翌日、彼はなんとも申し訳なさそうに眉を顰めながらこちらを見て言った。ぼくは未だに眠気が強烈に脳にこびり付いてしまっているせいで、そんな彼を見たって大きな欠伸しか出ない。
「わたくしは、本当に世話になってもよろしいのですか」
「きみが他に行く宛てがあるのなら、そちらに行けばよろしいと思うけれど」
そんなところなど無いことを承知で告げればグッと押し黙ったものだから、ぼくはなんて大人げの無い生物なんだろうかとおもう。青白い顔は時間の流れとともに同じだけ彼の目を覚まさせているのだ。どうせならば、このまま帰ってくれても良い。こう見えて情にあついと自負している自分のものとは思えない考えがおかしくって笑いそうになる。なんだってこんなに意地の悪いことを言ってしまったのだろうか。そうだ、彼はぼくの、弟であるのに。窓の外を雪が流れるように滑り落ちていった。それを見つめながら、ぼくは菜箸でぐるりと鍋のなかをかき混ぜた。スパゲティーの群れがウヨウヨと泳いでいた。
「なんにせよ、迷惑だなんて言うつもりないんだ。やけに広い家を持て余して住んでいるからね。ひどいことを言ってごめんよ」
彼は返事をせず、ただ膝を抱えて座っている。どこを見ているのかとこっそりと視線を辿ってもぼくには何の変哲もない壁があるようにしか見えない。ぼくがスパゲティーを茹でている7分の間考えていたのは、彼に幽霊が見える能力だとかが備わっていないといいんだけれど、ということだった。


ミートソース・スパゲティーとオニオンスープを食した我々は、車を二時間ほど走らせてわりと発展した村まで行き、こぢんまりとしたスーパーで生活用品を購入しようとしていた。彼は難しい顔をしたままに先を歩くぼくの背中を見ている。カートの中に入れていくそのどれもこれもが適当だった。「なにか食べたいものはあるかい?」と聞けば、「それよりも身の丈にあった服が欲しいです」と返されてしまい、どう返事をしたらよいのか分からなくなってしまう。ズボンの裾を巻くって穿く彼の姿はその堅苦しい印象をどこか柔らかく見せて、ぼくは好きだけれど、そんなことを伝えたところでどうなるものでもない。それなら帰りに服屋に寄ろうかと提案したぼくに、彼は無愛想に礼をした。二人分の食事量がよくわからないまま、もしも足りなかったらまた買いに来れば良いかなどと考えながらレジを通り、袋に食料やらなにやらを詰め込む。そうして二人とも両手一杯にそれらを抱えながら車まで歩いていると、ふと彼が笑った。
「すこし、買いすぎではないですか」
「そうかな?」
「そんなに食べるように見えますか」
「ちっとも」
今まで、二人でごはんを食べたことがないんだ、と言いそうになって、思いとどまった。それこそ話してどうにかなるものじゃない。それでもやっと笑顔を見せた弟に、心が温まっていく。なんだ笑えるんじゃないか、と言えばぽかんと口を開け、少しだけ恥ずかしそうに顔を逸らされた。積もりに積もった道路脇の雪が遥か頭上で太陽の光を浴びてギラギラと輝いていた。









「あら、久しぶりね」
「やあカミツレ」
いつきてもぼろ雑巾のような店の奥、レジカウンターの向こうで椅子に腰掛けタバコを口に咥えたままそう言った彼女は相変わらず絶世の美女であった。ざっくりと編まれた緑色のニットのセーターの下に清潔なホワイトシャツを着ている。なにかの虫のように大きなサングラスとマットな赤い口紅がよく似合っている。浮き出た鎖骨に暗い影が落ちて、頭のうえで切れかけた裸電球がチカチカと瞬いている。この雰囲気が余計に店を近寄りがたいものにさせているんだよと忠言したこともあったなと思いつつ、それが全く彼女に受け入れられなかったことを表していた。変にこどもっぽいところがある彼女だ。変わりが無くてなにより、と言ったぼくなど眼中にないらしく、ぼくの後ろに背後霊のように立っている彼をなんとも興味深げに見つめると、むしろ我が弟のほうが畏まってしまっているようだ。
「あなたがお客さん連れてきてくれるなんて珍しいじゃない。おともだち?」
「あ、い、いえ、わたくしは、」
「弟なんだ。どうか彼に似合うよう見立ててやってくれないかな」
「弟?ふーん、いいわよ、暇だもの」
ふうとタバコの煙を吐いたカミツレはある種の哀れみを含んだ笑みをぼくに投げてよこした。そんな目で見なくたって分かってる。そう言ってやりたかったけれど、ぼくは何も喧嘩をしにここを訪れたわけじゃあないし、さっさと帰りたかった。雪のように白く滑らかな手が彼の手を引いて、するりと連れて行ってしまうと、嗅ぎ慣れたフィリップモリスだけがそこに残ったきり、このぼろ雑巾のような店で独りぼっちになってしまった。ずいぶん前にやめたはずのタバコを、もう一度だけ吸いたくなってあたりを見回す。無数の服がそこらに吊るされて窮屈そうにしている。目が回りそうだとおもった。
カミツレの趣味は良い。古くからの付き合いの彼女の、なによりも素晴らしい点はその美貌とセンスの良さだと言っても過言ではないと思っている。それはもう気が遠くなるほどの昔のことだ。出会いがどうだったかなんてもう忘れてしまった。つりあがったアーモンドの芸術的な瞳の様子を思い返しながら、いくらでも綿密に作り上げることが出来るタバコの味を考える。そうしていないと朝食が胃の中で暴れまわってしまうのだ。
美しいショートの金髪は白い肌によく似合った。あれはずっと前から白いんだ。サングラスだって日の光がいやだからかけているだけだし、人とかかわるのがいやだからこんなふうに客の来ないようなアパレル経営をしている。愛想もない。しかしそんな彼女を求めて愛を囁くような輩がどれだけいるだろうか、辺鄙な田舎に似つかわしくない高級車はいつだってこの店の前で止まり、そうしてすごすごと帰っていく。つまり、カミツレは、とても良い女だった。今頃我が弟は初めて見るほんものの美しい女性に圧倒され動揺し、ろくになにも言えず、口を重くしていることだろう。ぼくはどうだっただろうか、ああ、思い出そうとすればするほど、するりするりとそれは遠ざかっていった。そんなもののことなど忘れてしまえと、脳がそう言っているようだった。けれど残念ながら、そうやすやすと忘れてよいものなんかじゃあない。ぼくは、今までにあまり胸を張れるようなことはしてこなかったけれど、これだけはどうしたって変えられない。カミツレも同じことを思ったのだろう、先ほどの笑みは、それだけ美しい笑みだった。









