猫の毛のようにフワフワとしたその髪は更に手酷く寝癖がついていた。それを笑うでもなく、眠たげに目を擦った彼に声を掛ける。
「…おはよう」
「ふぁ…おはようございます」
告げれば、わたしと同様の言葉を返したアーティは大きな欠伸を掌で隠してぺこりと頭を下げた。その都度フワフワと揺れる髪に目を奪われながらも目を通すのみであった文学作品をテーブルの上に伏せる。それが気になったのかジッと視線を投げてくるアーティにまた笑う。
「顔を洗ってこい、朝食の準備をしよう」
「んぅ、すみません、起きるの早いんですねぇ」
「もう年寄りだからな」
「そんなことないですよ」
普段よりも細く、抑揚の無い声がそれでも意志を伝えようと奮起をしているのが分かる。頭を撫でてやれば嬉しそうに目を細められ頬にキスをされたかと思うと立ち上がり洗面所へと向かうアーティの後ろ姿を眺めながらも、ふと栞すら挟まずに閉じてしまった文学作品を見つめる。普段はこんな間抜けなことはしないのに、これでは次にどこから読めば良いか分からない。もはや興味を失ったものから目をそらすと溜め息をつき立ち上がる。途端にひやりとした冷気が体を包み、長年この地に暮らしてきたわたしですら身震いをする。
あの朝に弱いアーティがこの気温の中頑張って起きてきたのだからなにか温まるものでも作ってやろう。人一倍彼に甘い自分に気が付きながらも台所へと向かう。思えばわたしも朝食はまだであったのだ。




「今日はいつ頃出掛けるんだ?」
朝食を食べ終わり暫く息を付いていたアーティに問えば、ぎくりと肩を揺らしてこちらを見た。悪戯が途中でバレてしまった子供のようだ。すっかり直された寝癖が少し惜しいほど。
「えっと、今日は…このお部屋の中から、描こうかなとおもってます」
「寒いからか?まあこの吹雪の中何時間も外に出ているのは勧めないが」
「あう、そっそんなわけないです」
しかし寒いのに弱いというのもまた事実だろう。炬燵に入り、すっかり暖かく感じているわたしとは違い家の中にいるというのに鼻を赤くしているアーティに驚きつつもエアコンの温度を一度二度と上げていく。その間にもアーティはすっかり眠気のとんだぱちりとした大きな瞳に情熱の炎を燃やし、フワフワとした髪をゴムで結ぶと袖を捲った。筋どころか骨の浮いたあまりに細い腕は既に見慣れ、今更に驚きも浮かぶことは無かった。そうして着々と彼の仕事場が広げられていく。以前に見た彼の家とは違い随分と簡素でいて、画材も少ない。使い古してあるが綺麗に磨かれたパレットは、彼の人間性を表しているとおもった。新聞を敷いた畳の上に座りキャンバスを見つめたアーティは指遊びをしながらも、既に彼独自の世界を生きているようで。
普段はあれだけ子供のようにはしゃいで、無邪気にしているのに今のアーティと言えば気迫すら感じられるほど強い人間のようだ。こうなってしまえば例えわたしが何をしようとも反応を示すことはない。アーティのこの姿を見る度に何故わたしがこんなにも若い彼を想ってしまったのかがわかる。セッカの降り積もる雪のように混じり気の無い白ささえ浮かぶ。まるで夢を描くためのキャンバスのように、アーティ自身が白い。外見上の話ではなく(いや、確かに殆ど外出しない彼の肌はその人種も相俟って考えられないほど白いが)その心が白い。
彼は芸術家だ。愛憎や名誉、金で汚れた黒い心では幾ら上手かろうが人を引きつけてやまないあの絵画は描けない。しかしどれほどの人間であれば自らの欲を捨て、その夢だけをキャンバスにぶつけられるのだろう。あまりにも純粋な彼に目がくらむ。月並みの表現しか出来ぬが、今まで生きてきた中でアーティほど芸術家の名の似合う者もいないだろう。幾らも離れた年の差など気にならないくらい、わたしは彼の人間性を愛してしまった。窓を叩く風と雪も、彼にしてみれば愛する世界の一つだろう。真剣な横顔を眺める度に考える。伏せられた長い睫の先、いつだって無限の可能性を見つめる彼。双眸にうつるものがもしもわたしとは違うものならばそれは、
(どれだけ美しいのだろう)




