ノボリが姿を消してからひと月経った。
その間にぼくは一度も作ったことがない料理を(それこそ大層な代物でなければの話だ)大体は作れるようになっていた。作っておいた粒マスタードを、フライパンでこんがりと焼いたチキンにたっぷりと塗る。そしてレタスやトマトと一緒にパンに挟むと、それを半分に切った。レトルトのスープも適当に作って、ベランダに持って行きそこで食べる。萎びたレタスの味わいは最悪だったけれど、近くのスーパーマーケットやコンビニエンスストアまで買いに行くのはどうも面倒だった。それならばぼくは砂漠のようにパサパサのレタスを食べたほうがよっぽど良い。食欲なんて、あってないようなものだから、味なんてどうでも良いんだ。食料はまだまだある。
そうして落ち着くとはっぱ一つなかった枯れ木には再び命の芽吹きを感じ、時間の流れについて考えた。近郊の深い森の茂みの中にあるこの広すぎる屋敷もまた、ぼくだけを体内に残したままひっそりと息づいているのだろうか。冬の間、恐ろしく無色透明であったあの木々のように。
あの夜のことだ。それ以外にぼくが考えることなんて、何一つとしてなかった。
口の中がカラカラに乾いている。本当の砂漠のように、唾液一滴出ない口腔が煩わしく、いつまでも飲み込めないでいるチキン・サンドウィッチをスープで流し込んだ。それがすっかり体内に組み込まれていくと、無数の体内器官が分解し吸収し、残りのカスを排出する。それはまるで、遠い宇宙の銀河みたいだった。ノボリ、きみは今どこにいるんだろう。ひょっとして、検討も付かないほど遥か遠くの銀河の果てでさ迷っているのかい。少なくなった残りのチキン・サンドウィッチを口に放り込むと、同じようにしてスープで流した。自分の体がゴミ箱になったような気分だった。

ゆっくりと歯を磨くと少ない洗濯物をベランダに干した。それから家の中を念入りに掃除する。自慢じゃないけれど、ぼくは手先が器用だ。碌にやった覚えのない掃除だって料理だって、やろうと思えばその通りに出来た。この器用さがなければぼくは今頃パリッとしたシャツも着ていないし、雲のようにフカフカとしたベッドでも眠れていない。料理だって掃除だって、本来ならば彼が行っていた。潔癖と揶揄を受けるほどの清潔を求める彼だから、彼が出て行った段階で、掃除の必要なんてのはまるで感じなかった。しかし人が居ようが居まいが、部屋は汚れていく。だからぼくは体の節々が痛くなるくらいに毎日の掃除を欠かさなかった。広い屋敷の天井から地下室、それに留まらず庭先の枯れ葉や雑草の程度を整えていった。掃除をすっかりと終えるとホープを三本吸った。片付けたばかりの灰皿ほど気持ちの良いものがあれば、教えてほしいくらいだ。腕時計を見れば、丁度正午を迎えている。このひと月のぼくの午前中というものは大体にしてそれだけで終わっていった。いや、今でこそ午前中で終わるけれど、ずっと最初は夕方まで掛かっていたのだっけ。それは遠い昔に思え
た。今ではホテルマンにだってなれそうだったからだ。

昼食にはベランダでナツメグとブラックペッパーの効いたハンバーグ・ステーキを食べた。使った食器類を片付けると、柔らかな日の光の射し込む寝室で眠った。



目を覚ますとぼくの体は暗闇に包まれていた。恐ろしく冷たく、不穏な空気を孕んだものが辺りに犇めいている。今にもぼくを頭から飲み込んでしまいそうな空気は淀みと薄暗いものを宿させた。すっかり冷えたベッドから起き上がると寝室を出る。階段を降りて、ベランダにたどり着くと夜の風がブワブワと押し寄せていた。何の躊躇もなく、以前から用意していたとびきり上等の革靴を履く。自然と足は、虚ろでいて明かり一つ見当たらない森へと向かっていた。

