短編 | ナノ
救いを拒む矜恃
胸が焦がれる感覚が随分前から続いている。
掬い上げる蜘蛛の糸はとうに焼き尽くされ、そもそもそんなものが存在したのかも覚えていない。手を伸ばさなかったわけではない。掴み取れなかったわけでもない。ただ濁る視界の中でその糸だけがノイズの様に存在を主張して。あまりにも辿った先が甘美で。
本当に、これが俺を掬い上げるのかと。
ーーーーー疑ってしまったのだ。
一瞬ちらりと姿を見せた糸は、俺の躊躇をあざ笑うかの様に掻き消えた。それだけだった。
おっさんの背中は広い。
彼とソファの間に入り込んですとんと収まり、指で背中をするりと撫でると振り返りはしないが声が返ってくる。視線が交わることは無いが、そんなことを気にする様な女々しい価値観も生憎持ち合わせていない。
「どうした?」
「……別に。なんとなく」
頬をぺたりとギルバートの背中につける。頭を預けて腕は前に回し緩く彼のYシャツを握り、体温を共有した。
鼻を擽るのは、スーツに染み付いたニコチンの薫り。重くどろりと肺に流れ込んでくるそれは、何処か空腹感に似た自分の中のからっぽな処を埋め尽くして行く。
ぎゅう、と締め付けられたような。満たされる感覚。
塗り潰される感覚といった方が正しいかもしれない。
つまらない挑戦者とのバトルよりもよっぽど身体が痺れる。肺一杯に吸い込んでゆっくりと吐けば妙な充足感に囚われ、軽く背中に擦り寄った。
「………仕事」
「もう少し待て、後30分もあれば終わる」
背中から直接耳に響いてくるギルバートの低い声にうっそりと目を伏せた。
視界を閉じたことにより鮮明になるのは他の感覚器官だ。確かに暖かい体温、鼻腔を擽る甘苦い毒、微かに聞こえる息遣いと衣擦れ、爪にひっかかるYシャツの感覚。堕落と言うに相応しい泥に嵌ったような倦怠感が心地いい。この男といる時の自分は何処か自分では無い様で、あれ程疎んでいた停滞すらも悪く無いかと考えてしまう程ーーーーーまあそれは彼の元を離れれば瞬く間に消え失せるあたかも幻影の様な気の迷いで、すぐに停滞に苛立つ本来の自分が自己主張激しく出てくるのだけれど。
「ーーーーああ。じゃあそれで。詳細は追って連絡しろ」
そうして暫く経った頃だろうか、ぶつりと電話を切って立ち上がる。俺はするりと腕の拘束を解いてギルバートの姿を目で追った。
重厚なマホガニー製のデスクの上、手帳になにやら走り書きをしたかと思えば直ぐにしまい込んでその瞳に俺を写す。
「やけに静かじゃねえか。ホラ、行くぞ」
「……電話中に静かにするくらいの常識は持ってるよ、あんたは俺を何だと思ってるわけ」
「面白ェませたクソ餓鬼」
「滅びろ」
悪口を叩きながら自分に伸びてくるおっさんの腕に抵抗はしない。軽々と抱え上げられて(俵担ぎにはもう慣れた)執務室の奥の扉へ。市にあるプライベートルームだ。
がちゃりと重い音を立て開いたドア。俺は少しばかり頭に血が昇りそうになりながら壁にあったタッチ式の照明を付けた。無駄に広い黒を基調とした部屋は無駄な物が殆ど存在せず、今は黒のカーテンで隠された窓とサイドテーブルの付いたキングサイズのベッド、小さな本棚、クローゼットと簡易なシャワールームに繋がる扉、ソファに小さなテーブル。それだけ。まあここはギルバートの部屋であっても自宅ではないので当然といえば当然か。
ぼすりと俺をベッドに投げ捨てたおっさんは首元を緩めネクタイを解く。ダークグレーの背広を脱いでネクタイと共にテーブルの上に放るとそのままベッドに腰掛けた。
因みに俺は投げ捨てられて大の字になったままである。
「ギルバート」
「何だ。憎まれ口は終わりか?」
「続けて欲しいなら続けてやろうか」
「御免蒙るな。そんな気分じゃねえ」
「奇遇だな、俺もだ」
飢餓感が拭えない。
満たされていく。塗り潰されていく。その感覚に間違いはない。ただ、絶望的なまでにその飢餓感に果てが見えないだけで。
視線は天井に向けたまま、指でギルバートのシャツを探り当てて握りしめる。くっと軽く手繰り寄せれば背を向けていた彼は此方を向いて俺の隣に横たわった。
ぎしりと軋むスプリング。
軋んだのはそれだけではないけれど。
「………口に出せ、クソ餓鬼」
背中にギルバートの腕が回ったかと思えば、次の瞬間俺の視界から部屋が消えた。
