空が白んできたころに、よれよれのスーツを着た彼がやっと帰ってきた。すっかり必要不可欠となった老眼鏡もそのままに、玄関のほうへと目を向けていると、遽しい物音を立てながらもぼさぼさの髪を余計に掻き回して、さらに目の下に隈をつくったひどい形相の姿が見えた。いつだって気の抜けた顔をしている筈の彼は一目見れば明らかなほど疲れきっている。それもそうだ。彼はその気難しい性格ゆえに「ひとと同じ」であることを諦めたのだ。確かに彼には画の才能があったが、それは所謂後付論に過ぎなかった。つまり何が言いたいのかというと、彼は人付き合いがひどく苦手な人種であるということだ。
「ただいま、です〜、…あ、ハチクさん老眼鏡なんて、おじさんみたいだなあ」
「みたい、ではなく、事実そうだ」
「あはは、拗ねちゃやですよ。ぼく好きですよ、老眼鏡をかけたハチクさんって」
青白い顔に向かい、「いいから早く風呂に入って来い」と下着と着替えを投げ渡してやると彼はそのまま顔で受け止め、床に落下したそれらを身を屈めて拾うとなんとも力の抜けた笑みを残してよろよろと風呂場へと向かった。見ているこちらの方がつらくなるほどの疲労を内に溜めた彼はもしやバスタブの中で眠ってしまうのじゃないかと心配にさせた。重たい腰を上げ、様子を見に行くと案の定彼はシャワーを出しっぱなしにしたまま、壁にもたれ掛かり目を瞑っていた。眠っているのだろうか。思案に暮れながらも腕を伸ばしシャワーコックを捻る。キュッと鳴った無機質な高音に、その垂れた瞳をゆっくりと開いた彼はすぐ側に立っているわたしを不思議そうに眺めている。
「あれ、どうしたんですか…まさか、今からとか言わないですね」
「疲れ果てているのなら風呂に入らずに寝ろ。きみは危機管理能力が致命的に欠けているな」
「いやでも…もしものことがあったらね、汚いままじゃイヤでしょうから」
大きな口を開けて欠伸をした彼の額を小突く。わたしが、明け方になってようやく帰ってきたような恋人にそんな無理強いをさせるような男に見えるのだろうか。いや、そういう目で見ていると思われているだけ幸せなのだろうか。少なくともこの世界で誰よりも彼から思われているのはわたしなのだ。そう考えると、急にこの状況を意識しだしてしまった自分が情けなくなった。いい加減にしろ、落ち着け。何度もその言葉を繰り返しながら、温い体温を持った彼の体をタオルで綺麗に拭くと、申し訳ないが裸のままに抱き上げ、そうしてベッドまで連れて行った。そこで寝巻きを着せ、一安心する。これでわたしは最低の男にならずに済んだ。そんな安心だった。彼相手でなければこんなにバカな考えを持つこともないというのに、全く、なんだってこうなってしまうのか。もしものこと、そう言った瞬間の彼がいやに艶やかであったのがいけないのだと責任転嫁をしてため息をつく。客観的に見て、おまけをしても、今の自分は到底格好良い大人とは言えなかった。しかしベッドに身を沈めた彼はなにも気にせず、健やかな寝息を立てるばかりで、ほんの少しだけ燻った欲望に見て見ぬ振りをすると胸を撫で下ろす。ここまで彼に安息を齎すことができる人間が他にいようか、いや、いまい。彼のことになると、わたしはやはり阿呆になってしまうようだった。


アーティがこんなにも疲れているのは、簡単に言えば人付き合いゆえだった。近々大きな美術館で個展を開くらしい彼はその挨拶回りに神経をすり減らして、参ってしまっている。そもそも人とどうやって関わりを持ったらよいのか分からないような男が、決して自分から相手に話しかけることのない男が、よくも知らない役所の人間やら近隣の人間やら、マスコミに対して自分から声をかけることがどれだけ大変であるか、世間の者たちは知らない。ずっと昔に彼はわたしにこう言ったことがある。
「そりゃ絵書くの、好きですけれど、ぼくはパイロットにだってなりたかったし、他にも言い出したら切りがないんです。でもね、絶対にムリだなってこともよく分かってたんですよ」
「ぼくはヒトが苦手なんです。なにを考えているか分からなくて、目の前に知らないヒトがいるととても緊張するし、手なんかびちゃびちゃになっちゃって。なにを話したらよいのかも分からなくって、とにかくダメなんですよ、ほんとうに。ぼくが緊張せず話せるのって、極わずかなヒトの前でだけなんです」
