「目が覚めれば英雄だった」
そんなことを呟いた彼を眺めていた。やけに清潔なボタンダウンシャツを着て、整った指先を動かしているギーマくんは、まるで夏が似合わないもので(まあ、こんなぼくに言われるほどには)何とも不自然だ。強い日射熱がアスファルトに陽炎を作っている。その殆どが嘘で出来ている彼は、冷ややかな顔をこちらに向けて薄い唇を歪ませていた。こんな気温なのに、汗もかかないのだろうか。頬を伝う汗を煩わしく思いながら考えていると、わざわざ助手席のドアを開けられたものだからため息をついて乗り込んだ。青白く澄んだその表情が人形のようで、少しだけ気持ちが悪い。
「そんなことを言いに、わざわざ来たの」
「まさか、君とドライブがしたかっただけだよ。それにしてもこのヒウンは相変わらず美しいな、誰もが必死になって動いている」
何も込められていない言葉は優しく閉められたドアの音よりも響かず、ただ消えていくばかりだった。手入れのされた車内は塵一つ見当たらず、ぼくの存在などはまるで不釣り合いであるように感じる。いつ乗ったって綺麗に整理された車内にはゴミ一つ落ちていなくて、それが気持ち悪い。
「英雄、ね」
呟いた言葉に少しだけ彼が此方を向くのが分かったけれど、気付かないふりをして窓の外を眺めていた。どこを見渡しても人が忙しなく走り回っている様子は、地獄みたいで恐ろしくなる。アーティ、と一度だけ名前を呼ばれたが、でもそれっきりだった。遠ざかる街並みと太陽光に焼かれながらも、目を閉じる。


彼は四天王で勝負師の、ギーマである。あくタイプの使い手で、それはもうぼくなんか比べものにならないくらいバトルが上手だ。天より高いプライドを持っているものだから、自分に落とせない女はいないと思っている。けれどそれも確かだ。世の中の九割の女性は彼を愛してくれるだろう。そしてぼくは、そんな彼の友達みたいなものだ。友達と言うほど輝かしい関係ではないのかもしれないが、それに準ずるものだと言ってもおかしくはない。付き合いは二年くらい、ぼくがジムリーダーに就任してからの仲だ。彼には何人も彼女たちがいて、一週間に別々の女の子と寝ていた。色情魔というわけではなく、それは一重に彼女たちを愛しているからだと言う。勿論必要なこと以外は包み隠さずがモットーな彼だから彼女たちにもその事情は話しているというけれど、不思議と恋愛トラブルというものは少なく、皆納得しているようで、ぼくとしてはなんだか魔法でも使っているんじゃないかとすら思えた。うん、彼のことだから使えてもおかしくない。だってそんな慈愛に満ちた恋愛ってないでしょう。ぼくがそんなようなことを言うと決まって彼は言う。気味の悪い笑みを浮かべて、
美しい声で言うんだ。「可哀想なアーティ、愛を知らないんだな。教えてやろうか?」
反吐が出る。


