窓辺から差し込む銀色の光を眺めていた。空は乳白色に染まり、ところどころの切れ目から差す眩いばかりのそれは嫌にこの季節としての物事を際立たせているようで、欠伸をする。雲の丁度切れ目に白い月がぽっかりと浮かんでいた。誰も彼もが忘れ去ってしまったような姿だ。
「明日、試験本番の者は、十分な休養をとり、無理のないよう」
薄ぼんやりと滲むその声は、死刑宣告にも似ているな。肘を付いて、外を眺めながらも考えていると、気が付けば騒々しかった教室も静かになっていた。熱心にノートを滑る鉛筆の音も、単語帳を捲る音も、聞こえない。窓から眺める景色は、まるで下手くそな絵画のように無感動で、気持ちが悪かった。冬の尖った空気が、肌を突き刺してはどこかに消えていく。隣から声が聞こえた。
「天才先生」
一拍置いて、顔を上げる。クラスメートの男はこの景色のように無感動な顔をしていたもので、わたくしは少しばかりの間、それが自分を称しているのだとは、まるで気が付かなかった。
「わたくしのことを、仰有っているので」
「謙遜は間に合ってるよ。なあ可哀相なクラスメートを助けてくれないか」
そう言うと、ノートをこちらに寄越して見せた彼がペラペラと言葉を続けるのを聞き流していた。ややこしい字式だったが、これはつまり、ややこしいと思ってしまうからややこしいので、一端始めにかえってみたなら、楽に解ける問題だったりする。数学とは突き詰めていけば哲学なんだ。ノート上を鉛筆が滑る度、男はぎゃあと叫んだ。
「頭も未来もクリアでいいよな。病院継いだら、おれ雇ってね」
「クリア、ですか。それは、ないのと、同じではないでしょうか」
「何それ、深すぎてわけわかんねえよ」
書き終わったノートを返すと、男は諦めたように言った。
「あいそないなあ、お前なんか、たまにすべればいいのに」
「ええ、そうですね」
片手を挙げて教室を出て行く男を眺めながらも、先程の言葉を思い返していた。たまには滑れば良いんだ。滑る、とは、具体的にどういうことをさすのだろう。聞いておけばよかったと思いつつ、マフラーをぐるぐると適当に巻く。暫く切っていなかった髪がなんだかやけに鬱陶しくて、ぎゃあと叫びたくなった。教室の電気を消し、誰もいない廊下に出ると、すっかり凍りついた校舎が鈍い光を受けて光っている。
「たまには、すべれば」
偶には、とは、どれほどの頻度に於いてなのだろう。やはり聞いておけばよかったと後悔しつつ、蝕まれた校舎を後にした。



月の葬式




見る限り、雪しかない。これはなんの比喩でもなく、その言葉通りの意味だったりする。国の最北端に位置するこの町は(町というほど発展してはいないので、正しくは村程度の規模なのだけれど)夕方にもなると大体天気が崩れ、猛烈な吹雪に見舞われた。しかしここに移り住んでからもう一年以上になるわけだし、その殆どが雪に覆われたままになるこの町に住み続ければ、まあ慣れないわけもない。鼻先が赤くなっていたりしないか、そんなようなことを考えながらも気付けば明るい電気の点った家に着いた。長靴の底で踏みしめた雪の感触がまだ抜けないでいる。軽く雪を払い、がらりと戸を開ければ、なにかを囲むようにして密集した人の体温によるもわりとした熱気がなだれ込んできた。
「なに、見てるの」
一瞬静寂に包まれたかと思った部屋がすぐ様元の通りに戻る。クダリさんが来た、と言って頬を染めて騒ぐ女性達の姿は、いつ見ても微笑ましかった。
「おじゃまします。遅れちゃった、うちの方、除雪車きてなくって」
「わざわざ悪いね」
「ぜーんぜん」
既に玄関一杯に脱がれた靴の山を踏まないように歩きながら、すぐそこに腰掛けると帽子を脱いだ。積もった雪を払い落として、乱れた髪を直していると、肩越しに紙を手渡された。
「夕方によ、駅で線路に下りた子が見つからなんだ」
「あら」
「都会から3日かけてきたらしいんだけど」
