青白い顔も堅苦しい口調も神経質なのに少し抜けた性格も、ずっと好きだった。生き写しである兄が恐ろしくて愛しくて、呼吸が詰まる。「兄さん」と呼べずにいるぼくは、地に落ちた蝉のようだ。なにかを零したように青く染まった空を思い出しながら、ジリジリと生命の灯が消える瞬間を夢見ている。誰かがこの軟らかい腹を踏み潰してしまえば良い。そうしたなら、ぼくは愛して貰えるのだろうか。

「やあ、ノボリ、また派手に壊したね」
「…もうあなたの耳に入ってしまいましたか」
ひどく落ち込んだ背中に声をかければ、それは思った通り普段の堂々たる声とは似ても似つかぬか細い声が返ってきた。そんな彼の視線の先にはもはや賛辞すら送るほど無惨な姿になったスーパーシングルトレインが身を横たえている。これは勿論強力すぎたシャンデラのオーバーヒートが原因なのではなく、指示を出す彼に問題があったのだ。いつものことだけれど、ああ見えて熱い人間であるノボリは強敵と対峙した際についやりすぎてしまう癖があった。勿論、この大破の全てがノボリに因るものでは無いにせよ、殆どはそうだ。今朝一番ライブキャスターで叩き起こされたぼくからして見れば、相手の剣幕とこの惨めな背中が合わさって、なんだか笑ってしまうのだけれど。
「いや、経理課が泣きついて来たんだよ。どうしようクダリさん、今月二度目だってね」
「う、申し訳御座いません、どうにも熱中してしまいまして、ええ」
「この分じゃバトルビデオも期待できないな。まあ、以前に比べたら被害も小さいさ」
以前というのは、つい先日である、今月一度目の大破だ。あの時は、老朽化していたプラットホームと、更に車両の半分以上が木っ端微塵になったんだから、今回はそんなに大したこともない筈だが、それにぼくらの価値観から言えば、勿論愛してやまない地下鉄をぶち壊してしまったことには気を病むけれど、致し方ないという思いもある。これだけバトルが進化を続ける昨今では、もはや地下鉄というバトルルームは消耗品だ。気まずそうにして、ぼくを見つめたノボリは鍔をぐいと下げたかと思うと苦々しい表情を隠した。不服そうでいて、しっかりと自らの失態を認めているこの姿が微笑ましくて、つい表情筋が弛むけれど、大体に於いてそんな顔ばかりしているものだから、まるで気づかれはしなかった。
「流石に建て直しただけあってホームや天井は罅一つないね、素晴らしい技術だ」
「いえ、ここはそうですが、他はどうか分かりません」
「と言うと?」
「…忸怩たる思いですが、見回りに行きたいと」
溜め息混じりにそう口にしたノボリは、ぼくよりも長い睫を伏せてホームをぐるりと眺めた。こうなれば整備員に任せるのが一番手っ取り早くて安心なんだろうけど、やけに使命感を感じている彼はこうなるとひどく頑固で、人の言うことなんか聞きもしないものだから、ぼくも溜め息をついた。見回り、見回りね。その言葉に、ぼくの頭は恐るべき速さで閃きを齎した。改装したばかりの恐ろしく高い天井の隅に見えるバチュルの群れがパチパチと発電する音が反響して。
「ねえ、ぼくも一緒に行ってもいいかな。どうせこんな煙たいんだ、ダブルも運行中止だよ」
「しかし、貴方にまで迷惑をかけては…」
「まあまあ、二人で回ったほうが安心でしょ」
申し訳無さそうに眉を顰めるノボリを漸く口説くと、受付の女の子に見回り用の懐中電灯を二つ用意してもらい、それを受け取った。僅かに上気した頬からはとても憧れと呼ぶには邪な想いを感じて、つい足早に逃げる。そうしてノボリの元へと戻るとぼくらはコートと帽子を脱ぎ、鉄道整備員へと預けると気持ちのいいくらい姿勢良くしたノボリを先頭に、ホームから降りた。体の節々が悲鳴をあげたけれど、まだそんな歳じゃないと言い聞かせる。顎を汗が伝い落ちると、グリースで固めた髪が僅かに乱れていることに気付いていたたまれなくなるが、生憎鏡なんて見当たらない暗闇に向かおうとしているわけだし、直しようがない。こればかりは直してくればよかったな、格好悪いじゃないか。そう考えても後の祭りで、ぼくはただ絶対に後ろを振り返りそうもないほどの勢いで先を歩くノボリの背中を、数歩後ろから眺めていた。もはや見回りというには速すぎる歩行速度で先を行くノボリが、浮かれ騒ぐ子供のようで面白い。
「ノボリ、きちんと見えているのかい」
「勿論。クダリこそ、わたくしに着いて来れていますか」
「ふふふ」
ピクニックみたいだな、とぼんやりと考えた。手に持つ懐中電灯がなければほんの先まで深い海に沈んだようにして何も見えないのに、ノボリは臆することなくどんどんと先に進んでいく。(ああ、これだ)。革靴の底で踏みしめた砂利がまるでぼくみたいだった。君はこんな誰も彼もがいない海の底のような場所だって、一筋の光が射しているように見えるのかい。暗闇など恐ろしくないと言いたげな背中に、ぼくはまた微笑んでしまった。君の純潔を摘んでしまいたいぼくの欲望と、まだ兄弟でいたい理性心がぐるぐると喧嘩をしている。このままじゃバターになりそうだ。背に浮いた汗の所為でシャツが張り付くことさえ厭わなかったのは、どうしてだと思う?馬鹿げた問い掛けをする勇気を持たないぼくは、ただ疲れたふりをして溜め息をついた。君が先を歩いてくれて良かった。こんな格好悪いぼくなんか、見られたくないからね。

