短編 | ナノ
楽園の不在証明
カミサマなんて、居やしない。
天突く天突く天天突く、なんて。摩天楼の森であるこの街には皮肉にもならない。
力無く、おざなりに引いたカーテンの隙間から覗くブラックシティの空は鉛色に濁っていた。
「………。」
普段と変わらないはずの空気が何故か重たく感じるのはその色の所為だ。
どこまでも怠く、鈍く、冷たい。
雨の伝う窓にべたりと頬を押し付ける。冷たい。
部屋の生温い空調のきいた気温の中でそれだけがやけに現実味を帯びている。
その空を憎々しげに見つめていれば、ふと視界の隅に軽く漂う煙が見えた。
窓の外鈍く光る空と、窓の内で視界を濁す紫煙。
どちらが自分の気分を害しているかは正直、判断がつかない。
………雨は嫌いだ。
気圧の変化で頭は痛むし何より怠い。
世界中が水槽の中に沈み込んでいく。肺の中を噎せ返るような湿気が満たしていくのはじわりじわりと溺れていくようで気分が悪い。
少しずつ殺されていくような。
少しずつ、空気を奪われていくような。
そんな、感覚。
不意に、重く怠い声が鼓膜を鳴らした。
「風邪でもひきてェのか阿呆」
「………死ね」
隅にかろうじて見えていただけの紫煙がいつの間にか背後に回っていたのに気付き眉を潜めた。
背中のすぐ傍に感じる気配――――流石に、この距離になると息苦しいものがある。
「つーか起きたの?早いじゃんあんたにしては」
「………四時過ぎに寝てさっさと起きてるテメェが可笑しいんだろうが……年寄りでもねえのに……」
「世間一般的にはアンタの方が年寄りだよ。第一三・四時間は寝てるんだから大したこと無い」
おっさんの部屋に唯一ある窓。その近くに安楽椅子を引っ張って腰かけていた俺はギルバートの気配にも構わず深く腰を掛けなおした。
舌打ちの音が空気を鳴らす。じゅ、と煙草の火種を捩じり消す焼ける音と共に俺の耳に届いたのは、どこか不機嫌そうな男の声。
「ブラック」
「……だから、何。口喧嘩なら買うけど」
「ま、ある意味な」
温度のある厚い掌が顎を掬う。
撫ぜるようにして顔を上げられ、いつもより少し煙の薫りの濃い空気が俺の鼻腔を擽った一瞬の後―――同じ薫りが口の中に広がった。
目を細めて、薄く唇を開いて。
くちゃりと響く慣れた苦味に、うっそりと。
……大概俺を抱き枕か何かの様にして抱え込み寝付くこの男は、自分が起きた時に俺が腕の中にいないとどうも不機嫌になる。不機嫌というか何というか、眉を顰めこちらをじぃっと見つめ、その理不尽に強い腕力で俺を腕の中に閉じ込める。
その時の奴の腕の力の強さったらない。全く此方を加味しない、ぎりぎりと音のしかねない拘束だ。
穏やかな口調と裏腹に力の制御が利いてないらしいその間。
俺を抱きすくめて耳元、低音で呟く一瞬。心のどこかでそれを狙って、俺は俺を抱きしめるギルバートの腕の中から抜け出す。
きつく強く、抱きしめて。
涙が出るほど、ぎしりぎしりと心が軋むほど。
体の痛みを、違和感を、その腕の力の強さで誤魔化して。
「(………くだんね)」
………雨は嫌いだ。
頭は痛いし、溺れそうだし。
雨の音は世界を遠ざけて、外界と室内を隔てる。
閉じられた箱に閉じ込められた様な、そんな気分にさせられる。
小さな空間にいるだけなのに。
世界に二人しかいないような錯覚を起こす。
世界に二人しかいないような錯覚を魅せる。
そんな都合のいいこと、ある訳が無い。
窮屈な腕の中でほう、と息を吐いた。
苦しい、苦しい、苦しい。
どうしようもなく安心する。
喉の奥の詰まるような息苦しさが他の痛みで握りつぶされていく。
赤い実、罪の実、咎の実。喉に詰まらせた禁忌はこんな味をしているのだろうかなんて。
雨の苦しさも、胸の苦しさも、全て誤魔化してしまうこの傲慢さが好きだと思う。
「……くるしーんだけど」
「黙ってろ」
「……ぎる……ばーと」
くるしい、いたい。心地いい。
やめろ、はなせ、傍に居て。
どうかこのままで。
正反対の言葉と信号が頭の中でリフレインする。
……どうやら、俺もまだ寝惚けているようだ。
腕をその頬に伸ばして、若干乱暴気味に撫ぜた。
「…首痛え」
「ああ」
「肩ぎしぎし言ってる」
「ああ」
「息がし辛い」
「そうか」
「普通に腰痛い」
「だろうな」
「あと体制がそもそも辛い」
「………」
蜂蜜の蕩けたような色をした瞳と視線が交わる。
軽く引き寄せて、頬に口付けた。
「…だから」
「はやく、ベット連れてけよばか」
何も気にしないでいられる場所へ。
無知のふりを出来る場所へ。
禁忌を知らない場所へ。
彼の癖を知らないふりをする俺と。
そんな俺の意図を知らないふりをする彼と。
「………なら初めから動くんじゃねえよクソガキ」
「アンタが起きないのが悪いんだよおっさん」
掬い上げられた体の悲鳴は、苦い煙に飲み込まれる。
更に遠のく雨の音と曖昧になってゆく外界の冷たさの中で、
その腕の温度だけが確かだった。
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