「なに?迷子?」
「迷子っつーか、家出っつーか」
手渡された紙を眺めていると、そっと湯飲みを隣に置かれたことに気が付いた。「ありがとう、フウロちゃん。髪切ったんだね」。似合うよ、と続ければ彼女は顔を赤くして友達のところへと戻ってしまった。背後からきゃあきゃあと黄色い声が響くのを聞きながら、手袋を外していると手に持っていた人捜しの紙が風に飛ばされ、飛んでしまった。触れば折れてしまいそうな、恐らく高校生くらいだろうその少年の写真はどこか無機質で親近感を覚えたが、一体どこから風が吹いたのだろう。ふと顔を上げれば、いままさにぼくが入ってきた戸が開き、そこからひょっこりと顔を覗かせている少年がいた。銀色の髪が風に吹かれて揺れている。視線の先を、人捜しの紙が飛んでいった。銀色の髪と、高等学校の制服。そんな軽装で猛吹雪の中だなんて、と考えたものの、どうやら人間は成せば成るらしかった。
「あの、もっと北へ行く手段があれば…」
人捜しの紙が翻り、少年の視線がそれを捉えると、如何にも苦虫を噛み潰したような顔をした少年は眉を寄せて言う。
「と思ってないので、いいです」
言ったきり、戸を閉め足早に去ろうとした少年の手首を掴んだ。写真の印象とまるで同様に、触れたら折れてしまいそうな腕だった。
「まあ、そう言わずに」
5センチばかり下の目線は冷静さの隅に狼狽えを残していた。未だ幼さの残る顔立ちはそれを隠すには少しばかり力不足で、なんとも間抜けな面を晒している。するとぼくが立っていることに気が付いた気の良い中年の男性は、居間の方から酒瓶を手に声を掛けてきた。
「おーいクダリちゃん何してんの、とっときのやつ開けるよ!」
「ごめんね、今日はもう帰るよ。昨日から弟来てて」
返事をしつつ体を外に滑らせる。「残念だ」「もう帰っちゃうの?」という声をなんとか躱しつつ、あちらから見えないように立つと間一髪で見に来た女性達から隠すことができた。人見知りなんだ、また今度と言い訳をして手を振れば、それっきりもう諦めてくれたようで、戸を閉めると再び脱いだばかりの帽子を被った。冬独特のピリピリとした空気(それはもう、少し力を入れて蹴り飛ばしてしまえば、呆気なく壊れてしまうほどのもので)はこの吹雪によって幾らか和らいでいた。
「こっち」
「あの、場所だけで」
「ぼくの家が一番北だよ。帰る気ないんだろ?」
歩き始めれば、彼もなんとか納得をつけたようで、重たい足を動かしていた。見ているこっちが寒くなりそうな格好はその体の細さをより鮮明にしたもので、ぼくはただ、なにかの拍子にうっかり彼の体を、それこそプラスチックのようにぽきりぽきりと折ってしまうのじゃないか、と思わないでもなかった。ずっと夜であるのに、世界は真っ白だった。
すると、後方から光が射した。それはもう驚くくらいの眩しさで、ぼくはやはり驚いて振り返った。白いバンのライトは吹雪にギラギラと反射して貪欲な生き物のようだった。カチコチに固まった少年の目の前に掌を出して、影を作ってやる。困ったように目を泳がせた彼は一度だけこちらを見たけれど、ぼくは気が付かない振りをした。彼よりも数歩前に出ると、国産車の窓がゆっくりと開いていった。運転席に座るハチクさんを差し置いて話し出したのは、ここらでは珍しい芸術家のアーティさんで。
「こんばんはハチクさん、アーティさん」
「なあんだクダリくんの連れか」
「こないだはお餅ありがとう。お二人は例の高校生捜し?」
「うむ」
「若い子なんてみんな同じに見える、なんて言うんだよおハチクさん。おじさんみたいだよねー」
「あはは。ごくろうさま」
「うん、じゃあ、またねえ」
