ノボリが家出をしたのは、鼻先をくすぶる銀の風が吹く冬の終わりだった。理由はぼくが知らない女の子と知らないセックスをしたからで、多分それ以外に理由なんて無い。いや、分からない。ぼくには分からない嫌なことがあって、前から逃げ出したかったのかも知れない。しかしぼくには分からないことなら尚更、考えたって仕方ないんだ。いつだってノボリはぼくと価値観が同じだと思っているけれど、決してそんなことはないのだから、何か言ってくれなきゃわかるわけがないのに。
窓の外を眺めれば、どんよりとした不満でぶくぶくと肥えた鼠色の雲から光化学スモッグに蝕まれた汚らしい雪が舞い落ちていた。自分だけは綺麗だと言わんばかりの純白をして、何も知らないふうにドカドカと地を荒らしていく。荒廃した地を埋め尽くす見せかけの白は、知らない女の子を連想させた。
さて、今日の夜ご飯はどうしたら良いだろう。痛む頬を押さえて、考える。生憎と食事なんか作ったことがない。


ぼくが知らない女の子と寝たのは、今から三日くらい前のことだ。恐ろしいくらい寒い日で、きっと世界じゃ何人もが死んでいるだろうなと考えながら凍結した道路を、十五年もののフォルクス・ワーゲンで走っていた。これは確か初任給から三ヶ月ばかり貯めた金で買ったもので、エンジンのかかりにくさもさることながら、あらゆる音が煩かった。いつものようにきっちり四本のホープを吸い終えると、バトルサブウェイ近くの立体駐車場にとめ、(残念ながら、バトルサブウェイには駐車場が設けておらず、駐輪場くらいしかないのだから笑ってしまう)車のキーをモッズコートのポケットに仕舞い込んでまた一服。これはぼくの日課だ。ここ十五年、一度も欠かしたことがない。ノボリよりも少しだけはやく家をでる理由がこれだった。ノボリが酷い嫌煙家の恥ずかしがり屋でなければ毎日一緒に出社したって良いのだけれど。そこで腕時計に目をやって、いつもよりも時間が早いことを確認して、いつもは吸わない二本目に火をつけた。今思えばそれがいけなかったのかも知れない。良い気分でバトルサブウェイに着いたぼくに、「おはよう」と挨拶をしたノボリの隣、そこに、知らない女の子がいた。


「ねえクダリさん、私と寝てくれたら、父に資金を増やしてくれるよう、話をしても良いわ」
「ありがとう、でもぼくはゲイなんだ」
「セックスしてくれるなら、それでも良いの」
そんなような会話を交わして、ぼくは彼女を抱いた。愛の無い夜は無感動を与え、慣らさなくても突っ込める穴はぽっかりと口を開いていた。それは最初から男性器を受け入れるためのものなのだと感じながらも、ぬるついた体液がやけに気持ちが悪くてたまらない。おぞましいとさえ思った。ゴム管に突っ込んでいるような味気のなさを感じながらも、抑揚のない快楽に似たものを受けて、コンドームの中に射精した。適当な後始末をすると彼女はシャワーを浴び、ぼくはまたホープを四本ばかり吸った。高級ラブホテルの灰皿は場違いなクリスタルで、闇雲にベッドサイドテーブルの光を乱反射させているばかりだ。
部屋に戻った彼女は長く手入れのされた髪を拭きながら言った。
「約束は守るわ、来月には届くと思うから」
「ごめんね、煙たいかい?」
「いえ、平気よ」
「ああ…君も煙草を吸うのか」
「ええメンソールの一ミリを、少しばかり体を汚すのって安心するから」
「へえ、そう」
「あなたのお兄さんは吸わないの?」
「潔癖なんだ…優しくて、汚れを知らない」
「大事なのね」
「つまらないセックスだったろう?」
「少しね」
彼女はこれからぼくのことをつまらないセックスをする男と考えて生きるのだろうなと感じた。紫煙が二つに増えてからきっかり十分後、嗅ぎ慣れないケント・メンソールに喉を焼かれホテルを出た。地下駐車場に停めたフォルクス・ワーゲンの前で立ち竦みながら、腕時計に目をやる。午前二時丁度だった。


彼女は来月と言わず、翌日には手配をしてくれた。しかしそうしたことでノボリに行為がバレてしまい、なんとも痛快な右ストレートを食らうことになってしまった。今だって変に腫れた頬の内側は切れてしまって、暫くは何を食べても血の味がしそうだ。別にぼくは資金が欲しかったからセックスをしたわけじゃないし(それは、まあ、あるに越したことはないけれど)ましてや愛情なんかを感じたわけでもない。彼女がぼくに惚れていて、セックスを頼まれたからした。ただそれだけの話だった。しかしノボリは何も言わず、ただぼくを殴って家を飛び出した。殴ったのはぼくのためで、家を飛び出したのは多分、自分のためだろう。怒りに任せてぼくを殴ったことを悔いているのだろうか、彼が悩む理由は無いけれど、そういうことを悩む男だ。無音の部屋が恐ろしく、テレビをつければまるで海水のように音が流れてきた。
木金管オーケストラの心地良い旋律に心をふるわせながら瞼のうらに星を見る。つらつらと脳水をおよぐ音はあっという間にぼくを頭からぺろりとたいらげてしまった。ああノボリ、きみのようだなあなんて、柄にもなく思ったのさ。ああノボリ、
「きみにあいたいなあ」。それだけをぽつりと零したってなにもならないことなんか、知ってるけどさ。あんなにも意味をなさないセックスが愛しいなんてのはきっと、倫理的には駄目なのだろうと思う。
しかしぼくにはあの知らない女の子の顔も名前もまるで何も思い出せなかった。赤く充血した憤怒の瞳がぼくを睨みつけてしまえば、それだけで全てを忘れてしまった。一緒にメンソールのタバコを吸う女の子より、頑なに純白でいる兄を愛しているから。

目を閉じて、タバコに火をつける。ノボリが帰ってくるまでにこの部屋を煙で満たしておこう。そうしたならきっと彼はまた怒るはずだから。

「最初に汚すのはぼくなんだ、ぼくだけなんだよ」









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