フィルター越しに思い切り空気を吸い、ただそれを吐き出す。あまりにも単調な動作の繰り返しだ。いわば生きるために呼吸をしているような、そんな風にも見える。顔に似合わず(いや、顔自体は全くの同じであるから、この表現は語弊かもしれない)バニラの甘ったるい香りを漂わせている彼は、折角の休憩時間だって関係がないという風に眉間に皺を寄せていた。そのせいだろう、ガラガラの喫煙所は、今し方休憩を貰ったぼくと、彼との二人しかいない。隣に腰掛けると、青白い顔をこちらに向けた兄さんはどうにも機嫌が悪そうだった。
「やあ、ノボリ。きっといると思っていたよ」
「それはそれは」
珍しくも、素手で煙草を扱っているその姿に驚いた。愛煙家の癖に酷い潔癖の彼のことだから、いつだってあの漂白剤そのもののようなシルクの手袋をしていると思っていたその手は剥き出しのまま、指先に煙草を挟んでいる。スッと揃えられた指を辿っていると、視線が気に障ったのか訝しげな顔をされてしまった。
「その手はどうかしたの」
「燃やしまして」
「えっ、燃やした?」
「シャンデラの暴発でして、予備もまだ用意が出来ていませんのです。なので本日は仕方がないのですよ」
「きみの可愛いシャンデラが暴発なんて、さぞ手強い相手だったろうね。怪我はなかったのかい?」
「…ええ、幸いに」
それはもう不機嫌そうな顔で言い放たれ、ぼくは大人しく口を閉ざした。背もたれに寄りかかりながらも内ポケットからマルボロのメンソールブラックを取り出して、火を付けないまま口にくわえた。
「火、貸りても?」
「どうぞ」
安くて付きの悪いライターをいつまでも使っているのがまた彼らしかった。カートンのおまけのライターだ。付きが悪くて余計に苛々してるのだろうか、と考察しながら、その横顔を盗み見る。複雑に入り組んだ脳があの険しい眉間を作り出しているんだ。いっそ冗談の一つでも言ってみれば気が晴れたりするんじゃないか、目一杯怒られそうな考えを思い付きながらも、煙を吐き出す。トントンと溜まった灰を落とすと、また口元に持っていく。
「そんな苛々しているの、珍しいね。もしかしてアレの日かい?」
「…何故知っているのですか」
「えっ」
てっきり怒り狂うかと思っていたノボリはいつになく真剣な顔をしてぼくを見ている。何故、というかなんというか、まさかノボリがそんな冗談を返してくれるとは思っていなかったもので、つい言葉に詰まる。アレ、というのは所謂メンスのことだ。勿論彼には起こり得るはずのない現象である。彼の体を知り尽くしたぼくが言うんだから、まず間違いはない。思い切り吸って、思い切り吐く。
「いや、最近調子が悪かったようだしね。見てれば分かるよ」
「そうですか…心配をかけたらいけないと思い秘密にしていたのですが」
心配も何も、昨日だって彼はぼくと寝ている。
「まあ、ぼくも本当に来るとは思ってないけどね」
「しかし事実来てしまったもので、今朝から腹痛が酷く…毎月とは言え鬱陶しいものですよ」
「へえ」
随分と気合いの入った様子の彼に、なんだかたじろいでしまう。何だって今日は、こんなにも嘯くことに気乗りしているのだろう。いっそ機嫌が良いのだろうか、いやしかし、それではこの顔色の悪さを説明出来ない。それはもう、生来から顔色の悪い彼だけれど、それにしたって今日は酷いくらいだ。第一に、固まった鉄のように決して曲がることのない生真面目で一貫的な彼がこうも下世話な冗談を言うだろうか。ぼくは少しだけ心配になってきた。やれやれ。背もたれに寄りかかり、煙草を吹かす。気難しいほどに神経質な彼は、未だ難しい顔をしてそこに座っている。何も変わらずに青い顔をして、とてつもない不安をぼくに与え続けている。まさか、いやしかし。答えのない疑問ばかりが生まれ消える。
「それはその、今朝に来たのかい」
「ええ。少し前からその兆しはあったように思われますが、まさか今日くるとは」
「と言うと、きみの体はその…とてつもない変化を来しているわけだね」
「見ての通りですよ」
訳が分からない。彼の体は相変わらずガリガリに骨張っているし、丸い膨らみなど到底窺えなかった。希代の難問を前にして、ぼくは悟られぬように頭を悩ませていた。確かに以前、結婚したいなと考えたことがあった。女性ならばどんなに綺麗なことだろう、とも。しかしてそんな浅はかな思いが彼の体を変化させてしまうものだろうか。それに幾ら女性であっても、ぼく等は所詮兄弟であるのだから結婚などは不可能な話であるし、ぼくは骨張ったあの体が好きなんだ。それはもうあらゆる意味でだ。見ての通り、という言葉にぼくは少しばかり頭を痛めざるをえなかった。くわえていた煙草を灰皿でもみ消す。
「…ぼくに言ってくれて構わなかったのに」
「出来るだけあなたの負担を減らしたかったのです」
「そうなんだ」
「今は薬が有りますし、一週間も経てば戻りますから。それに、本当のことを言うとですね、言えばあなたは動揺のあまり仕事に手がつかなくなるでしょう」
この場合、動揺しない人間などいるのだろうか。ぼくは苦々しく笑うと、なんだか本当であるような気がしてきた自分を叱責する。そんなわけはない。ぼくの知らない内に兄が姉になるなど、論理的に有り得ないことだ。ぼくは決してそういうことにうるさい人種ではないけれど、やはり信じられないことではある。
「それはまあ、そうだけれど」
「そうなればわたくしも困りますので、秘密にしておりました。さあ休憩もそろそろ終わりでしょう、行きますよ」
「あ、待ってくれ」
「何です?」
煙草をもみ消し、皺一つないコートに袖を通した彼は不思議そうにぼくを見ていた。生唾を飲むと背を冷や汗が伝う。やれやれ。ぼくは意を決していた。
「ちょっと失礼」



「お疲れ様ですクダリさん。おや、酷いあざですよ」
「うん、まあ、そうなんだ」
よく考えてみれば今朝監査の者が訪れたというニュースがあったことを思い出したり、ノボリは二十代の頃から神経性胃炎持ちであったり、現実問題そんなことは有り得ないわけだったり、自らを疑って彼の胸を揉んだぼくには、この拳型のあざはお似合いだった。
「でもさ、グーは痛いよ」
「モテるお人は大変ですねえ」
「そんなんじゃないけどさ」
メルヘン地獄へようこそ













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