閉じていた目をゆっくりと開ければ、空はオレンジジュースをこぼしたような色をしていた。空の彼方を鳥が飛ぶ様子を眺めながらも、何とはなく、彼が何か話すのを待っていた。そしてクジラのように大きな車がハイウェイを飛ばしていく様を想像する。思った通り、彼は話し出した。
「…いや、英雄になりたいわけじゃない。ただ愛されたい。あらゆる者に愛されたいんだ。そうしてないと不安なんだよ、一人でいるのが怖いんだ。一人の夜が」
「なにを怖がっているの」
「なにを、なにをだろう。アーティ、君は怖くないのか?通りを歩く全ての者が否定してくるような、そんなことは考えないのか?彼女たちが陰口を囁く声が聞こえてこないか?」
「ぼくは他人には興味がないからなぁ」
ふつうの人は、そんなことを考えて生きているんだろうか。それってなんだか面倒くさくないかな。ぼんやりと過ぎ去る景色に埋もれる思考は中々輪郭を表さず、相変わらず滲んでしまっている。あれだけ晴れていた空には雨雲がぽっかりと浮かんでいた。遠くの空は濃いグリーンになって、嵐がくるのかなとまたぼんやりと考えた。
「ギーマくん、煙草吸わないの?」
「ああ、忘れてきたんだ」
「珍しいね」
「そこのパーキングに寄って良いかい?夕食を買おう」
「今更そんなことを聞くの。ギーマくんって変な人」
「愛しき者には真摯に接するさ」
「ぼくは君のそういうところが、少しだけきらいだよ」
顔も見ないで告げると、高らかに笑われた。それがなんだか気にくわなくてまた口を閉ざす。少しだけ嫌いで、あとの部分は、よく分からなかった。
パーキングに停めた車の中、気怠そうにシートベルトを外すギーマくんを視界の端で意識していた。雨雲が近付いてくる。薄暗いあの空から今にも恐ろしいものが降り出しそうだった。
「…簡単に愛しいとか言うひとは、嫌いだ」
「嘘を言った覚えはないんだがな」
「それなら言い方を区別すべきだよ。彼女たちとぼくがまるで同じみたいじゃ」
それを言い終わる前にぼくは口を閉ざした。と言うよりも閉ざされた。べろりと口腔を這いずり回った舌は驚くほど低温で鳥肌が立つ。頭の後ろに回った手が逃げ場を無くしていることに気が付いた時には、おかしくなりそうだった。伏せられた睫が刺さりそうだなと考えるくらいには、既におかしかったけれど。ミントの舌を黙って受け入れていると、きっかり三十秒で離れていった。その瞬間吐き出しそうな心地に見舞われて、手で口を押さえるとまた高らかに笑った彼に溜め息をついた。
「アーティ、これでも不満かい」
「不満だとか、そう言う問題じゃないよ」
「良いかい?人を愛するっていうのは、哀するってことなんだ。だからわたしは、君を誰よりも愛しているんだよ。愛すら知らない君をだ、アーティ、君だけは理解出来るはずだ」
窓ガラスに一本の黒々とした線が走ったかと思うと、それは無数に増えていった。辺りは鬱蒼とした木々に囲まれて、ぼくら二人だけが孤立していくようだった。髪を撫でていた手が頬に移り、ほっそりとした指先が輪郭をそうと涙が零れ落ちた。指がそれを優しく掬うのをぼんやりと眺める。滲み消えゆく。
「なにを泣いているんだ」
「ギーマくん、ぼくらは、ぼくらはきっと、もう会わないほうが良いんだね」
「そんなことはないよ」
「もっと早くに気付いていればよかった」
そうしたら、こんなにも死にそうな思いはしなかったのに。天使が歌うように滑らかで美しい声はぼくの耳を傷付け、優しく触れる手はぼくの顔を爛れさせ、熱く奪う唇は全てを知らしめた。君がいなければ、ぼくはずっと美しく無垢でいられたのに。
「アーティ」
「いやだ、どこへでも行ってよ。お願いだから」
「どこへ行っても、君はわたしを求めるだろう」
甘い言葉が毒の棘を体中に突き刺し、蝕んでいく。虚空を突き刺す歌に耳を塞ぐことさえ忘れて。どこへでも行って、でなければ、側にいて。正反対の願い事を聞き入れてはくれない彼は、また気味の悪いくらい優しげな笑みを浮かべてぼくにキスをした。出来ることならこの悪魔みたいな男を幽閉して死んでしまいたいのに、どうして彼を束縛できるだろう。この腕はこんなにも心地好いのに。
目を瞑って考えるのは、この始まることも終わることもない関係。君はきっと地獄からやってきたんだろう。アスファルトの上に踊る陽炎に紛れてやってきたんだろう。美しく、不安定な君が恐ろしくて仕様がないんだ。いっそのことぼくを壊してくれたら良かったのに。
あっという間に離れ、車をおりていったギーマくんから目が離せずにいる自分が情けなかった。他人には興味がない、なんて笑ってしまう。灰色に染まった世界で彼の姿が溶けだしていく。頬を滑った指の感覚だけがジクジクと根付いていた。
「…どうして君を愛さずにいられるだろう」
可哀想なのは君の方じゃないか。








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