彼はその間、ずっとわたしの目を見つめていた。若草色の瞳が穏やかな月明かりを受けて不安定に揺れている。ずっと昔のことのように思えた。彼はまだ売れたばかりの頃で、わたしもその時にはジムリーダーを続けていた。アーティはその人懐こい外見とは裏腹に今まで、ひどく怯えて生きてきたようであった。彼の人間不信に理由はなく、その性格にもなにか特別なことが関係しているわけではないようだった。珍しく雪の降らない夜、セッカの星空の下で、彼は誰にも話したことがないというその話を終えると、少しだけ泣いた。恐ろしく透き通った夜、わたしは初めて彼を抱いた。なにも考えることができないままに、ただこの繊細な命を守りたいという勝手な想いだけで、何も知らない彼を抱いたのだ。やっと二十歳を越したばかりというアーティの体は実に心地よくわたしを包み込んだ。今おもえば、初めての行為に呼吸すらままならなかった彼は必死にわたしを許していたのだ。


気が付くと、彼の体に覆いかぶさるようにしてわたしは眠りについていたようだった。ハッとして体を退かすと、とうに目を覚ましていた彼と目が合う。相変わらず穏やかな若草色。ガラス細工のように繊細で、しかし、陽の光をキラキラと輝かせている。単純にあまりにも綺麗で、息を呑んだ。
「おはようございます」
「ああ、その、済まないな。重かっただろう」
「少しね。まあでも、そのおかげでぼくはゆっくり休めましたよ」
悪戯っぽく笑う彼から目を背け、照れた顔を見られぬようにしていると、彼はフフと笑ってわたしに抱きついた。ひどい怖がりの人見知りでいるくせに、好きになったらとことん甘えてくるきみが愛しくてたまらないと言ったなら、どんな反応をするだろうか。
「ねえ、ハチクさん。二人で朝を迎えるのって、とっても久しぶりですね」
「もう昼じゃないか」
壁掛け時計は十二時を僅かに過ぎた時刻を示している。
「んぅ、つれないなあ…」
「先に顔を洗ってきなさい。昼食をとったらすぐに家を出るからな」
「じゃあ、キスしてください」
なんとも可愛いことを言ってのけた彼は目を瞑ってこちらを向いている。これに応えなければ彼はきっと今日一日機嫌が悪いだろう。わたしは観念をしてキスをした。
「えへへ、ありがとうございます」
嬉しそうな顔をして、ベッドから降りると軽い足取りで部屋を出ていった彼にわたしはため息を付かざるをえなかった。昨日わたしが告げた、危機管理能力の欠如について、彼はなにも考えていないのか、はたまたわたしだからと気を抜いているのか。再びの燻りを感じ、わたしにはもはや苦笑しかできなかった。
今日は一月も前から予定を合わせ、なんとか休日をこじ開けた一日だった。前々から観たかった映画を観に行く予定であり、夜には恐ろしく高いレストランで食事をとることになっている。ともに過ごす一日をだらだらと過ごすわけにはいくまい。何のためにしごとの期日を早め、自分に鞭打ってきたのか。彼だって、相当に疲れてしまうことを承知でスケジュールに穴を開けたのだ。わたしだけの休日ではない。そのことを肝に銘じると昼食の準備を始め、そうして簡単なサラダを作り紅茶を淹れるとパンを二枚焼いた。わたしと彼は元から少食であるから、これだけで十分であるのだ。自分の分のコーヒーを淹れていると、ずいぶんとサッパリとした顔をしたアーティが戻ってきた。
「わあ、ありがとうございます」
「いや構わないよ」
柔らかな笑みを浮かべた彼が向かいに座ると、そのまま二人でそれらを口にした。うっすらと残った隈を眺めていると、これが正しいことなのかわからなくなってくる。彼を連れ回してしまって良いのだろうか。疲れが取れないでいる様子の恋人に、わたしの考えはひどく独り善がりな、辛いもののように思わせた。そんなわたしの曇った表情に気がついたアーティがこちらを覗き込むようにして見つめてくる。遠慮がちな上目遣い。その全てが計算なのだから、彼は人が苦手な割にはとても駆け引きが上手と言えた。何度それに騙されたことか。
「ハチクさん、悩み事ですかあ」
