「…はっ…琴、ちゃん」
「…んっ……山吹さん…?」

最初は額だった。次にこめかみ。さらに次はまぶた。鼻先。頬。顎。首筋。指先。手首。腕。口元。そして最後に、唇に、本当に掠めるだけのキス。きょとんとしているうちに、片腕が頭に回され、ぐいっと体を寄せられる。琴が悲鳴をあげるより早く、再び唇を重ねた。

なんでこうなったんだろうかと、どこか朦朧とする頭で辿る。

たしか、帰宅してすぐだったか。
少し前から家に連れて来ていた琴の足に傷つけないようにと柔らかく丈夫な皮の枷をしたのが数日前。元々逃げる様子のない琴だったので、部屋の中なら自由にして待っててね、と出かけたのだ。力無く頷いたのを見て、満足げに部屋を出る。予定を済ませて足早に帰宅したのが数時間前だ。

がちゃん、という鍵の音に気がついたのか部屋から琴が顔を覗かせ、おかえりなさい、と言う。それが嬉しくて、悠里は上機嫌にただいま、と笑った。日が暮れて少したった時間で、部屋は明かりをつけなければ真っ暗に近かった。ぱちり。琴が電気を付ける。同時に、悠里を見てぞくりと背筋に冷たいものが走った。背を向けてたっていた。それだけだが、どこかぼーっと部屋にたつ姿は薄気味悪い。山吹さん、と名前を呼んで、やっとはっとしたように振り向いた。あ、と琴の視線が固まる。
「山吹さん、額…」
「あぁ…血?」
こくりと頷く。態とらしく痛い痛いと言いだした悠里は、一度洗面所のほうに姿を消した。水音。シャワーの音だ。出かけて来たばかりだから、少し汗ばんでいたようだ。幾らもしないで、違う服に着替えた髪が濡れた彼が姿を見せた。傷は浅く、すでに血は止まっているらしい。
「夕飯、何がいい?」
「えっ、あ…な、なんでもいいですよ」
じゃあ適当に作るかぁ、とキッチンへと向かう姿はすっかりいつも通りだと、琴は息をついた。というのも。先ほどシャワーへ向かう山吹の様子が可笑しかったのだ。口元を抑え、眉間にシワをよせた険しい表情。焦ってるようでそうではないし。やや目が虚ろで。そのくせ、ちらりと見えてしまった口元は、つり上がっていて。そう長い付き合いがあるわけではないが、しかし見たことが様子に、心底不安が湧き上がったのだ。
「琴ちやーん」
「は、はいっ」
ぼんやりと部屋の入口で立ち尽くしたままでいると、悠里がキッチンから顔を覗かせ、近づいてきた。慣れた手つきで足元に膝をつき、琴の足首から足枷を外す。
「今日はーオムライスだよ。嫌い?」「いえっ」「うちの弟直伝でさー唯一、僕のほうが得意なんだよ」「えっ、そうなんですか」
軽く会話しながらダイニングへと移動する。これまた慣れた様子で琴を席に着かせて、料理を並べた。悠里も席にすわり、他愛もない話をぽつぽつとして。食べ終わり、リビングでのんびりして…それで?

ごろごろと悠里が毛が長く触り心地のいいカーペットに転がった。片腕で頭を持ち上げた状態で、テレビの方を向く。琴がソファに座れば、と進言しても、気の抜けた返事が帰るだけで、諦めた。テレビを見ているわけでも無く、かちかちと携帯を弄る音がする。暫くすると、飽きたのか終わったのか、放り投げて、はぁーと深いため息をついた。ソファの上から見下ろしながら、そっと、琴は人しれず小さく決意を固め、口を開く。
「…あの、山吹さん」
「んー?」
ちょん、と肩口を引けば、横を向いていた悠里がごろりと仰向けになり、琴を見る。いささか顔に元気が無いようだが、なぁに、と極力優しい声をで聞き返すその様子はいつも通りだ。
「…あの」
怒らないで聞いてください、と琴が前置きをした。怪訝そうにしながら、軽く予想をつけて悠里も頷く。じっと琴は悠里から目を逸らさない。
「帰りたいです」
簡潔で分かりやすい要求だった。
「こんな、誘拐まがいなこと、やめません、か」
真剣な顔で琴はそう言った。悠里も同じ様な面持ちで、顔に手をあてがいながらあぁ、と小さく漏らす。沈黙。テレビもいつの間にか消され、しんとしていた。
「も、勿論、誰かな誘拐されてたとかは言いませんか、らっ!?」
弁明するように琴が一時の静けさをかき消したが、ひゃ、という小さい声ののち、今一度閉口した。悠里が琴の腕を掴み、引き寄せたのだ。突然の事で一瞬抵抗したが、余計にバランスを崩して琴は悠里の上にぼとりと落ちた。

