七月一日の空は晴れていた。掌で影をおとしながらもトリコロールカラーのスクーターに乗るとヘルメットを被る。じわりと汗がつたうのを感じながらも、こんな姿を見られたならあの幼なじみは何と言うだろうと考えていた。そんな滑稽な乗り物は捨ててしまえと笑うだろうか、それも良いな。ぼんやりと考えて汗を拭った。ジリジリと日射熱がぼくを刺し殺していった。


立ち並ぶビル群の一角、誰も彼も忘れてしまったような狭いビルのワンフロアそのものであるアトリエはひどく蒸し暑く、創作意欲を片っ端から削ぎ落としていくように思えた。眉を寄せて溜め息をつくと歪んで開け辛くなった窓を力任せに押し上げる。この部屋唯一の小さな窓なのに、こうも扱い辛いのはいただけない。第一に上げ戸なんてと悲鳴をあげたいところだがそれも安さには適わない。相場の二割引にもなっているこのアトリエには不思議な魅力があるのだ。近頃は金銭的に不自由をしているわけじゃないし、嫌みというのでもない。単純にぼくは暗くて汚い場所が好きだった。勿論小綺麗な空間にだって魅力を感じないわけじゃない。カミツレちゃんに連れて行かれたモデル御用達のヘアサロンだとかブランドショップだとか、そんなような場所だって好きだ。美しく洗練されていると思う。しかしそこが心安らぐかと言えばそうでもない。つまりは綺麗な女の子の部屋みたいなものだ。整頓されていて趣味も良いのだけど、落ち着かない。ぼくはもっと汚くしていたい。踏み入れるのに身形を正さなければいけないような部屋など誰が借りるだろうか。
それに不純な理由になるが、ここなら幾ら汚したって何も言われない。ヒステリックに絵の具をぶちまけたって、そのまま帰ったって何も言われない。掃除は週に一度日雇いで済む。そもそもヒステリックを起こすことだって少ないし、ぼくはわりと綺麗好きであるから堪えきれなくなるほど部屋を汚すことなんてまず無い。そしてもう一つの不純な理由が、恋人の勤め先に近いというものだ。有名大学の教授である彼は中々に忙しく、ぼくだって最近では寝る間を惜しみ仕事をこなす日々だ。互いに家を行き来する時間は無いが、何せぼくはまだ若い。それでいていかにも高級感溢れるホテルなんかであれば忽ちスキャンダルだ。少なくはあるがぼくはテレビにも出演するし、雑誌掲載だって少なくはない。だから想像もつかないような小汚い密会の場所が必要だった。言わば愛の巣だ。
剃ったばかりのツルツルとした顎を撫でながらも椅子に座り、本業の準備をしていく。放り投げてあった絵の具を手繰り寄せ壁掛け時計に目をやればまだ午後の三時。暑さもピークだ。再び額を伝った汗を拭いながらもパレットに手を伸ばす。恋人の仕事が終わる時間まではまだまだあった。


ふう、と溜め息をつき背筋を伸ばした。筆を置き再び時計へと目をやれば七時になるところで。
(今日もあの人は来るんだろうか)
ぼんやりと考え、天井を眺めているとインターフォンの音が響いた。「…はーい、開いてますよぉ」語尾をのばしたその声がまたひどく蒸し暑く感じる。日は沈みかけていたものの、どこかまだ世界は複雑な熱を発していた。これでもし強盗だったら、だとか一瞬考えたがわざわざこんなにも汚らしいビルを狙う間抜けがいるだろうか。考え直しつつ、ようやく天井から視線を逸らせば堅苦しいジャケットを小脇に抱えたスーツ姿の男が呆れたような顔をしてこちらを見ていた。その表情がまたため息のでるほど端正であり、恐ろしい彼こそがぼくの恋人であるハチクさんだ。
「…鍵をかける習慣をつけろと言った筈だが」
「そうでしたっけ?」
「わたしでなかったらどうするつもりだったんだ」
「んう、あなた以外にこんなとこ来る人いませんよ」
「アーティ、君はすこし危機感が足りないな」
そんなことはないと返す代わりに向き合うと笑みを作る。じわりと蒸し暑いこの部屋にも文句を言うことのないハチクさんは、余程ぼくのことが好きであるらしい。
「何から心配してるんです?」
「君には妄信的なファンが多すぎる」
「ならぼくを監禁でもしてくださいよ、ハチクさんなら良いですよ」
「…バカなことを」
「そうしたら毎日楽にセックスできますね、ここでするのもスリルがあっていいけれど」
微笑みながら言えばハチクさんはまた溜め息をついた。あ、溜め息ってよくないんですよ、というぼくの助言もまるで聞こえていないようだ。冗談抜きでぼくはハチクさんに監禁されたって良かった。絵さえ描かせてくれたら場所なんてどうでもいい。それに毎日ハチクさんと過ごせるならそれこそ本望だ。
「今日はやけに挑発的だな」
「早く抱いてほしいからですよ、そのスーツ姿見てたら興奮しちゃって」
ハチクさんの大きな手がぼくの腰を撫でるとそれだけでぞくぞくとしてしまう。熱い吐息を交わせながらキスをして目を伏せた。乾ききらない絵の具の匂いとぼくたちが溶け出す。
「ハチクさん、キスしてくださいよ」
「キスだけで済むのか」
「んぅん?いじわるだなあ」
「言っただろう、君はすこし危機感が足りないと」
言いながらネクタイを緩める彼は静かな炎を燃やしながらもぼくに覆い被さる。猛禽類のようだと考えては頬をべろりと舐めあげた。汗の味がなんともまあ、性的。
「わたしだからと言って気を抜くな」
「わあ、それってとてもエロティック、あのクールな教授がこんなのだったら教え子さんびっくりしちゃうでしょうね」
「今時珍しくもないさ」
それもそうだ。有名大学の教授がゲイだって新進気鋭の画家がゲイだってそんな二人が暑すぎる部屋の中でセックスしたって殺し合ったって世間じゃ大して変わらないんだ。ありふれたニュースだ。そんなことはどうでも良いんだ。
「ハチクさん、もっとキスしてください、息ができないくらい」
七月一日の空が最後まで晴れていたのか、ぼくは知らなかった。油絵の具にまみれた部屋で頭がおかしくなっていく。痛いくらい抱いてほしかっただけだったのに。
「…アーティ」
刺々しいほど優しくぼくの名を呼ぶあなたなんか愛さなければ良かった。
呼吸








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