家に辿り着き、冷えた体を温めるためにゆっくりと入浴するとようやく夕飯の準備を始めた。彼が風呂に入っている間に手早く冷蔵庫から諸々の材料を取り出し、適当に鍋へと入れてしまう。彼があまり食事を優先的な物事として捉えない人種だといいけれど。
「お風呂借りました」
「うん、着替えと下着は出しておいたやつで良いかな」
「有り難いくらいです」
「それは良かった。もう夕飯にしようか、お肉は食べれるかい?」
「ええ、ところで」
彼は適当に髪を乾かすと、きょろきょろと辺りを見回した。そうして何よりも先に求めたものが意外なもので、暖かなストーブでも香ばしいパンでもなく、ハサミだったのだから少し驚いた。「ハサミ?」ぼくは訊ねる。
「このままでは、いくらこんな場所だってバレます」
「こんな、ねえ」
「悪口ではありません。むしろ、素晴らしいことと捉えています」
「長閑で静か?」
「皆まで言わずとも」
「ハサミか、どこに合っただろう…ああ、あったあった。ほら、これで良いかな?」
「散髪用なんてあるのですか」
「台所用なら立派なものが」
「こちら、有り難く使わせていただきますよ」
一般的な「ごくふつうのハサミ」を受け取った彼は小さなフェイスミラーを覗き込んでは躊躇なく切り捨てていった。次第に短くなっていくその髪は胡座をかいた足の上に敷かれた新聞紙の上に舞い落ちていく。それを視界の端に置きながらもぼくは鍋つかみを両手にはめるとコンロからグツグツと煮立った鍋をテーブルの鍋敷きの上に置いた。それはテーブルというよりも卓袱台に近いもので、背中を見せて座っている彼には見慣れないんじゃないかと心配したが、彼は気にしていないようだった。
鍋つかみを手から外して重ねて置くと、二つの椀にご飯をよそう。着実に夕飯の準備をしていく。すき焼きのにおいが部屋中を暖かく包んでいった。
「おれの弟ならこの町でうまくやっていけるよ」
小皿に生玉子を割り入れると、首もとに散った髪をパラパラと落としていた彼がこちらを向いた。
「そしてゆくゆくは臓器売買にサインを。とか言わないですね」
「そういうウラあった方がいい?」
「いえ」
「じゃ探しもの手伝って」
黄身に箸を突き立てるとそのままぐるぐると混ぜ始める。小さな器の中を黄身と白身がぐちゃぐちゃになって回る。
「自分探し以外なら」
「それそっちでしょ」
「なんでもどうぞ」
「リモコンなんだけど」
ぼくがそう言うと、彼は敷いていた新聞紙をぐるりと丸めてきっちり処分した。そうして立ち上がるとフラフラと辺りを見渡して、脱ぎっぱなしのコートの下敷きになっていたリモコンを引っ張り出した。「はい」「ブー」。肘まで捲ったカッターシャツと下着だけを身に付けていた彼は恐ろしく細くて白い足を投げ出したままである。ポキポキと、音を立てて折れそうだった。
「外で落としたの」
「急な広範囲ですね。いつ頃」
「夏にね、仕事で使うんだ」
「仕事って…ローカルタレントじゃないんですか?」
「だれが」
「マダム達にキャーキャー言われてたじゃないですか。こんな胡散臭い人なら裏切られても傷つかないから信用してみようかな、と思ったんですけど」
「きみさぁ」
一息で随分とヒドいことを言ってくれた「弟」に玉子を渡しながら、溜め息をつく。と同時に少しショックだった。ぼくの第一印象がまさかそこまで信用ならないものだとは思っていなかったからだ。いただきます、と合間に告げると何も言わずに箸で鍋の中の肉を掴む彼に安心する。幾ら細くたって肉は食べるようだ。
「生き辛いのその理屈が高速回転して歪んだ性格のせいじゃない?」
「初対面で言ってくれますね」
これだけ言い返したって、怒りもせずにあくまで淡々とした表情を浮かべる彼が不思議だった。なんだってこんなに素っ気ないのか。彼の掴んだ箸の先、生玉子の海を泳いでいた死肉が口へと吸い込まれていく。
「いいですよ。クレバーでフレンドリーかつキュートな弟だと証明しましょう。どこだって探しますよ」
フレンドリーかつキュート、とは大きく出たものだなあ。ぼんやりと考えながらも笑顔でありがとうと告げる。不思議と、ぼくはこの無愛想で恐ろしいほど細身の弟を大層気に入ったらしかった。
(どうせならもっと早く――)
いや、と考え、口の中に春菊を突っ込む。考え過ぎることは得てして良くないことに繋がる。そういうものだ。
「…ところで、さすがにこの格好ではあなたの人間的信頼性を失ってしまいそうなのですが」
「ああ、なにも言わないからそういう趣味なのかと。その辺りに洗濯の済んでるズボンがあるから、それを着なよ」
そこで手に取ったズボンを履いた彼の表情と言ったら、凄まじいものがあった。眉間に皺を寄せて裾を捲っていく弟を眺める。
「あなたは、あれですか。足長族とか、そういう」
「まさか」
自慢じゃあないが、ぼくの足はとても長い。話せば長くなる理由だ。あれだけ素っ気なかったのが嘘のような驚愕の表情になんだか笑ってしまう。フレンドリーかつキュート、あながち否定できないかも知れない。鋭い視線をいなしながらも気がつけば珍しく、適当な夕飯も美味しく感じた。