歩いても歩いても、最後のホームには辿り着きそうになかった。流石のノボリも息を絶え絶えにしながら、それでも相変わらず足早に歩いている。線路の上を歩いているとまるであの青春映画のようで、ここが地上だったらなと少しだけ惜しくなる。顎から滴り落ちる汗を拭うとすっかり気持ちの悪くなった手袋を取り去って、スラックスのポケットに押し込んだ。乱れた髪を普段と同じ様に撫でつけると、今まで通過してきた4つのプラットホームに常在している鉄道員の顔を思い出して少しだけ可笑しくなって、それでも疲労に満ちたぼくの脳は中々どうして、笑みを作れない。空調の具合も大分おかしいようで、辺りには地下特有のもわりとした熱気が散乱していた。不穏で恐ろしい波が打ち寄せてくる。目一杯に体を寄せて、それに備えるぼくは弱虫で、とても格好悪かった。
「ノボリ、少し休もうよ。何だか変だ」
「いえ、わたくし達は、休んでいる隙など、御座いません。一刻も早く、異常の有無を調べ、一刻も早く、このスーパーシングルトレインを戻さねば、ならないのですよ」
「それもそうだ、君はいつだって正しい」
ため息をついて両手を上げた。お手上げだ。熱中した彼はどうにも人の言うことを受け流しすぎる。先を行くノボリを眺め、しかし、大して困っていない自分に気がついた。いや、それは語弊があるだろうか。困ってはいる、けれど苦ではない。この風変わりなピクニックをすっかり楽しんでしまっているぼくだって、誰かに「おかしい」と指を指されても文句は言えないのだ。もしもそんな人がいたならぼくは腹を抱えて笑うだろう、君は、愛する者との2人旅が楽しくないと言うのかい。生憎ぼくは、楽しくてたまらないのさ。
「中々、辿り着かないものですね」
「まだ歩いて1時間くらいだもの」
「ああ嘆かわしい、あの時の自分を絞め殺したい、」
随分と物騒な単語が耳に届くや否や、ノボリが息を詰めたのが分かった。そして、あれだけ軽い足取りで歩いていた彼が急に歩みを止めたものだからぼくは急ブレーキもままならず、その薄い背中に追突した。そんな玉突き事故は気にもしていないのか、ノボリはただ何ともいえない背中を向けたまま、足元を眺めている。彼の手にした懐中電灯も足元に向かい項垂れているようで、ついぼくもそれへと目を向けた。そこには丁寧に手入れのされた革靴と、今の今まで革靴の一部だったもの。つまりはその靴紐が、結び目から千切れている。まるで何年も前からずっとここにありましたよと言わんばかりの雰囲気でもって、その身を横たえている。ぼく達は同じだけ目を見開いて、同じだけ動揺していた。「嘘でしょう」。飛び出た言葉さえまるで同じもので、ぼくはなんだか少しだけ面白くなった。何を楽しそうに、と訝しげな目を向けるノボリの姿が拍車をかけている。
「そんな馬鹿な、いえ、有り得ません。いきなり、こんな」
「まあまあ落ち着いて、その靴はもう履けそうにないんでしょ?ならぼくのを履きなよ、サイズなら一緒だし」
「そんなわけにはいきません!ただでさえ迷惑をかけていますのに、」
「それとも、ノボリは弟に背負われるほうがいいのかな?」
大人しく紐の切れた靴を脱ぎだしたノボリに、ぼくはやはり笑いが止まらなかった。

