夕暮れ時に飲むラムネが大好きだった。ラムネを飲もうとビー玉を押し下げれば、それだけでガスが目に滲みるので何度か瞬きをしなくてはいけない。そうして世界がずぶ濡れになっていくのを黙ってみている。この世界が誰かの水槽の中であると気付いたのは三十の前だった。


「わからないな、君の言っていることが」
溜め息混じりに告げたクダリは珍しくも苛立ちを隠せないようだった。奇才と謳われる弟は未知の分野を突き進む学者だ。伸びたスウェットの上にパリッとした白衣を着て、そうして熱心に顕微鏡を覗いている。近頃乱視が酷くなったとボヤいていたものだがそれはその何よりも大事な研究の所為ではないのかと、そう問いたいのもそのままに、わたくしはその丸まった背中を眺めていた。筋肉質であるものの、薄い背中はまるでアスリートのようだ。科学者でなければアスリートにでもなっていたのだろうか。どうだっていいことの答えばかりをスラスラと導き出す頭はギシギシと歪み、今にも爆発してしまいそうに思える。そうして、再び思い返した。わからないな、君の言っていることが。
「わたくし、専属大学の契約が今年一杯で切れてしまうのですよ、なので、更新せずに、このまま隠居してしまいたいのです」
「…それが分からないんだノボリ、君のように優秀な教授がこの先何人現れる?大学ならもっと良いところにぼくから話をつけておくよ、身体的不備なら…そうだな、半年の休暇だってすぐに取らせてくれるような地位だ」
「お気持ちだけ受け取らせていただきますよ」
素っ気ない返事をすれば漸く彼はこちらを向いた。年期の入ったパイプ椅子をぎしりと鳴らせば、まるでそれがわたくしの脳味噌であるかのようでゾッとする。彼が苛立つ原因は二つある。上手く研究の結果がでないこと、そしてエアコンが寿命を来してしまったこと。汗の滴る細い顎を眺めながらも、つくづく彼は素晴らしい男のように思えた。程度よく日に焼けた肌も高い身長も薄付きの筋肉も、荒れ果てた研究室で宝石のような光を放っている。ジワジワと鳴き荒らす蝉の断末魔が反響すると、遂にはぽたりと汗が滴り落ちた。
わたくしとクダリは一卵性双生児であり、瓜二つな外見を持っていた。しかし成長するに連ねて特徴を表し、わたくしは僅かながらに学力も体力もそして背も、追い抜かれてしまったのだ。わたくし達は共に育ち競い合い、そうした上での今なのだから、確かに認めざるを得ない。今一つ欠けた能力でもわたくしは脚光を浴びることができたし、羨まれる程度の成功もおさめてきた。しかしクダリという完全体は、格が違う。発見されなかった学術的考え、科学者であり生物学者である彼は何度も世界に影響を与えてきた。二十の半ばになる頃には他の追随を許さぬほどの天才に成長し、兄であるはずのわたくしでさえ惨めになるほどの、圧倒的奇才。何もかもを凌駕する存在、それがクダリだった。そんな存在を前にしてわたくしはもはや学者であることを諦めてしまった。そうして有名大学の教授となり、大体のことは出来るようになった。大体が三年も前に決まり、そうして今へと繋がっていく。話を戻そう。わたくしとクダリはそれぞれ、未来を育てる仕事柄であった。それだけだ。
「ノボリ、ぼく達は今までずっと一緒だったね、ご飯を食べることも、学問の道に進むことも」
「それは違います、あなたとわたくしとでは、生まれもっての違いがあるのです」
「違いがあるから何だよ、そんなの当たり前じゃないか…君さえ離れていくというの?」
苛立たしげに立ち上がったクダリはそう吐き捨てると少しだけ冷静になったようだった。そんな彼に何も含まぬ視線を送りながらも、何故だか心の奥底が焦がれるような気持ちでいっぱいだった。開いた窓からブワッと都会の風が吹く。大気汚染されたものたちが死に場所を求めて駆け回っているのだ。それでも、嬉しかった。口金を抜く音が聞こえたような気がした。
「君と…ずっと一緒にいたいから、ぼくは死に物狂いで…」
「わたくしは、ただあなたと、ラムネが飲めれば良かったのですよ」
「意味わかんない、ぼくのせい?ノボリ、どうしちゃった?」
「ふふ…昔のような話し方ですね、懐かしい」
白痴者のような話し方しか出来なかったかつてのクダリの姿に、つい笑みが零れる。遥かなる才能の裏に付いたのは幼児退行だ。今でこそ制御しているものの、彼は話し方が上手いほうではなかったはずだった。じわりじわりと蒸されるような室温。生温い風を放り込まれても、笑うしかなかった。ただ、ギラギラとした日に照らされた弟の姿は目映いほど美しく、それはもはや、手の届かないところにいるもののようだ。こんなことならばもっと抱かれておけばよかっただろうか、自嘲気味に考え、首を振る。足枷であった自分がいかに卑しいか、知らないわけではなかった。ただ側にいたかった。
「そうですね、わたくしが、まだ見ぬ未知の生物であったら、あなたのそばにいられたでしょうか、ねえクダリ、それとも、あなた自身が――――」

ずっと昔、まだ話の上手くなかったクダリが言ったことが今でも忘れられない。ここ、ぼくのもの。みんな、ぼくのもの!高らかに笑ってそう言った彼を当時笑ったわたくしのなんと愚かでいて浅はかなことだろう。それは紛れもない事実だった。柔らかな頬に光る淋漓さえも、彼のものだったのだ。この水槽の世界の持ち主は誰か、考えるまでもなかった。しかしわたくしはそれが悲しかった。一匹の脱出で容易く崩壊する水槽ならば、そうしたほうが良いだろう。誰よりも弟を愛していた、誰にもやりたくなかった。ガラガラと全てが崩壊する時まで、共にいなければいけなかった。
灼熱のヒートアイランドで、わたくしはただ、一人の人間として弟を愛してしまった。今にして思えば、それだけがわたくし欠けた兄である生物の問題だったのだ。
淋漓







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