「――さん、ハチクさん」
肩を揺すられ聞き慣れた声が脳を覚醒へと導くと、明けた視界一杯に彼の顔が現れ思わず目を見開いた。そんなわたしに彼も驚いたようで悲鳴をあげ後ずさった。…失礼な奴だ。
「わ、わあ、ハチクさん、おはようございますぅ」
「…寝てしまったか」
「あっおでこに寝痕ついてますよ」
そう言ってふふふと笑われたが、そんなアーティの額にも綺麗なグリーンが走っている。
「アーティ、額に絵の具が付いているが、わざとなのか?」
「え?ああ、ほんとだ!いつ付いたのだろう」
鏡を見ると恥ずかしそうに笑ってわたしに抱きついてきたアーティの薄い背に腕をまわし抱きしめ返す。人の体温というのが実に心地良くついまた眠りに落ちそうになるがなんとか意識を保つ。堕落したわたしの意識を保たせたのは夕日に照らされ橙色に輝く雪の光の他ならなかった。眠ったのが昼前だとして、どれだけ長い時間眠っていれば夕方になると言うのか、考えるのも恐ろしい。
脳内を駆けめぐる怠惰の二文字はこの際過ぎてしまったことと無視をして、意識をアーティへと向ける。よく見れば額だけでなく指先や腕にも僅かに絵の具の色味が残っている。彼の仕事場が綺麗に仕舞われているのを見ると今日はもう描かないということだろう。そうして手や腕の汚れを落としたのならどうしてこんなにも目立つ額の汚れだけ気付かなかったのか。時に驚くほど抜けた行動をして見せるアーティには未だに慣れる気がしない。
「済まない、腹が減ったろう」
「いえ朝ご飯食べたの遅かったですし、ハチクさんのお昼寝姿なんて見れて、嬉しいなあ」
後半の言葉には無視をするとして、腹が減らないというところが不思議だ。随分と燃費の良い体を持っているんだなと関心すら浮かべながらも背に回していた手をゆっくりと腰に移す。すると今まで飄々としていたアーティがびくりと体を震わせた。
「…アーティ?」
「あ、ハチクさ、その、ご、ごめんなさい」
久しぶりなんで、と申し訳なさげに呟いたアーティは腰を掴むわたしの手が余程気になるのかそれだけで顔を赤くし涙で目を潤ませこちらを見上げてくる。先程までの無邪気なハグとは違い色を含んだ雰囲気にくらりときた。透けるように白い頬に手をそわせ、そっと覗き込むようにして見つめれば照れたように顔をそらされる。
「今しても良いが…夜にしないか?」
耳元で告げれば、赤くなった顔をこちらに向けて唇を尖らせたアーティが恨めしそうにキスをしてきた。
「んぅ、僕とするの、嫌ですか?」
「何もかも済んでから、ゆっくり愛したい」
「えっ、あ…」
「それとも…激しい方が、君には合っているのか?」
笑みを含み、ワントーン下げた声色で聞けばすっかり顔を赤くして慌てふためいたアーティはわたしの腕の中から逃げ、距離を置き立ち上がるとたどたどしい口調で話し始めた。
「よ、よるごはん!何に、しますかっ?僕つくりますから、ま、まかせてください!」
「ふふ…なら頼もう」
「はい!」
飛び切りの笑顔で返事をしたアーティは足早に台所へと向かう。その反応につい笑みをこぼしながらも今夜はどんな夜になるだろうと考えていた。




「…ごめんなさい、ハチクさん」
悪気はなかったんですけど、と謝るアーティの後ろには何をしたのか、黒焦げになった台所。もはや昔のかたちが思い出せないほど変形したそれにくらりとしながらも許してしまう自分は、やはり彼に甘いのだろう。
「…君は一人で料理をしては駄目だ」
「あうぅ、ごめんなさい…」
「だから次は、一緒に作ろう」









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