とある何でもない日の昼休み。便所から教室への帰り道で、ドン、と胸元にあたる衝撃に歩みを止める。曲がり角でのことだった。
「前見ろやクソモブ!」
「……」
どうやら走ってきたらしく、俺にぶつかったあとバランスを崩して尻もちをついたモブ女を一瞥する。いや体幹クソかよ。俯いて髪が前に垂れているせいで顔や表情は見えなかったけれど、このモブは普通科であることが制服から推測できた。女は相変わらず座り込んでいる。
早く立てや邪魔くせえ。つか言われっぱなしかよ。謝るなり文句言うなりねえのかよ、なんて、心の中で悪態をついていたら「ケッ」と声に出てしまったようで、女の肩がびくりと震えた。今日はデクのせいで朝からイライラしていて、八つ当たりのようにもなってしまった。全員が自分のようにはっきり人に向かって思ってることを言える訳では無いことなんて分かっているのに。周りの目もあり居心地が悪く、女を放置することにした。大股で通り過ぎようとしたとき、ぐすっと鼻をすする音が聞こえて思わず立ち止まる。
クッッッッソめんどくせえ。
さて、どうしようか。予定通り放置しようと思ったけれど、泣かされたとかなんとかであとで騒がられるほうがめんどくさいことになる。女ってのは大袈裟に話を盛って周りに言いふらすから、変な噂がついて回るかもしれない。となると今ここでこの女をなんとかしなければ、と言い聞かす。たぶん、この時の俺はどうかしていたんだと思う。今考えてみれば、別にモブに何を言われたってどうでもいいし、無視しても良かったはずだ。でも、何故だかそうしなければならない気がしたのだ。
「オイ、」
声をかけるが相変わらず女は俯いたままで。このままじゃ埒が明かないと察した俺は、そいつの腕を掴んで無理矢理起こすことにした。
「いつまで座っとんだ」
「……っ」
「つか転んだくらいでベソベソ泣いてんじゃねえよ」
「な、」
「……あ?」
高いとはいえない俺の胸元にぶつかるくらいだから、身長はそれなりに小さかったようだ。ぼさぼさになった髪を整えた女は、ここでようやく俺を見上げる。目が合う。鼻をすすっていたのはやっぱり聞き間違いではなかったようで、うっすらと涙を浮かべていた。悲しくてとか、痛くてとか、そういう感じには見えなかったけれど。ビー玉みたいな丸い瞳がゆらゆらと揺れながらも、ちょうど窓ガラスから太陽の光が射し込んで、余計にキラキラと輝いているのが綺麗だと、柄にもなく見惚れてしまった、が。
「な、な、なななな生の爆豪勝己…!」
第一印象、なんだこいつ、キメェ。見惚れた数秒前の俺はきっとどうかしている。
「………怪我は」
「怪我はないですけど、生の爆豪さんがこんなに近くにいて心臓が痛いです!」
「ンな事聞いてねえんだよ!…泣いとったのは」
「ああ、あれは感激の涙です」
「はァ?」
「いつも遠くから眺めてました。体育祭も、文化祭も。廊下ですれ違うこともおこがましいと離れて見てたんですけど、まさかぶつかってしまうなんて。わたし、今日で死ぬんでしょうか」
「……知らねえわカス、勝手に死んどけ」
それなりのツラをしていると思ったが、口を開くと台無しである。恍惚とした表情を向けてくるこの女は、さっきまでのしおらしさはどこへ行ったのか、でかすぎる声で俺の魅力とやらを熱弁しはじめた。初めて見たのは体育祭よりずっと前からだから古参だとか、神野の時は心臓が止まると思ったとか、他にも色々あったけど、もうほとんど忘れた。古参ってなんだよアイドルかよ、つか別にそんなもん聞きたかねえんだが。
その熱が入った姿に、同じクラスに居るあのクソみたいな幼馴染を思い出して舌を打つ。好きなモンに対してテンションがあがって無駄に長ったらしく話すのは、どのナードも同じらしい。ナードの特徴なのだろう。
「その暴言も生で聞けるなんて…!もっと言ってもらえませんか?できればわたしに向けて、その、クソとか、カスとか、キメェとか」
「…………」
「はあ、その見下した目も最高」