「似合いますでしょうか」
「うんうん、よく似合うよ。とても、素敵さ」
そう言ったぼくの脳裏にちらと過ぎったのは、なんとも強気な「当たり前でしょわたしが選んだんだもの」という言葉だ。頬にキスをして手を振ると客を入り口まで送ることもせず、元の通りに椅子に座ってタバコを吸うカミツレに彼はいろいろと思うところがあるらしかったけれど、こうして二人で車に乗り込んでもなにも聞いて来ない程度には謙虚だ。もっと首を突っ込んでくれてかまわないのに、とおもう。なにせ我々は兄弟なのだ。カミツレに見繕ってもらった彼はとても素敵に変身した。適当に切った彼の髪すら見かねて整えてくれたのだから、そこら辺もひとに思われるところなんだろうかと考える。山のように買わされたけれど、その殆どはぼくが着たってなんら問題がなさそうなものだった。綺麗に櫛の入れられた髪は7対3で分かれ、マネキンのような額を露わにしている。シートベルトを締めるその掌の骨張っているのが、なんだかよいなと思った。
「綺麗だよね、彼女」
「ああ、はい、とても。カミツレさん、でしたっけ」
「うん。ともだちなんだ」
「そうなんですか」
「付き合っているのかとおもった?」
「はい」
「よく言われるよ。刺されかけたこともある。でも、ぼくらはそんなんじゃないんだ。彼女はね、アーティさんが好きなんだよ」
「アーティさん?」
「車に乗ってた、」
「ああ、あの人。モデルのようでしたけれど」
「画家だよ。ぼくの家の一番近くに住んでる」
なら今度、また会うことにもなるんですかね、と言った彼にぼくは微笑んだきり、なにも返さなかった。実はアーティさんはハチクさんと付き合っていて同棲しているんだとか、それを知っても彼女がアーティさんを諦められないんだとか、彼女とぼくがどれだけ昔からの付き合いか忘れてしまったんだとか、言いたいことは山ほどあったけれど、言わないほうがいいような気もした。雪の上をゆっくりと走り出した車は絶滅しかけの恐竜のように鈍く、彼がこっそりと欠伸をしているのがわかる。寝ていていいよというと、そんなわけにはと姿勢を正した彼に、フフと笑ってしまった。こんなふうに助手席に誰かを乗せたのは初めてだった。カミツレは今こうしているぼくを見てなにを思ったのだろう。来るはずの無い客を、灰皿を吸殻でいっぱいにしながら待ち続けている彼女。


太陽の反射が眩しくて目を細める。すると隣に座る彼が遠慮がちに「泣いているんですか」とたずねてくるものだからぼくは驚いてしまった。なんだって泣いているように見えたのだろう。
「泣いてはいないな」
「けれど、辛そうですよ」
「そうか。そうだね」
ぼくはつらいのだろうか。ぼんやりと考えていると、相変わらずゆっくりと前進していく車のことなどぼくは忘れてしまった。優しい緑色と目を刺す赤色が揺れている。
「きみがいるから、つらくなんかないよ」
「…わたくしが女性でしたら、よかったんですけれど」
「嫌だよ。無愛想すぎるもの」
「こちらからだってご遠慮願いたいです」
ただ単純にそう思ってるらしい彼に、ぼくは今度こそ大きなくちを開けて笑ってしまった。彼が驚いてこちらを眺めていたって、笑いすぎて涙が出たって、何故だかとまらなかったのだ。










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