語尾を緩やかに伸ばしたアーティさんは手を振って、にこにこと笑みを浮かべていた。頭を下げるとハチクさんも頭を下げて、そうして窓を戻すとあっという間に行ってしまう。遥か遠くに見えるだけになったバンを眺めていると、後ろから倒れた音がした。振り返れば、まるで先程の想像のように体の関節を折って倒れている少年がいる。手を貸して起き上がらせると、訝しげな目を向けられた。小型犬みたいだ、と思った。足元に何やら、きらりと光るものを見つけた。それもただの偶然だ。
「なんか、落ちたよ」
「いらないです」
服に付着した雪を払い落としながらも、どんどんと先を歩いていく少年に初めて興味が湧いた。残しとくと、クマさんが追っかけてきちゃうぞ。そんなバカみたいなことを口にしながら拾う。近くで見ればなんてこともない、銀のリングがきらりと光る、単語帳だった。綺麗な字で書き込まれたそれは、几帳面さと潔癖症を連想させた。恐らく当たっているだろう。数歩先を歩いていた少年に追い付くと、そのまま追い抜かした。パラパラと単語帳を捲りながら歩く。雪がぶつかっては、その格式ばった字を滲ませていった。
「を、びっくりさせる」
唐突に読み上げた所為か、少年の歩みが止まった。振り返れば何だいきなりと言わんばかりに目を皿にしてこちらを見ている。ぼくはまた、歩き出した。
「…を、びっくりさせる」
「astonish」
「まばたき」
「blink」
「破裂する」
「burst」
「埋める」
「bury」
「捕らえる」
「capture」
「やめる」
「cease」
「罪を犯す」
この単語だけ、僅かに彼の呼吸が詰まるのが分かった。すらすらと答えて見せる彼はその発音も、なんら格好つけず、さも当たり前のように伸びやかでいる。それが少しだけ乱れるのは、どうにも不思議で、面白くあるのだ。
「commit、ちょっと、下りたところ、知られたくなかったので」
「を、説明する」
なんの戸惑いもなく、読み上げ続けるぼくに、少年はついに白旗を掲げたようだった。気が付けば随分弱まった雪の中で、食い潰された音の上に溜め息が木霊する。恐ろしく静かだった。それは、こんなことよりもずっと恐ろしい何かが、今にも喉笛を切り裂き血を啜るような、そんなものだった。
「パッと見て、答えがわかるんです。勉強も、親の期待も。このまま順番に、正解していくわたくしが月並みな塵の固まりになることもわかっています。その気配で息が詰まっておかしくなったんでしょう。受験の日に電車を間違えました」
少年は、とても分かりやすい言葉で的確に説明していく。しかしその節々に感じる、愛着の無さと、虚無感。それが彼を無機質に変えるのだろうか。ぼんやりと考えて、また歩く。
「試験の時間が過ぎたら帰るつもりだったんですが、戻ったところで病人のような扱いでしょうから、せめて、なだらかな地獄のような場所でもさまよえば、さびしさと苦しさで、わたくしが間違っておりました、もう二度と裏切りません…という気分になるかなと思ったのですが、わりと居心地よくて」
「なるほど」
話し終えた彼に向かいなおると、その顔は先程見た時よりも清々として見えた。肌に赤みがさしているからだろうか、少しばかりの有機質のような具合を感じる。雪の降り積もったホームから、線路へと降りる姿を想像していた。物音一つしないこのなだらかな地獄のような暗闇で、夜か朝かも分からないような道を歩き続ける少年は、どんなことを考えていたのか。銀のリングに指を通してグルグルと回せば、沢山の言葉が散ってしまった。
「ならいっそ、地獄に、生まれ変わってみる?」
「あなたの弟は、先が見えないですね」
弟、と口にしたその時、初めて笑みを浮かべた(と言っても苦笑いだけれど)少年にぼくまで笑ってしまった。忘れられたようなガス灯の光に当てられた結晶が輝いて、落ちていく。
「でしょ?」
生まれて初めて出来た弟は、凡そぼくとは正反対の少年だった。







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