靴を貸してから、何分経ったか分からなくなってきた頃、ふと先を行くノボリの懐中電灯が切れた。もはや呪われているのではないかと勘ぐるほどの不運続きに同情しつつ、今度はぼくが先を歩く。先程から辺りに木霊する風を切る音が頭を痛ませた。しかし、ひょこひょこと不格好に歩き続けるぼくの後ろ、懸命についてくるノボリの姿を想像するだけでもうどうだって良かった。だから、つい口が滑った。
「ノボリ」
「はい、何でしょう」
「ぼくはね、君を愛してるんだ」
「…はい?」
絶えず後ろを付いて来ていた足音がはたと止まった。ぼくの口から滑り落ちた言葉は、きっと彼の中で坂を転がり落ちる岩のような速度で重みを増していってることだろう。それでも気付かぬ振りをして、彼から距離を取る。風を切る音が聞こえる。
「真面目で、気難しくて、少し抜けてる君を、愛してるって言ったんだ。君は多分こんなこと、考えたこともないだろうけどね」
ノボリはまだ、歩かない。与えられた文章題が読み解けなくて頭が真っ白になってしまった人間のようだ。突然のぼくの告白に、ノボリは少しおかしくなってしまった。もう少しだけ止まっていてくれ、もう少しだけで良い。願いが届いたのか否か、そんなことはどうでも良いけれど、暗闇に僅かな光が浮かぶ。待ってましたとばかりにぼくは懐中電灯を後ろのノボリに向かって投げる。何とかそれを受け取った彼は呆けた表情のまま、ぼくを見ていた。
「ね、丁度線路の外の、そっち側の壁に大きな罅が見えたんだ。少し見てくれないかな」
「え、ええ。でも、」
「ほら早く」
ぼくの催促に、ノボリは渋々背を向けて有りもしない罅を探しに行った。それと同時に僅かに浮かぶばかりだった光源が強大になる。有り得ない速度で距離を詰めてくるそれは、思った通り見回りの巡回車両だ。
「ノボリ、一つ賭けをしよう」
「はい?」
「ぼくが生きてたら、キスしてよ。死んじゃったら、それだけさ」
そこでやっと事態を呑み込めたらしいノボリは、迫り来る電車に顔を引きつらせた。ぼくはただ目を瞑り、全てをシャットアウトする。世界を信じろ。この名言が一体全体どの偉人のものだったか、生憎、思い出せそうになかった。


きらきらとひかる涙が飴玉のようだなとおもった。茫然と映画をみているような感覚で眺めているときりっと目つきを鋭くさせてきみはぼくを睨んだ。にらんだ。
「死んだら、どうするつもりだったのですか」
ごめんねなかないでよ、だってぼくはただきみに笑ってほしかっただけなのに(ああでも、きみは泣いた顔だってきれいなんだ、困ったなあ)。
本当は、全て冗談だと言って笑い飛ばすつもりだった。見回りの車掌には予めいる場所を伝えてあったし、ほんの寸前で止まるなんていう動作は彼らには自分の指を曲げるように他愛もない。だから、ひかれそうになった振りをして少し脅かしてみたかった、ただそれだけなのに。
「ごめんねノボリ」
「許しませんよ、決して」
「うん、ごめん。もうキスしてなんて言えないなあ」
そんなことを言っていたら、何とも可愛い顔で怒られてしまった。わたくしがどれだけ、心配したか、恐ろしかったか、貴方には分からないのでしょうね。ああどうしようノボリ、なんだかこんなにも泣いている君を見て、ぼくは嬉しいんだ。心臓がどきどきと煩いんだ。
「ごめんよ。だから、どうかぼくにキスをさせてよ」
星のように美しい涙を流す、愛しい君よ。ぼくの腕の中だけで笑っておくれ。







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