普段は息を吐くようにぽんぽん出る言葉たちが乱暴なことは自覚しているけれど、どうやらこの女の前では暴言ではなくサービスになってしまうらしい。ドン引きすぎて鳥肌たった。逆に言わないように意識する俺の身にもなってほしいとすら思った。
「わたし、爆豪さんの一番最初のファンです!」
「あっそ」
「ずっと応援してます」
「すんな」
とんでもないもんと出会っちまったが、まあそれも今日だけだろうと腹を括る。応援って言ったって、こうやってぶつかってしまった今日が特例だっただけで、金輪際女と関わることはない。
「まァ泣き止んだなら良かったわ。今後は二度と関わってくんな。分かったな?」
「勿論です!」
「…物分りのいいナードだな」
「推しに迷惑はかけたくないので!」
「お…………」
推しとは?固まる俺を他所に「では!」と笑顔で走り去っていく女が見えなくなって、ようやく俺はまた教室に戻るために歩みを進めた。必然的に見送るみたいになってしまったのが癪である。
それにしても、モブの俺に対する態度や評価といえば、大抵はビビり散らすか、明らかな嫌悪感を向けてくるやつだった。それもそれでうざったいもんだと思っていたが、それがまさか、あんな奴も居たなんて。
「……二度と関わりたくねえな」
未だ鳥肌の立つ腕をさすっておく。モブ女の私物であろう生徒手帳が落ちているのにきづいたのは、その後だった。



みょうじなまえ。雄英高校普通科1年D組。生徒手帳にはへらりと胡散臭い笑みを貼り付けた顔写真が映っており、更に苛立ちを助長させる。
「クソ、なんで俺がァ………!」
あのモブ女がぶつかってきた昨日。あれでもう関わることはないと思っていたのに。ぶつかった拍子に落ちたのであろう生徒手帳を拾うことなく立ち去りやがったせいで、そのまま置いとく訳にも行かず、拾ってしまったわけだけど。
なんで俺がわざわざ時間を割いて教室の離れたD組まで赴いて忘れ物を届けなきゃいけないんだ。近付くにつれ憤りを感じるが、ポケットに突っ込んだ手をぎりっと握り締めることで何とかやり過ごす。「なんでヒーロー科のやつがここに…」なんてモブ共がコソコソと話している声が聞こえたが睨みつけると一瞬で静かになった。ビビるくらいなら最初から言うな。
「あれ、爆豪さん?」
背後から聞こえた声に足を止める。他の奴らの小さくて震えるような声とは違う、聞き覚えのあるはっきりとした、周りの声なんてかき消してしまうような、そんな。振り向くとやはり昨日の女で、目が合うなり頬を赤く染めて、それから一歩後ずさった。いや、なんでだよ。
「…わざとじゃねえよな?これ」
「へ」
「生徒手帳」
女に向かってぶん投げると慌ててキャッチし、中を確認して自分のものだと確認したようで。「だから無かったんだあ」呑気な声に、張り詰めていた周りの空気が和らいだ。見せ物じゃないからさっさとどっかに行って欲しい。
最初は、わざと落としたのかもしれないと思った。俺のことを推しだと言うくらいだから、俺との接点を無くさないためにわざと落としたのかもしれないと。でも、そうであってほしくなかった。だから確認しに来た。
「わざとってそんなまさか。迷惑かけちゃって申し訳ないと反省してるとこですよ。本当にごめんなさい」
項垂れる女を見て、本当にわざとじゃないんだろうなと思う。そういえば昨日も推しに迷惑かけたくないって言ってたっけ。
「やっぱり爆豪さんはヒーローですね」
「目の前に落ちてれば拾うだろ」
「本当にありがとうございます。爆豪さんが触った生徒手帳なんてもうこれ一生捨てられないです…!」
「なら一生留年しとけ」
相変わらず気持ち悪いことを言っている気がするけれど、それよりも、本当に大事そうに、嬉しそうに、たかが生徒手帳を胸に抱えて微笑むから。さっきまでのムシャクシャした気持ちだとか、わざわざここまで来ることへの苛立ちだとか、そういうのが全部消え失せて。ヒーローの本質ってきっとこういうもんなんだろうな、なんて、今更アホみたいなことを考えてしまうのだった。

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