すみません、と上から除けようとしたが、悠里が手を離す様子も無い。少し温かい悠里の体温が薄い衣服ごしに伝わる。どうしろというのか、と困っていれば、再び腕を引かれる。寝そべる悠里の上に倒れるような形になり、起き上がる前に両腕が回され、抱き締められる。
「……あ、あのっ…」
「…はぁ…こんなに、すぐそばにいるのにね」
「山吹さん?」
あまり筋肉がついているわけではないが、薄いと言い切るにはやや厚みがある胸板が頬にあたる。顔を動かす余裕も無く、身体ごしにややくぐもった声が耳に伝わる。不機嫌なわけではない。これは、落胆の声。
「帰りたい、かぁ」
「…はい」
「なんだかなぁ、折角ここまできたのに、残念な気持ちだけど…そっか。それが最初で最後の君の頼みかぁ…」
家に連れてきて、軟禁まがいなことをしている間、琴はおとなしくしていた。それこそ、ワガママを言うわけでもなく、淡々と、耐えていた。その琴からがやっと自分から口にした願いが解放だとは。やはり、と思うと同時に、どこか悔しいような、反抗したいような気持ちも大きくなる。ちらりと視線を下げれば、琴の頭が見えた。顔は見えない。だが、困惑してるだろうと分かるのだ。

不意に体の拘束が緩む。そろりと悠里の胸元に手を付き上体を起こした。顔をあげ、悠里の表情を伺おうとしたその時、油断した琴の両脇腹にするりと手が回された。
「ひゃっ!?」
「いやぁ、なかなかいい眺め」
くすぐったかったらしく、琴が声をあげる。その様子に先ほどまでの鬱鬱しい気持ちが静まり、かわりかなちょっとしたイタズラ心が首をもたげた。琴と悠里の目があう。口元が緩む。琴はさぁ、と顔を青くした。琴が逃げるより早く、悠里が脇腹をくすぐる。
「ちょ、やまっぶ、き、さんっや、ふ、やめっくす、くすぐった…!あは、はっやめっふふあはは!」
なかなかいい。悠里が楽しんでいるうちに、笑い過ぎて息が続かなくなってきた琴が涙目になりながら停止を訴える。
「ひぁ、山、ぶき、さ、やめ…」
力が抜けた琴の体重が両手にかかり、動きを止める。ゆっくりと悠里が手をどけると、くたりと疲れて肩で息をする琴が倒れてくる。
「いやぁ、よく効くね」
「はぁ…はぁ…山、吹さん…鬼…」
腕を床につき、少し上体を傾ける。やや酸欠気味な琴はぐたりと体を預けたままだ。顔が赤く息を荒くしている琴の暖かさがシャツ越しにじわりと侵食する。ちらりと、少し乱れた襟元から白い肌が見えてしまい、心音が乱れた。ちょうど密着していた琴の耳に聞こえていたようだ。急に早まる鼓動に、琴が顔をあげた。あぁ、なんて近い距離。
「山吹さ」
言い切らせまいとばかりに、悠里が額に唇を落とす。目を丸くしているうちに、次はこめかみに。さらに次はまぶた。鼻先。頬。顎。首筋。指先。手首。腕。口元…そして、冒頭に戻る。


「っ…ふ、やぁっ…」
「は…」

ちゅ、とわざとらしいリップ音をさせて、唇を離す。ぼんやりと悠里は、先ほどの酸素不足からすぐのことで、いまだ呼吸を整えられない琴を見る。その赤らんだ頬と、薄っすらと膜がかった瞳に、くらりと意識が歪む。息があがり、あつくなっているその頬に、気味が悪いほど優しく手を当て、上を向かせる。息がかかるほど近い。
「……いや?」
「っ…」
散々好き放題しておきながら、この男はなんて顔をしてるのだ。悪態のひとつでもついてやりたい。泣きたいのはこっちだ。なのに、なぜ。なぜ、あなたがそんなかおをしてるんだ。むしろしゃざいしろ。などと酸欠で纏まらない頭に次々と文句が浮かんでは、消えた。



近くて遠い心音に。
(なきそうなかおをしないで)



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会話判定によりSAN値回復。
そんなノリです。
SAN値回復してから困りだすドアホストーカー。

mae//tugi
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