上げられない。
(シャークのこと嫌いじゃない。好きなんだ。でも……)
恋じゃなかった。
初恋もまだの遊馬が未知の感情を断ずるのはおかしな話だが、毎日のように凌牙から目一杯の愛情をぶつけられるので、それと自分の気持ちとが同じでないことくらいは分かる。
手相にはそれがはっきりと表れていた。恋をしていると出来るという恋愛線。それが遊馬にはないのだ。
「その……ご、ごめん」
気まずくて後ろめたくて、どんな顔をしたらいいのか分からなかった。反応を見るのが怖くて面を伏せる。
凌牙は一生懸命口説いてくれている。恋から逃げの体をとる遊馬をひっ捕まえて、気持ちを伝え、幼い彼女の心を花開かせようと、たゆまぬ努力を続けていた。それが実を結ぶどころか萌芽してさえないことを知ったら、傷つくだろう。
しばし押し黙っていた凌牙が、細く長い息を吐いた。
「そういうことかよ……。まあ、薄々分かっちゃいたことだがな」
「うう……」
「なんでお前がヘコんでんだ。俺が一方的に口説いてるだけじゃねえか。こればっかりはどうしようもねえよ。俺がお前を好きな気持ちをやめられねえように、俺を好きになるのは強制できねえからな」
それに手相は変わる。人の気持ちが移ろうように、皮膚だって生きているのだ。これから先、凌牙に心惹かれないとも限らない。
「早く俺を好きになれ、遊馬」
手の平の上に唇が落とされた。柔らかな感触に驚いた遊馬は顔を上げる。
どくん、と心臓が跳ねた。
凌牙は穏やかな笑みを浮かべていた。優しく凪いだ眼差しに、心が引き寄せられる。魅入られたように凌牙の双眸から目が離せなくなった。穏やかな海の色をした瞳の奥に、燃えて揺れる炎を見た気がした。
「……俺が我慢できるうちにな」
再び唇が押し当てられた。上下で食むように柔らかい部分を愛撫される。口付けられた部分から凌牙の想いが染み込んでいくようだった。拒否すればいいと思うのに、奪われた手は逃げるどころか、与えられる刺激を甘受して小さく震えている。
俺のもの扱いされることに反発していた遊馬だが、本当に凌牙のものになってしまったように感じた。握られた手首から先が火照っている。彼の熱が移ったみたいだ。
「ッ……」
堪えるように目を瞑った遊馬は、親指と人差し指の間を軽く噛まれて仰天した。
「なっ……!」
自由にならなかった指先がやっと動いた。絡む指を振り払い、腕を胸に引き寄せる。
「ば、馬鹿!変態!ふっ普通、噛むかよ!?」
「ああ、つい……お前が逃げねえから」
「っ」
耳まで赤くなるのがわかった。掌の分だけでも凌牙の気持ちを受け入れてしまった気がして、急いで離れようと立ち上がる足に力を入れた。ところが、遊馬の行動を先読みしていた凌牙によって阻まれ、彼の膝の間に背中から抱きかかえられた。
「シャークっ!悪ふざけもいい加減にしてくれよ!」
「ふざけてねえよ。触ってたいだけだ」
「俺はぬいぐるみじゃないのに……!」
抱きたいから抱かれるなんてたまらない。心臓がいくつあっても足りないだろう。腰に巻きつく腕を叩くと、背後で笑い声を漏らしつつその手を重ねられた。手首より奥の前腕を撫でられ、ぞくりと肌が粟立った。
「あ……」
凌牙の熱が掌だけに留まらず、じわじわと腕を侵食していき、最後には心まで到達する――そんなイメージが湧き上がり、遊馬は動揺した。
本当に、いつか凌牙にサレンダーする日がくるのかもしれない。
ぼんやりと頭の中にあった画が鮮明な色をもって遊馬に迫った。先ほど甘く噛まれた部位も意識してしまい、ますます手先が熱を持つ。親指と人差し指の間は、恋愛線が浮き上がる場所だ。歯を立てられた通りに、凌牙によって恋する線を刻みつけられるのかもしれない。
「遊馬……」
甘く名前を囁かれて、彼女は身を固くした。
凌牙の腕の中はもう怖くない。逞しい包容力には安心感も覚える。けれど、素直に寄りかかるには、まだ少し時間が必要らしかった。



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