「おはよう」
「おはようございます」
「随分早起きだね」
「あなただって、こうして起きているじゃありませんか」
壁掛け時計に目をやればやっと六時を回ったころだった。眠たげな顔をして起きてきた彼はよろつきながらも洗面所へと向かう。「まだ寝ていて構わないよ」「自分だけが寝ているという状況に耐えられないのです」。なるほど、こっちが気を使うほどの神経質だ。今にも顔を洗い出しそうな勢いの弟の腕をつかむと、寝室に引きずり込む。そうしてばたりと倒れると、連なって彼も倒れた。驚いたような声がくぐもる。
「良いです、眠くなんてありません」
「ぼくが眠いのさ。なんなら、君ひとりで起きていれば」
「…子守歌でもうたってあげましょうか」
「それは一つよいのを頼むよ」
そう言ったきり、我々は口を閉じた。まるで何も聞こえない。しんしんと降り積もる雪が全ての音を食べてしまうからだ(我々、という響きには何か愛らしいものがあるなと思う)。
月並みだけれど、二人だけしか存在しないようだった。降り積もる雪は人の熱なんてあっという間に奪い去ってしまう。しかし、ぼくは思いの外あっという間に眠ってしまった。二人分の体温はなんとも言えない心地よさをもたらしたのだ。









目を覚ますと既に空はオレンジ色になっていた。起き上がると、呆れたような顔をして弟がこちらを見ている。
「いつまで寝ているのかと」
「うん、ごめんね。これは何だろう、夕方?明朝?」
「夕方です」
「そうかい、今日は晴れていたんだね」
それは珍しいな、と考えてはすっかり暖かそうな格好をした弟を眺める。無機質だった部屋の風景が、なんだか温かみを帯びているようだった。「ねえ、今日から二人で寝ようか」「嫌ですよ。落ち着きません」。名案だと思ったけれど、呆気なく否定されて少しだけショックを受ける。そうして考えていると、なんだか、彼が来てからぼくは色々と変わったようだった。ほんとうにそれは色々だ。例えばこんなにもずっと眠っていることだって有り得ないはずだった。そんな風にしていていいわけがないんだ。
「疲れているんじゃないですか」
「そうかな」
「ええ、随分と深い眠りでした」
「うん、そうか。お腹は空いてる?」
「少しだけ」
「夕飯を作るよ。そうだな…きみは先にお風呂に入ってきたらいい」
こくりと頷くと、彼は適当にタオルと着替えとを手に風呂場へと向かって行った。それを見届けると再び体を倒す。窓の外を固まった雪が落ちていった。屋根を滑っていく塊を想像しながら考える。
良くも悪くも、すべてが変化しつつあるのだ。









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