あの日、数分しか変わらない弟が我が儘を言ったのは初めてだった。思えば本当によく出来た弟であったから、むしろ面倒を見てもらっていたのはわたくしであったような気がするのだけれど、そもそもあれを我が儘と呼ぶことすら戸惑ってしまう。二十五から煙草を吸い始めた弟がその匂いを漂わせながら風呂へと消えたのをぼんやりと眺めていたらいつの間にやらうとうとと瞼が重たくなり始めたのだ。兄さん、と呼ぶ声が聞こえたって返事すらもできないほど。

一緒にごはんを食べよう。そう言った弟の顔は忘れられないほど赤かった。深夜バイトの帰り、脱力しきった体を奮い立たせ風呂に入り、上がったときだった。いつもならば寝ているクダリが起きて来たのだ。どうしたのですか、聞くよりも早く顔を赤らめてクダリが言った。兄さん、お疲れ様、ねえ、一緒にごはんを食べないかい。うまくはたらかない頭はその言葉を処理するまでに一分以上もかかってしまった。一緒にごはんを、ああ、ええ勿論ですよ、今作りますからね。言って冷蔵庫を開けたわたくしの手を掴むとクダリは微笑んで椅子に座らせた。そうしてオートミールに簡易サラダを用意すると二人でそれを食した。今になるとわたくしは、あの時クダリが何を思ってそうしたのか、よく分からなくありつつある。照れたような困ったような、そんな顔だった。

わたくしの若い頃と言えば、サブウェイマスターを目指しつつ昼は引越屋や花屋なんかのバイトを掛け持ちしながらも夜はバトルの練習に明け暮れていた。十代も終わりの時だ。親がいないわたくし達の生活を支えるのは少ないバイト代であったし、何より、サラリーマンなんかは御免だった。(と思っていたものだったが、サブウェイマスターなんてのは公務員なのだから、あの頃のわたくしの輝かしい意志はすっかり無に帰してしまった)
せめてクダリはと無理を言って大学に行かせ、わたくしはただいつ終わるとも知れない堕落した生活を続けていた。しかしクダリもまた、部活動にも入らず、一般的な大学生とは言えないような自立した生活をおくりはじめていた。同じ家に住んでいる身であるに関わらず、幾日も顔を合わさない日々が続いていた矢先だった。顔を赤くしたクダリなど初めて見たわたくしはやはり言葉を失い、頭も真っ白になったまま、ただ施され続けた。オートミールをすくって食し、何の価値もない野菜をバリバリと食べた。狭いテーブルに向かい合って座り食事をすることなんて何年もなかったことだったから、わたくしとクダリは食事の最中一言も交わすことなく、目の前のものをただ胃に押し込んでいた。本当ならば話したいことが沢山あったが、喉につっかえたものは、中々出て来なかった。大学はどうだ、彼女は出来たか。そのどれもがまるで父親のようで笑ってしまいそうになったのに、溢れるのは涙ばかりだった。牛乳に溺れたオートミールを見つめる。
兄さん、ぼくもサブウェイマスターになるよ、大学で優秀な成績をとるから、パイプになれると思うからさ。兄さんと一緒にいたいんだ。だから、二人で頑張ろう。

薄く目を開けば上気した白い背中が目に入った。背骨にそって流れ落ちる湯の拭き残しをぼんやりと眺めながらも考える。何もかもが夢だった。恐ろしいくらい昔のことのように思えたけれど、こればかりは紛れもない事実である。枕元に置いたラークマイルドのボックスから一本取り出し、火をともす。再び目を瞑ると、赤い顔をしたクダリはどこへともなく消えてしまっていた。わたくしも彼もサブウェイマスターになれたからだろうか、どうだろうか。オートミールが甘かったのかどうかさえ定かでなくて。
あれから十年が経った。天井に向かって煙を吐き出し、頬を伝った涙を拭う。そして背中に向かい声をかけた。ねえクダリ、一緒にごはんを食べませんか。
経過








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