「きみが疲れているようだから、家で休んでいたほうが良いのかもしれないと思ってね」
「なに言ってんですか、今日はせっかく二人で休みもあわせて、どっか行こうって計画してたんじゃないですか。大丈夫ですよ、ぼく若いし」
「…そうか」
「あ、でもハチクさんも若いとおもいますよ。年齢のわりには」
「一言余計だ」
調子に乗るな、と再び頭を小突けば彼はまた上目遣いでこちらを眺めた。これをされるとわたしが何も言えなくなってしまうことを知っているのだ。ああ、昔はあんなにも純粋で可愛らしく、何をするにも顔を赤くしていた恋人がいまやこんなことになっているとは(その美しさとある意味で純粋なところはそのままだが)、過去の自分が知ればなんというだろう。時の流れとは恐ろしいものだと考えながらも、これだけ元気ならばと胸を撫で下ろす。彼はふつうに平気だと言ったところでわたしが心配することを見越してこうしてからかってくるのだ。その優しさだけは、出会ったときから何も変わらないな。つい微笑んでしまったその表情を隠すように、トーストを齧る。映画の上映時刻は十五時であり、時間は余るほどあったが、今日が過ぎれば彼とはまたすれ違いの日々が訪れる。昼食を終えると二人で真っ赤な高級車に乗り込む。年代ものだというこの車は、誕生日のプレゼントとして贈られたものだった。シートベルトを締めながら彼が言う。
「こういうのって、なんて言うんですかね」
「…デート、じゃないのか」
「うわあ、それ、照れますね」
そんなことは微塵もおもっていないくせに。そういった意味を込めた視線を投げるとにこりと笑みを浮かべた彼の頬にキスをする。一日は始まったばかりだ。




「いや、すみません。まさか寝ちゃうなんて、おもってなくて、」
「そんな顔をしなくても良い」
薄暗い店内の照明はロマンティックに揺れては、彼の瞳の中で瞬いた。宝石のようだなとぼんやりと考えながらも、雪のように真っ白なテーブルクロスに染みを探すように目を走らせる。想像していた通り、クロスには染みどころか、皺一つなかった。それはいつだって正しい姿をしていたあの哀れなヒーローの姿を思い起こさせた。
映画館に着いたわたし達は時間まで適当にウインドウショッピングを楽しんだが、それはどちらかと言えば互いに尽きることのない会話を楽しんでいただけに過ぎないのかも知れない。何せ思い出そうとしたって、ショーウインドウのマネキンがどんな服装をしていたのかもまるで思い出せそうになかったからだ。我々は「ふつうの人間」となんら変わらない時間つぶしをし、時間が近づくとホットドッグとコーヒーを片手に場内に入った。席は丁度良い真ん中であった。なんのトラブルもなく映画は始まった。
しかし、十分も経ってふと隣の様子を見ると、アーティはなんとも無防備な寝顔をさらしていた。思わず呆気にとられ食い入るように眺めても、彼は一向に目を覚まさない。だが、そのうちに起きるだろう。そう判断してそのまま放って置くと、彼は場内がエンドロールの音楽とともに席を立つ人々のざわめきに溢れ、それを感じるまでぴくりとも動かなかった。二時間ものあいだ、彼は眠り続けた。
「疲れていたのだろう、無理をしなくて良い。むしろ、そうしてくれて良かったよ。あとで倒れられては困るからな」
「いえ、しっかり寝たし、今夜はガンバリマス」
「今夜じゃない。明日や明後日のはなしだ」
「あ、なんだ」
無邪気な顔をして挑発的な視線を寄越した彼に鼓動が速まる。そして僅かに辺りを気にしていると、フフフと笑われた。確かに、昼間よりも元気なようだ。
「ぼくはむしろ、今夜がメインなんですけれど」
「そんなことを言って良いのか、今や絶大な人気を誇る天才画家であるきみが」
「あなただってそうだ。どっちもどっちですよ。こんなところばれたら人気低迷ですね?」
「仲のいい友人とのディナーがか」
「はは、それもそうですね」
上品な手つきでフォークとナイフを扱っていく彼は同じくらい上品にセットされた髪とスーツを食ってしまうほどの魅力を放っていた。普段は適当にされている茶色の猫毛が今日ばかりはしっかりとグリースで揃えられ、後ろに流されている。整った顔立ちが尚のこと目立っていた。白い首筋がなんとも言えない妖しさを放っている。それを眺めながらもわたしはアンコウの肝のサワークリームをバゲットに塗り、食した。凝縮された金の味がした。彼も同じように食べ進めていった。食事中にぺらぺらと話すような人間は嫌いだった。
