「たまには、こんな夜も、わるくないですねぇ」
緩やかに伸ばした語尾につられてそっちに目を向けるときれいに整えられた髪を僅かに乱してテーブルに突っ伏したノボリを見た。耳まで赤いし当然アルコールくさい。はあとため息をついて。
「クダリ、注いでくださいまし」
「うるさいよ酔っ払い」
「わたくしのいうことが聞けないのですか」
「はいはい」
すっかり出来上がった兄は質が悪く、普段の生真面目さからくるマイナス要素が全て凝縮されているようだった。酒が好きなわけでもないようだが、今日は金曜の夜だ。酒ものみたくなるだろう。
「そんなにのみたいのなら飲み会に行ってくればよかったじゃない、悪いけれどぼくはつまみなんか作れないよ」
「違う…違うのですよ、クダリ、わたくしは何も、ただひたすらに酒に溺れたいわけではないのです」
「じゃあ、どうして飲むのさ」
「仕方ないからにございます」
仕方ない、仕方ないときたか。もはや空笑いさえ浮かべてみたが兄にはなんの効果もなく、ぼくもそれ以上に追求はしなかった。金曜の夜はすべての出来事を流し、棄ててしまう。数えることもできない昔に異国の娘に恋をしたのも金曜の夜であり、それをどうでも良く思わせたのもまた金曜の夜だったからだ。何も知らない風に微笑んで時々酒を注げばそれで、良い弟の完成なんだろうけれど、どうしたって不器用なぼくは表情に出てしまうし、兄の酔いつぶれた姿なんてのは、大体見てて気持ちのいいものではない。白い頬が血の気を帯び、機械的な人相が人間らしくなる。色素の薄い瞳が涙の膜を張り、今にも零れ落ちそうにも見えた。不安定に揺れている、そのわりには、溜め息混じりの吐息に浮かぶアルコールの下衆に似たものが興を冷ました。
「何か食べないと、体を壊すよ」
「御心配に及ばずとも、わたくしの体は元来からの欠陥品でして、」
「レモンでも齧っていなよ」
「レモンでは、頭が痛くなります」
「それならば何がいいの」
「ああ、ですから、わたくしは何もいらないのですよ、クダリ、放っておいてくださいまし」
それならば、自室に戻って飲んでくれないかしら、と喉元に引っかかった言葉をかみ殺して、溜め息をつくとようやく締めたままのネクタイに気が付いた。そう言えば帰ってきてからまだ、手も洗っていなかったっけ。ぼくはわりと不潔な男だから手なんか洗わなくたって平気なのだけれど、なんだって手なんか気にするのかと言えば、目の前で泥酔している兄の所為だ。いつもは口うるさく手を洗え嗽をしろと言ってくるくせに、今では何でも気にならないようだった。ネクタイを解き、シャツのボタンを第二まで開ければ、なんだか上手く吸えていなかった空気がいきなり飛び込んでくるものだから、少し咳き込んでしまった。
そもそも、いつもはぼくの方がはやく家についている筈なのに、どうして今日はノボリのほうが早かったのか。そんなのは単純明確、日頃の酷使に耐えきれなかったシングルトレインが昨日、遂に大破したからだ。原因はトレーナーの毒タイプのポケモンが放った強力なスモッグに、兄のシャンデラのオーバーヒートが引火したことだろう。なるだけ自己負担額を減らしたかった兄はトレーナーのせいにしていたが、兄がそろそろシングルトレインの改装をしたがっていたことを知っていたぼくからすれば、なんとも可哀想な話だ。被害総額は億を少し超えるだろうか。
そんなことがあったものだから、兄はやり慣れた書類の通しと後輩指導、そして巡回だけでさっさと帰ってしまった。勿論シングルトレインが故障とあれば、そのツケはダブルトレインに回される。恐ろしいほどの挑戦者の数に悲鳴すらあげながらもぼくは何とか全てのトレーナーを下し、休憩無しの十八時間勤務を終え、やっと帰宅してみれば、あの兄が酔いつぶれている。何もぼくは、疲労困憊の上に兄が面倒くさく酔いつぶれていることに不満があるわけじゃない。大体時間帯だって良い頃だし、何より今日は金曜日の夜だから、そんなふうに怒ったって良いことがあるわけがない。何をバカなことを、と思う人もいるかも知れないけれど、そんなものなんだ。
