ごし、と目を擦っても視界はぼやけたままであった。四月の空がどれだけ青く、生臭いことだろうかと、大した興味も無さそうなままに話し続けている弟を後目にわたくしは再び目を擦ったが、どうにも取れそうになかった。閉鎖された四角には窓なんてものはなく、ただ不衛生なまでに衛生的な真っ白い壁が天井に伸びていく。先程から意味のない話をつらつらと話しては終わっていく弟は、そんなわたくしをいささか不思議に思っているようであった。
「クダリ、目薬なんかを持っていますか?」
「ああ、うん、どうぞ」
つるりとした指先をぼんやりと眺めながらも手入れのされていない爪に眉を寄せ、手渡された目薬をさす。緩慢な様子で帽子を脱いだクダリはわたくしを見つめると溜め息をつき、染み一つない天井を見上げ、胸ポケットへと指を伸ばした。
「吸うのなら、外に行ってくださいまし」
「…吸わないよ」
両手をあげたクダリは口元だけを緩めて笑うと綺麗に揃えられた髪をグシャグシャに乱しては自分のものではないのに終わらない始末書に手を焼いている様子である。それもそうだ、いつもならば彼はこういった事務を仕事にしているわけではないし、機械類の操作だって得意としていなかった。それでもこうして向かい合ったデスクに座っているのは、早い話が人材不足且つ、資金不足だ。本来ならばわたくし達の関係がない部分にまで手を回さなければ機能しないなどとは考えられない事態だが、事実そうなってしまってはもはや笑いさえ浮かばない。パソコンと向かい合いすぎたが故の疲労は眼孔をギシギシと軋ませた。幾らの目薬を差していれば楽になるのだろうか、全く、教えてほしい。しかし普段からこうしたデスクワークに携わるわたくしはまだしも、クダリはと言うと既に限界を来しているようである。先程から決して外郭には表さぬようにと気をつけてはいるが、無意識の内に彼は貧乏揺すりが止まらなくなっているし、舌打ちも二回ほど聞こえた。ということは同じだけわたくしも無意識の内にそうしてしまっている、ということだ。やれやれ全く、頭の中を占める不景気の三文字に再び舌打ちをしそうになった。いけないと頭を振り、光源に向き直るものの、どうしたって集中力の限界はあるものだ。実際問題ろくに休憩も取らず、サブウェイを閉めてから六時間も経過していた。頬が引きつり、瞼が痙攣する。ああしまった、こういった事態においての時間感覚は殺しておくべきだった。ついには三度目の舌打ちをこぼすと、向かいに座る髪を乱したクダリがヘラヘラとした笑みを浮かべわたくしの顔を覗き込んだ。薄い唇の端が切れている、と思った。
「疲れてるね」
「ええ、あなたにまで手伝わせてしまい、申し訳御座いません」
「ぼくはいいさ、タフだし。ねえでも少し休憩をとらないかい?」
クダリの提案は酷いくらい優しい声色で、脳を揺らした。休憩そうだ、それを取るしかない。集中力を欠いたまま仕事を続けてなんになるだろうか、結局、後で困るのはわたくし達ではないか。心優しく紳士的な弟の提案に、感嘆の吐息をもらす。
「そう、ですね…そうしましょうか」
「ぼくは夜食とコーヒーを買ってくるけれど、君は何か食べるかい?」
「では、一番甘そうなチョコレートをお願いします」
もはや停止しかかった頭を動かすには糖分しかない、と思いそう告げながらも未だ被ったままになっていた帽子を取るとコート掛けのフックに被せ、椅子から立ち上がり体を伸ばす。そんなわたくしの様子に微笑みながらもデスク上に投げ出されていた小銭を幾らかポケットに入れ、彼は軽い足取りで事務室を出た。深夜とも明朝とも付かぬ午前四時、漸く緩めたネクタイは淀んだ空気を運んでくるばかりだった。クダリが帰ってくるまで二十分はかかるだろうか、ああ見えて優柔不断な弟の姿を思い浮かべながらもジワリと汗ばんだ手袋の内側に苛立ちが募る。シャワー室はすぐ側だし、どうせこのまま朝まで帰れない。幾ら不衛生に見えると言ったって、浴びないよりはマシだろう。首から下げたクロスだけが清らかであり、何にも犯されぬ美しさを保っていた。