「ハチクさん」
「なんだい」
「あとで、今日の映画がどんな内容だったのか、教えてくださいね」
「ああ、いいとも」
細長のグラスに注がれたシャンパンを喉に流し込みながら、それは生まれついてのものかもしれないような気がした。綺麗な弧を描いた唇と頬は血色がよく、薄い紅色に色付いている。飲み干したシャンパンと同じ色だ。
それっきり、我々は口を閉ざして食事を済ませていった。香るような色気が体を包んでいった。


映画は単純なヒーローものだった。どこからか現れ、この星を守っていた高潔なヒーローがある事件をきっかけに美しい女性と恋に落ちてしまい、それに付け込んだ悪を名乗る者たちが侵略を狙う。幼いこどもだって容易く思い浮かべることができそうなストーリーを飾ったのは美しい音響と金の掛かったコンピューターグラフィック、それに名優の演技だ。彼らは息をするように演じる。そのどれもが洗練された、心地よいものだった。我々はストレスを感じることなくそれを受け入れることができる。胸を張って良い映画だったかと言えるかどうかは分からない。ただ、あのヒーローだけは突出して、作り上げられていた。永遠の愛を誓った女性のため、たった一人で敵と戦った彼は結局命を落としてしまう。しかしヒーローは決してその女性に直接その言葉を与えたことはなかった。何とはなしに、彼女も気づいているやも知れない。そんなくらいの間柄だった女性のためにヒーローは命を落とした。いや、それだけではない。彼はその生まれもっての高潔な精神を最後まで捻じ曲げることなく死んでいった。その死に際の表情を見れば、誰もが心苦しい気持ちになった。ヒーローは最後まで笑顔だったからだ。愛しい命をこの手で守りきった喜びに包まれて彼は死んだ。ここで終われば溢れるほどのB級映画に過ぎなかったが、彼は最後にこう付け加えた。「ああ、そうだ。出来ることなら、わたしのことなど一刻もはやく忘れてしまってほしい」。あのヒーローは早く自分のことなど忘れて、愛する女性に幸せになってほしかったのだとおもう。


助手席に座るアーティの反応を気にすることなく、そう話し終えたわたしはそこでようやく口の中がカラカラに乾いていることに気がついた。先ほどから車は何キロにも及ぶ渋滞に巻き込まれてしまい、亀よりも遅いスピードで進んでいる。察したアーティにミネラルウォーターを差し出された。
「ありがとう」
「いいえ」
岩のような喉の内壁を冷たい水がすっと流れていった。
「そうか、そんな映画だったんですね。ぼくはおきていればよかったなあ」
「興味があるなら、また観に行こう」
「そうですね、きっと」
彼は向かいから走る車のライトをいくつも浴びながら、ただ呆然と視線を投げていた。我々の約束はきっと適わないだろう。次の休みを取るころにはこの映画は終わってしまっているだろう。そこまで混んでもいない映画は二人で観るには大変良いように思えたが、それはそれだ。我々は守れない約束をいくつも重ねて生きている。ヒーローのままでは生きていけない。
「…すこし、聞きたいんですが」
「なんだい」
「ハチクさんがヒーローだったら、ぼくを守って死んじゃいますか」
彼はなんとも小さな声で聞いてきた。少しだけ驚いて彼を見るが、相変わらず視線はどこかに放られたままである。なにを見ているのだろうか、気になったものの、そんなことを聞くほど野暮な人間ではない。しかし、よく考えてみれば質問の内容自体はとても安っぽいような気がした。彼らしくもない。半ば笑ってしまいそうになりながらも、ごくふつうの声音で答えた。
「きみを守って死んだりするわけがないだろう。わたしが死んだなら、いったい誰がこんなにも難しいきみをしあわせにしてやれるんだ」
きみのヒーローになんかならないよ










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