白いシャツ。覗く喉元。亜麻色の髪が視界をちらつき目線を上げれば無駄に造形の良い男の顔。抱き締められたことに特に驚きは無いが、腕まで巻き添えを食らったのが予想外だった。これだとギルの背中に腕が回せない。
頭上で小さくため息をつかれて眉を顰める。そんな様子を見てギルバートは呆れた様に目を合わせた。
「なに」
「珍しく甘えてきて『なに』はねえだろ。視線で強請るな、言え阿呆」
「……甘えて?俺が?は?」
「…自覚無いってどういうことだよ………」
意味判んねぇ、とまたため息をつかれ少しばかりいらっとする。意味不明なのはあんただおっさん。まあそのまま強く掻き抱かれて、そんな気持ちは呆気なく霧散したのだけれど。
気管の奥が焦がれる。じりじりと酷く。
ああでも苦しくて苦しくて、ぎしりぎしりと締め付けて。
悪く、ない。
ギルのシャツの襟あたりを掴んでぐいっと引き寄せ、降りて来た唇に自分のそれを重ねる。目を閉じる瞬間に見えた表情は少しばかりの驚きが現れていた。
べろりと口付けたその唇を舐める。苦いのか甘いのか良く解らない。ただ、慣れたその感触に少しばかり安堵した。舌先を端の方まで滑らせ狙って微笑めば、仕返しとばかりに噛み付く様に呼吸を奪われる。回数を重ねるごとにねちっこくなっていったのは気のせいではないだろう。年を取るというのも考えものだと、尽々思う。
「ん、んんっ……っは、ん」
上顎を丹念に舐められれば背筋がぞくぞくと痺れる。口内を好き勝手蹂躙する舌は熱く、歯列をなぞり、吐き出される筈だった吐息も、ねだるように絡めた自身の舌も、下らない思考も何もかも全て奪って行き、ああ、ああ、堪らない。これだからこの男は。
意識は段々朦朧としていく。息の仕方を知らない程子供じゃないが、行為に酔っている間はどうしても疎かになりがちだ。
それすら堪らないと思ってしまうのだから俺も大概か。
「(……くる、しい)」
呼吸か、心か。
どちらもかもしれない。
この感情に名前をつけるのはとうの昔に諦めた。つけることを、躊躇った。
お互いに、踏み込むことから目を逸らした。
離れれば焦がれ、寄り添えば足りず、お互い息を吐く暇も無く貪りあう。飢餓感が唯一拭えるのは、他に何も考えられなくなるほどドロドロに口付けて体を繋げる時だけ。
肺の底の焼ける感覚は一向に消えてくれない。
あまりにも俺が幼すぎた。
あまりにも彼は大人すぎた。
この感情の、名前なんて。
(はじめから、わかっているのに)
「っは、っ………、おい、あんた何処に手ェ突っ込んで………っ!」
「その気で来たんじゃねえのか?……てめえは大人しく啼いてろ」
「…ふざけっ………っあ、んっ」
服の奥、肌を直に弄る掌。節くれだった手。辿る軌跡は、俺の良く震える場所。明らかにその意思を持った手つきに荒く熱い息を吐いた。
耳の犯される感覚。
熱を含んだ低音が響いて、舌のなぞるくちゃりという音にぞくりと体がわなないた。
降参とばかりに体から力を抜き胸元に頬を寄せる。擦り寄った俺の行動に合意を知ったギルバートは、いっそ苦しいほどに強く俺を抱き締めた。
壊してしまえば楽になる。
渇く心を潤すのは、きっと呆れるまでの執着だろう。
「っあ、ん、ぎる、ぎるばーとっ…」
「…ふ」
身体が甘く痺れるほどに、焦がれる飢えは遠のいて。
代わりに、時折どうしようもなく泣きたくなる。
解っているのだ。
掬い上げる蜘蛛の糸に手を伸ばさなかったわけではない。掴み取れなかったわけでもない。
それが燃え尽きたのは、自分の所為だ。
目を逸らしたから。
まだ大丈夫だろうと、震える肩を抱き締め宥め目を瞑り、見えない振りをし続けた、これは罰だ。
彼の与える、飢餓感を満たしてくれる愛に甘えた。
気付いた時には、もう遅い。
「……っ、ふ、ぁ、あ」
「…良い、何も……考えるな」
その言葉は俺に言っているのか、自分に言い聞かせているのか。
どちらでも正しいのだろうけれど。
優しすぎる毒が身体を回る。
涙が頬を伝っているのに気付くのはいつも、おっさんが舌でそれを掬ってからだ。
「っあ、ぅ、」
今日も、溺れて行く
「ブラック…」
まるで先の見えない、全てが怠惰に止まった世界で
「(いとも、なまえも、いらない)」
どこまでも堕ちて行けば。
彼を、道連れに。
劣情は、救いを拒んだ。
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