森の中は酷い寒気が立ちこめていた。薄いシャツとスラックス一枚で歩き続けるぼくの体はとっくに冷え切って、耳朶や鼻は千切れそうだった。しかし止まることなく歩き続ける。恐らくまっすぐには歩けていないだろうと予想したって、何の意味もない。通信機器は置いてきたし、頼りになるパートナーだってあの屋敷にいるからだ。頭の良い彼らはぼくがどうしたいのかをよく理解している。それこそぼくよりもだ。
ここがどこなのかも、方向さえも分からないまま歩き続けている。この暗さでは頼りの腕時計もまるで役に立たなかった。器用さだけでは人は生きられないんだなと痛感しながらも、また足を動かす。二時間は経っている筈だった。冷えているのに額から汗が伝うと、それを拭うこともしなかった。とびきり上等の革靴はきっともう汚れてしまって、見れたもんじゃないだろう。じゅうたんのように敷き詰められた枯れ葉を踏みつけながらもそんなことを考えていたが、そこでぼくは立ち止まった。そうして仰向けに倒れ込んだ。見上げても星明かりなどはまるで見えない。分厚い雲が空を覆っている所為だ。あの雲の向こうの、ずっと先。そこにいるノボリは、まだぼくに会いたくないのだ。息をする度に体温が下がっていくようだった。生きながらにして、氷付けにされる。森の遠いところで鳥がギャアと鳴いている。ぼくはやっと、あの夜のことを思い出した。
名前を知らない女の子、1ミリのケントメンソール、意味のあるコンドーム。彼女はきっとアレに針で穴を開けていただろうと思った。その考えには何の裏付けもなく、ただの思い違いかも知れなかった。それでもぼくはきっとそうであったのだと考えた。意味のある性交と意味のない性交。ぼくにはその違いが分からなかったけれど、彼はきっと気付いていたのだ。そうして姿を消した。ぼくの奥歯の欠片を奪い、ほんの数日の頬の腫れを与える代わりにだ。
(…どうして気が付かなかったのだろう。子宮を持たない彼は、そのことが、どうしても、たまらなかったんだ)
ブワブワと吹く風が、分厚い雲を払っていくと、答えるように星々は姿を現した。ぼくはそれを見ていられなかった。両手で視界を塞いでしまうと、何もかもが終わりのようだった。ぼくの知らないところで生きていくぼくのこどものことを思うと胸が苦しくてたまらない。
「つまらないセックスだって、言ったじゃないか」
それなのにあの女の子はぼくのこどもを育てていくに違いなかった。名前を知らない女の子、簡単な名前一つ覚えていられないぼくを、きみは愛しているのかい。涙がぼろぼろと溢れ出る。顔も名前も知らない女の子の子宮に宿ったぼくの遺伝子も、どんなに願ったってそれが叶うことのない兄も、全てが物悲しかった。それは酷く単調なダンスのように感じるものだ。そこではきっと誰も彼もが悲しい顔をしてダンスをする。荘厳なダンス・ホールは彼らによって満たされる。けれど、ぼくには知らない女の子とダンスなんて踊れそうになかった。風の音だけがブワブワと耳を撫でた。他にはまるで何も聞こえない。頭がおかしくなるほど鮮明な星空はぼくを責め立てる。「きみはそうやって、何もかもを失っていくんだよ」。そんなことはないさ。「あの兄だって、もう戻らないだろうね」。ああ、うるさいな。ぼくの頭は彼らによってすっかり犯されていった。君らにノボリのなにが分かるんだ。叫びだしたい気持ちでいっぱいだった。君らがノボリを返してくれないんじゃないか、彼はぼくのものなのに、それなのに。汚い言葉を繰り返している間にもぼくは涙を止めることができな
いでいる。雲の隙間からは雨のように際限ない月光が降り注いだ。ブワブワと吹き荒ぶ風と月明かりの調和は恐ろしいほど見事だった。ぼくは声を荒げて泣いた。延々と涙は出続けた。そうして今度は深い静寂が訪れた。ノボリが言う。
「反省会は済みましたか」
「うん、丁度ね」
なんでもなかったかのように淡々と話している彼は、ぼくの頭の、ほんの先のほうにいるらしかった。無感動でいるけれど、なんだか心地よい声に目を瞑る。
「きみがいるような気がしたんだ。目が覚めたら急にそう思えたんだよ」
「ええ、わたくしも、きっといらっしゃると思っていましたよ」
「きみはとても優しいね」
「おかげさまで」
「ぼくの知らない、ずっと遠くにいるのだと思っていたよ」
「あなたは頭がよいのに簡単なことは分からないのです」
「ずっと、きみのことを考えていたよ」
敷き詰められた枯れ葉を踏みしめ、此方へと歩み寄って来たノボリはぼくの顔を覗き込んだ。スッと通った鼻も堅く閉ざされた薄い唇も、全てが思い描いた通りのラインを描いていった。ただ、綺麗だと思った。
「どんな風に考えてくれていたのですか」
「今どこにいるんだろう、とか。今なにをしてるんだろう、とかさ。眠れない日はきみとのセックスの回数について考えた。けれど、ちゃんとした回数はよくわからなかったんだ。ぼくらは盛りの付いた犬猫のように体を重ねた時期もあったし、ひと月触れ合わない時期もあったからね。不確かな数字に意味なんてないしさ、それに」
「それに?」
「きみがいなくちゃ、もっと意味がないよ」
しゃがみこんだノボリの頬に触れると、ぼくと同じくらいに冷えた体温に笑みがこぼれた。不器用で純粋で、とびきり愛しいぼくだけの兄さん。ゆっくりと手を回し抱きしめる。不確かな体温が熱を持ち始めると、おかしくてたまらなかった。
「クダリ、わたくしはあなたがいとしいのです」
「うん」
「なによりもいとしいのですよ。あなたが生きるのなら、死んだって構わない。あなたの笑顔だけ、それだけ頂けるなら、わたくしは」
「いいよ、そんなことを言わないでよ」
月が出ているのにぽつりぽつりと降り注ぐ雨に、にこりと微笑む。銀色の髪が月明かりでキラキラと光っていた。とびきり強く抱きしめて、伏せられた瞳をべろりと舐める。体温にそぐわずマグマのような温度を持ったぼくの舌は、触れた場所から彼をどろどろに溶かしていくようだった。ブワブワと吹く風に彼が攫われてしまわないように、子供をあやすように抱きしめる。臆病で鈍感なきみ。ぼくがどれだけ君を壊してしまいたいのか、まるで知らないんだろう。そんな君が愛しくて仕様がないんだ。けれど、これはぼくだけのものだから、君は知らないでいてくれよ。ずっと美しいまま、ただ。
「体も声も、すべてあげるよ。すべての愛をあげるよ」
抱きしめてキスをして、そうしてやっと、ベランダを開けたままにしてしまったことを後悔した。君のために、部屋の中をとびきり煙たくしておく筈だったのになあ。
「そんなに大したものじゃ、ないんだけどさ」
嘘つきの集まる森のダンス・ホール。ラストダンスはどうか君とぼくの、滑稽で理想的なワルツでありますように。
ラスト・ダンス





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