本当はぼくだってお酒をのめたら良いのだけれど、生憎と下戸に過ぎるこの体はアルコールの匂いだけで精一杯だった。靄のように部屋に立ち込める匂いと焦燥が脳を揺さぶると、ぼくまで酔ってしまいそうだった。
「まだ暫く飲んでいるかい?ぼくも、ジュースでも飲みながら、付き合うよ」
「気を使わせてしまい、申し訳ございません、あなたのような良い弟を持って、わたくしは幸せでございますよ」
「いや、そこのカゴの中の、レモンが実に美味しそうでね」
これは嘘じゃない。テーブルの上に置かれたフルーツのカゴの中には青いレモンが二つ、ひっそりと身を寄せていた。
ジャケットを脱ぐとハンガーに掛け、クローゼットへとしまう。そうしてやっと手を洗い嗽を済ませてしまうと、腕捲りをして前掛けエプロンをつけて、カゴからレモン二つを取り出す。レモネードでも作ろうかと、戸棚を開け蜂蜜の瓶の中を覗けばとろりと光る黄金色がそれはもう沢山見えて、思わずふふふと笑ってしまった。お酒はめっきり飲めないけれど、その代わりにぼくの舌は大抵のものは美味しく感じるように出来ているらしい。チョコレートやケーキなどの甘ったるいものなんかも、大好きだった。それこそビールよりペプシ・コーラが、ワインよりもグレープジュースのほうが好きだ。何だってあんなにも甘くて美味しい果物を、渋くて酸っぱいワインにしてしまうのか、ぼくにはとんと理解が出来なかった。ぼくに分かることなんて世界の半分もないけれど、ワインの有無なんて、余計に難しい問題だろうか。
考えながら作業をすればあっという間で、目の前の作り慣れたレモネードは、綺麗なピンク色を帯びた透明色をしていた。底に沈む僅かなピンクグレープフルーツの果肉が何ともいえない屈折した光を放っている。
スプーンでかき混ぜ、味を均等にすればピンクが風に舞うようにしてグラスの中で踊った。まだお酒を飲めなかった幼いころに、ノボリから教えてもらったレモネードはキツいくらいの蜂蜜の甘さが丁度良くて、よく作るものだ。そう言えば昔は、今よりもずっと不器用で、レモネードも上手く作れなかったな。そんなようなことを考えながら、スプーンで混ぜ続けていると、真っ赤な顔をしたノボリがジッとこちらを見ているのがわかった。
「美味しそうですね」
「そうでしょう」
「昔は、あなた、教えてもうまく作れなかったのに」
「うん」
「いつの間にこうなってしまったのでしょう」
こう、とは、どれのことを指すのだろうか。ぼくのこと?ノボリのこと?それとも、ぼくらのこと?
「ノボリ、ダメだよ」
「わたくしはあなたの兄ではないのです」
「それ以上は」
「わたくしはあなたに、なりたかった」
ぐるぐるとかき回したグラスの中のように、目まぐるしく変化する心境を抑えきれないようなノボリに制止の言葉をかけるものの、それは大した意味をなさず、酔った彼を止める方法なんてないようだった。涙の膜を張った目が細められ、今にも流れ落ちてしまいそうだ。ぼんやりと思いながら、子供のように表情を歪めたノボリに、過去がフラッシュバックする。
「お酒など、好きなわけではありません、ほんとうは眠たくてたまらないし、あなたに迷惑だってかけたくないのです」
「そう」
「しかし、一体どうして、酒を飲まず、あなたに迷惑をかけなければ、満足に一緒にいられぬのでしょう、地獄に落ちてしまいたい、こんなわたくしなど、お嫌いでしょう」
「そんなことあるもんか、ノボリ、いっぱい話して泣いたって構わないよ、今日は金曜日の夜なんだからね」
涙をぬぐい、頬にキスをすると、グリースで固めていた髪が乱れたのにも構わず泣き続けるノボリに、ああそう言えばと思い出す。
君って昔からぼくと同じくらい、不器用なんだったね。








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