「ただいま、遅くなっちゃったな」
「いえ、構いませんが…あなたまたそんなに買って、太りますよ」
「息抜きだよ、息抜き」
強調するように言い訳をしたクダリをじとりと睨みつけたが、大して気にしているわけでもなさそうに袋の中一杯に詰まった新商品の菓子を漁っている。わたくしの考えを大幅に超えるほどの時間をかけて帰ってきた彼は未だ髪を乱したままだが、服装だけはきちんとしていた。結ばれたままのネクタイは苦しげである。差し出されたチョコレートの封を開け、何も考えぬままに口に含む。広がる甘さは舌が痺れるほどだ。眉を寄せチョコレートを食べ続けるわたくしもクダリも、暫くは黙っていたが、ふと彼が口を開いた。何かを思い悩むようなどろりとした瞳だった。
「ああ、シャワーを浴びたんだね」
「すみません、お先に」
「いや構わないよ」
そう言うと袋を置き、距離を詰めてきたクダリはどこかおかしく見えた。白熱灯の下で、淀んだ空気が更にどろどろと汚れていく。
「調度良かった、ぼくは綺麗にしてる君が大好きだからね」
「…クダリ、あなた、酔っているので?」
「まさか」
壁に追い詰められ腰に手を回され、流石におかしいと気が付いた時にはもう遅かった。視界がぼやける程近付いたその顔は寸分と違わず自分と同じである筈なのに汚れて見える。彼の首元に映える情事の痕が、それを一層引き立たせて。
「ところで兄さん、君の神様は、誰かを救ってくれたかい」
「…全能なる神は全ての御子に救済の手を伸べて下さります」
「素晴らしい回答だ。模範的で、クリーンで、気違い染みている」
腰に回されていた掌がゆっくりと移動し、首を撫でたかと思うと徐々に力がこもる。呼吸が詰まる程度の力が加えられると、再び視界が滲み出す。この男は、どうしてこんなことをするのだろうか。クダリの姿を借りた悪魔を睨み付けながらも必死に呼吸を繰り返した。
「さて、君の神様は、実に可哀想な兄を助けてくれるだろうか」
歪み、つり上がった唇に背筋がゾッとしたのと同時に猛毒にまみれたものが呼吸を塞いだ。その瞬間、無意識ながらも拳を握っていた腕を振りかざす。人の肌にめり込む嫌な感触に目を瞑ると、途端に器官を巡りだした空気に驚き、咳き込んだ。椅子を蹴飛ばして倒れたクダリはそれでも笑みを絶やすことなく、ゆっくりと立ち上がると垂れた鼻血をべろりと舐めた。吐き気がする光景に、今すぐ逃げ出したくなる。触れた唇から犯されていくような思いだ。
「何を、するのです、こんな」
「はは…汚らわしいって?君だけが美しく清潔であるような物言いだね。ぼくは汚いかい?」
「クダリ、あなた…」
「そんな顔しないでよ」
ただの息抜きじゃないか。そう続けたクダリの、未だ歪みの残る笑顔が何より恐ろしい。朝の近付く世界で、この四角だけがどこまでも淀んだ深夜の空気を孕んだまま、綯交ぜになっていくようだった。出来ることなら吐き出してしまいたい醜さに溺れる。手は外されたのに、呼吸ができない。肺一杯に紫煙が溢れると、涙が出た。禁忌を犯してしまった弟を救うこともせず、自分ばかりを愛しむこの醜い自慰精神が、何よりも汚らわしいのに。
「わたくしはあなたの、兄ですよ」
「なんだっていいんだよ」
「お願いですので、そんなことはお止めになってくださいまし」
「穴さえあればさ」
何よりも汚らわしく、何よりも愛おしい、そんな自分こそが汚いと、そう突き付けるその瞳が恐ろしい。逃げだしたいのに、歪な唇がそれを許さない。ああ、神よ。
「神様より、ぼくのほうが君をどうかしてやれる」
べろり、這い出た舌からもうもうと立ち上る紫煙に溺れていく。溺れて、逝く。
溺死








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